5.4
人間とゴブリンとの戦いは圧倒的な差で人間の勝利となった。
どうやってゴブリンの敗戦が決まったのか。ゴブリンは白旗を掲げたわけではない。
無意味さを悟り、白旗を掲げようとした者もいたが、それは遅すぎた。人間は後顧の憂いを断つために、ゴブリンというゴブリンを殺していったのだ。
もう争う気はないなどという言葉を人間が聞き届けることはなかった。もうやめようという選択肢は人間の中になかった。
人間は同族を虐殺した自分たちを憎むゴブリンが発生するかもしれない、と、穏健なゴブリンが住処とする森に火を放った。
彼らはもうなりふりかまっていなかった。最初はただ神や人間を騙るだけの不埒者に過ぎなかったゴブリンが、まるで神が本当に存在しているかのように進化という恩恵を受け、人間の持たなかった魔法という文化を拓いた。存在するとも知れないゴブリンの「可能性」を恐れて、人間はゴブリンという存在をこの世から消し去ろうと動いたのだ。
最後の抵抗をしていた過激派のゴブリンも人間の圧倒的武力、そして使い慣れてきた魔法の前に成す術もなく倒れていった。
もちろん、進化を遂げたボブゴブリンやオーガといった種族も根絶やしにした。それもこれもやはり、人間に仇なす者をなくすためだ。相手に戦意が今はなくとも、いつ翻るかわからない。人間はそれだけゴブリンを恐れていた。
ゴブリンに圧倒的勝利を収めた人間でも、やはり多少の犠牲はあったのだ。その際に垣間見たゴブリンの狡猾さや残虐さに恐れを抱くのは仕方のないこととも言えた。
まあ、森という森に火を放った人間も、残虐さで言えばもうゴブリンに引けを取らない。むしろ、ゴブリンすら凌駕するかもしれない。
森の奥深く深い場所にいたナノとカルは気づくのが遅れた。
最初に気づいたのは、ナノと共に食料となる植物や動物を探していたカルだ。森に結界を張っていたのはカルなのだから、彼が気づくのは当然と言えよう。
「ナノ、人間が近くにいる。早めに戻ろう」
カルの忠告にナノは素直に頷いた。
まだ食料は不足していたが、二、三日は食べなくても平気だ。身の安全が優先だろう。
ナノが花畑に戻るため立ち上がったそのとき、更なる異変に気づいた。
「カル……変な臭いがしない?」
ナノが不審そうに首を傾げるのに、カルはすんかと鼻をひくつかせ……噎せた。
「だ、大丈夫? カル」
「うん。それより、まずい……」
カルは二つの危険なことに気づいた。
一つは、この臭いが木を焼く煙の臭いだということ。もう一つは、今噎せた拍子に結界が揺らいで……
「いた! いたぞ! ゴブリンだ。二匹もいやがる!!」
「まずい、ナノ、逃げるよ」
「あっ、はい」
結界が揺らいだ隙に、害意のある人間が森に侵入してきた。
ゴブリンは自分たちが元々人間になるはずであったことを知っているから、ゴブリンのことを「一人、二人」と数える。しかし、ゴブリンを人間と認めていない人間は他の動物のように「一匹、二匹」と数えるのだ。
カルに手を取られて、ナノは森の深い方に走った。火が放たれているのは勘づいていたが、森の外に逃げれば、人間の思うつぼ。先程の声がけからわかる通り、森の外には人間が複数いるのだ。森から出たら、人間になぶり殺されることは想像に易い。
それにナノとカルにはまだ湖という砦があった。火の手が森中に広がってしまっても、湖に潜れば、やり過ごせる。
二人の短い足では、花畑まで戻ることは困難だろう。一応、花畑にはカルの結界が張ってあるため、花畑自体は無事で済むはずだ。
今考えなくてはならないのは、その花を育む自分たちが生き残るということ。
だが、その希望を摘み取るように、人間たちは見る間に二人に追いついてくる。ゴブリンの短い足と、戦いに慣れた人間の脚力とでは差がありすぎた。
森を焼き尽くさんとする炎も、カルの光魔法があまり効かない。魔法ではなく、人間が技術によって生み出した炎なのだろう。光魔法も魔法と物理の相性の例には漏れなかったようだ。
「光魔法を使うゴブリンだ! 魔法は使うな!」
「くっ」
光魔法の存在は人間も知るところだ。研究もしているのだろう。魔法と物理の相性の例に漏れないことはわかっていたらしい。代わりに、魔法ではなく、物理的な矢が二人に降り注ぐ。
結界を使えば弾けないこともなかったが、魔法が乗せられていない矢は結界を抜ける可能性があった。そんな危険にナノを晒すくらいなら、とカルは一歩を踏み出す。
その小さな腕でナノを抱き上げる。抱え込むようにして、走り抜けていく。
「カル……っ!」
カルの無茶を抱えられながら感じ取ったナノは、けれど、他にできることもなく、ただ縮こまっていた。暴れてしまえば、カルを更に危険な状態にすることとなる。
そんなことはできない。二人で無事に生き延びるんだ……!
カルは一切魔法を使わなかった。魔法を使うことで人間への害意の表れと見られることを恐れたのだ。カルは逃避行をする間、「人間に攻撃しない」というナノの在り方に倣ったのだ。
逃げれば、湖がある。そこに入れば放たれた火から逃れることもできるし、人間の矢にも狙われにくくなる。
そこまで、どうか保ってくれ……! 祈りながら、カルは走った。
全力疾走でも、その短い足の歩幅ではそう速くは走れない。それでも、湖の姿を視界の隅に捉えた。
そこで、カルの眼前に短い矢が刺さる。カルは一瞬止まり、周囲に鋭く視線を走らせる。
木々の上方に気配──人間に何人か、先回りをされていた。
だが、止まるわけにはいかない。カルは湖に向けて、ほとんど跳ぶように駆けていく。
湖はほとんど目と鼻の先となったそのときだ。
「危ない!!」
カルはそう叫ぶと、ナノを手放した。湖の方へと放る。
ナノは一瞬何が起こったのかわからなかった。ただ、自分が手放されるのとほとんど同時に何かが肉を貫く音がした。
信じられない心地で目を見開き、ナノは手を伸ばしても届かない距離にカルを見ながら、湖へと落ちていった。
何が起こったのか。目はやけに明瞭に捉えていた。だが、頭は理解を拒否した。
カルが胸を矢で貫かれている、なんて。