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このファイルの調査をしなければ何もできないが、それより、疲労感が勝り給湯室のソファで眠りについた。
早朝八時、仮眠室やオフィス内に、合成音声で作られた女性のアナウンスが響く。機械的な音声ではないが、違和感のあるような合成感も全く無い。知らずに聞けば、録音してある女性の声その物だろう。
例えるなら、クラスに一人は居てほしいマドンナ的なおとなしめ女性。しかし、あまり喋らないせいか、声は少々高め。理想の女性におはよう、と言われた事をイメージしてもらっても構わない。とどの詰まり、男の声で、起きろ、仕事の時間だ。と言われるより断然いいと言うわけだ。
当然のことながらこの職場には、男性だけではなく、女性も居る。知らず知らずのうちに、好きな人理想図を調査されていて、聞く者によって声の感じが変わる。そんなプログラムされているかもしれない。電脳なら可能だ。
そして、うるさ過ぎない程度の音量で流れる、軽快なテンポのテクノポップ。ドラムや電子音が段々と増えていくと目覚めるようになる設計。
電脳に作用するように、音声内に電脳使用者が覚醒するような波長を乗せることが可能だろう。それなら、わざわざテクノポップではなくてもいい気がする。どうせなら、ジャズに乗せてくれた方がおしゃれな目覚めになっていいと思うんだ。
カップか何かに、液体を注ぐ音。昨日は礼司の依頼を見てから、対処がめんどくさくなったことに加えて、連日の泊まり込み作業で疲れていたんだ。今俺が寝ているのは、給湯室のソファの上だ。
「――今日はデスクの上じゃないのか。まぁ、ソファで寝た方が疲れは取れるだろうな」
ぼんやりと目が覚めたところに、同僚である相田がコーヒーを片手に話し掛けてきた。さっき聞こえた液体を注ぐ音は、カップに注がれるコーヒーの音だった。
俺が起き上がると、相田はコーヒーメーカーからできたての熱々のコーヒーを俺に渡した。俺はずずずっと一口飲み込み、熱い液体が胃に落ちていくのを感じながら答えた。
「2日ほど泊まり込んで分かったんだ。デスクの上で寝るのは、体が痛くなるんだよ」
「なるほど、それでデスクから近いこの給湯室のソファで寝てたんだな」
それなら仮眠室まで頑張れよ。そのようなことを少しだけ後づけするように、相田はコーヒーを飲んだ。
最近はこんな生活を繰り返している。始業が9時の終業17時。加えて、22時から日付が変わるまで仕事したら、そのまま泊まって朝の始業の繰り返しだ。
昨日は、と言うより今日の夜中の1時まで、泊まり込みで仮眠室はおろか、ソファすら使っていなかった。連続で泊まり込むという状況になり、ソファの方が寝やすいということは知った。
「おいおい、身体壊すなよ……。それで完成したのか、サポートシステムは」
持っていたコーヒーを啜りながら、俺のデスクに向かう相田。やはり気にする部分はここだった。
「ああ、完成だ。後は導入テストと全体の動作テスト。今日はこれをやるだけだ。が、悪いが俺は、これから帰らせてもらう」
相田が、完成したプログラムのソースコードを眺めている後ろで言った。しかし、2日間の泊まり込みという物は、肉体的にも精神的にも苦痛を伴う。いい加減帰りたいものだ。
「その言葉が聞けて安心したよ。二つの意味でね。デバックは俺の班の仕事だ」
同期という事もあったが、プログラム班とデバック班のデスク境界線が、俺と相田の所だった。それのせいか、自然と仲が良くなっていた。こんな風に結構気遣ってくれたりもする。
すると、何かを思い出したかの様に、コーヒーを飲み干し俺言った。「ああそうだ。疲れているだろうと思って、2週間分の休暇申請お前の代わりに出しといた」
「おまっ、長期休暇の申請なんか何出してんだよ。勝手に人の有給使うなよ! 」俺が焦りとも怒りも混じったように言うと、相田はなだめながら続けた。
「まぁまぁ落ち着けよ。お前の有給使って長期休暇出しちゃ居ないよ。使ったのは、同じチームの奴らの残業だよ。プログラムチームの奴らが代わりに仕事をするって言う、上申書を捏造したんだよ」
こいつはとんでもない事をしてくれた。確認したら、きっちり2週間の休みが取れている。しかもその休みは今日からになっていた。思わずして出来た休みをどのように楽しむか考えつつ再びコーヒを啜った。「なぁ、このコーヒーそんなに旨いか? 」
俺は疑問だった。この職場にあるコーヒーメーカーから出るコーヒーは不評しかなかった。そんな中、よく飲むのは相田くらいなものだ。舌がおかしいのか、それとも電脳で味覚をおかしくして、旨く感じるようにしているのか。
普段は聞かないが、この流れと泊まり込みによる謎テンションで聞けた。「ああ、旨いよ。まぁ皆んなはまずいって言うけど。変に缶コーヒー買うより旨いね」
「ああ、そうか…… 」と言った後に電脳のシステム更新と同じ5月1日に、あのコーヒーメーのAI更新あるってよ。この味は今月中しかないぜ。と言っておいた。
俺は事実を言う。あのコーヒーメーカーはAIがおかしいんだ。そのせいで、相田の電脳の味覚に関する部分がエラーを起こしている。そう信じたい。