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スーパーコンピューターが並行処理速度を上げるが、グレゴリオ暦より精度の良い暦を作ること無く2060年まで世の人々はグレゴリオ暦を使い続けている。
そんな4月も残す所24時間を切った所だ。未明という表現もできる。この電脳開発センターのあるフロア。同じデスクとオフィスチェアー、パソコンが無機質に等間隔で綺麗に並ぶオフィスの一角。自分のデスク付近一箇所だけ蛍光灯を付け俺は忙しく作業をしていた。
何をどこまでを危機と言うべきかによるが、今この状況は危機だ。
俺は夜中のオフィスで一人、モニターを凝視していた。泊まり込みが続き長く伸びた髪の毛は、フケが見え、ボサボサになり寝癖は直されていない。
オフィスという環境にこそ助けられて居るが、公園にでも居ればリストラされたサラリーマンそのものだ。
俺が今直面している危機。一応、国際指名手配犯が、何年と逃亡生活をする事に比べたら明らかにマシだろう。カテゴライズするなら、会社的かつ社会的で、国際的な危機なのだ。
何故たった一人に国際的な危機が迫っているのか。九十九一成という人間は、首相でも無ければ、大臣ですらない。今モニターを凝視しているのは、プログラムのソースコードだった。これがその原因だ。
そのプログラムは、日本全国で使用する電脳ネット専用プロトコルと、電脳サポートシステムなのだ。国際的に危機というのは、国際機関によって作られたプロトコルに対応したシステムに導入する事。コンピュータ的な表現ならファームウェアやOSと言った用語が適当だろう。どちらかといえばファームウェアが近いのだろうか。
通常なら、対応部分の既存システム変更で十分なんだが、今回は大型アップデートのようで、システムをベースから作る必要ができてしまった。
もちろん俺一人に任されている訳では無い。が、他のプロジェクトメンバーは早々に帰宅、定時内でのみ仕事をしていると言った具合だ。
本来ならば、今月の始めに切り替えの予定のはずだった。サポートプログラムの未完成で来月に持ち越しになってしまったのだ。
電脳によって網膜に表示された時計を見て深くため息をついた。もう日付が変わってからしばらく経っていたのだ。憂鬱な気持ちで一杯になり、キーボードを叩く指を止めた。椅子に深く座り込み、疲れた目を休ますように、頭を背もたれに乗っけ天井を仰いだ。少しの間の瞬きでさえ、網膜に映った時計は鬱陶しく思うほどに消えなかった。それよりも、眼球が脳みその中に飲み込まれるような埋没感が、網膜に映し出される時計の鬱陶しさを紛らわした。
もう夜中の1時になろうとしている。こんな日がずっと続いていたが、一つの節目が見えて安心できたのだ。サポートプログラムの完成とデバッグ作業終了で、プログラムの動作確認を残すだけとなった。
重々しくモニターへ目を移すと、メール通知が表示されていた。今どき電脳でのコミュニケーションで、メールという物は化石と化しつつあった。過疎化したメール文化を利用するものは、千里礼司、奴しかいない。俺の高校の時の友人であり、今は、フリージャーナリストとして活動している。不定期ではあるが電脳の危険性を伝える記事を書いているのだ。このメールは、その記事の手伝いの依頼だ。
礼司の親が電脳ネットの依存で、起きている時間は極僅かになるオーバーコネクターと呼ばれる症状になっていて、礼司はこれがキッカケで電脳を使わなくなっている。何かしらの電脳専用の資料を調べて欲しい時は、旧知の仲という事もあり俺を頼って来る。
『久々に仕事を頼む。いつもと同じ電脳専用ファイルの通常データ化と、書きかけ記事のテキストファイルが入ってる。それの感想も欲しい。データはお前の仕事場に届けておいた。報酬はいつもの方法で渡す』
大体こういうメールが、2〜3ヶ月に一度のペースで届く。今回は間が空いて半年ぶりだが。仕事場に詰めっぱなしの俺としては、これで息抜きしているようなもんだ。
俺は荷物の届く集合ポストに行き、封筒に入ったUSBを手に取り、またデスクに戻る。
そのUSBをコンピューターが読み込み、モニターにファイル一覧が表示される。メールの内容通り、記事の書きかけと思われるテキストファイルと、“資料.eb.exe”が有った。
記事の書きかけは、暇を見つけて読むとして、この資料だ。電脳専用の実行可能形式ファイルだ。大体は自分の感覚に、直接信号を与える様プログラムされたものだ。実行ファイルその物があるパターンは、今回が初めてだ。大抵はネット上にある実行ファイルへのリンクなんだが、金か何かで買ったんだろう。
俺はこの実行ファイルを起動させたかったが、一つだけ突っかかる所があった。それは発行者の名前が不明になっていたのだ。
現在の電脳ネットで、発行元不明の実行ファイルと言うのは、ファイルが壊れているか、不正なファイルという事になる。
不正なファイルとして目下有名な物は、電脳ネット超過接続時間ツールという事になる。こういった不正ツールを利用させない為に、今作成しているサポートプログラムを制作していたのだ。
半年前のメールを見返してみたら、文章が全く同じという手抜き状態だった。
憶測に過ぎないが、このファイルの解析が目的だろう。更に過去のメールを遡り閲覧したが、1年半は同じ文章で送られていた。いつもの癖でやったんだろう。