エマ・アイハラ来日
ここは、高度約33000フィート(約1万メートル)上空。
辺り一面、ただひたすら青い天空の海と白いやわらかそうな雲に覆われた景色の中を1機の旅客機が飛んでいた。
――ふわふわと揺りかごのように揺れる機内の中で、私は窓ふちに肘を乗せ、窓の景色に浮かぶ巨大な島をじーっと見つめる。
窓には、西洋の人種の20代半ばの女性――我ながら宝石みたいに鮮やかな色を持つブルーアイ、後ろをポニーテールにまとめた金髪、ほっそりとした輪郭の顔面の私が、景色に被って映っていた。服装は、薄赤色のセーター、鼠色のミニスカート、黒いタイツといったモダンなものである。
1/13(Mon)PM7時21分。レーシングジャーナリストの私“エマ・アイハラ”は現在、日本の東京に位置する名古屋セントレア空港行きの、“ジャンボジェット”ことボーイング747に搭乗しております。ジャーナリストという名の仕事が示す通り、取材の仕事が入ったので、昨日イギリスから日本に向かうことになっている。
イギリスのニューヒースロー空港からの15時間もの長いフライトだった為、シートベルトでシートに固定された身体はもう既に疲れ果てきっており、おまけに時差のせいで安眠ができなかったので、さっきからずっとあくびを繰り返してる。
私を含め400人以上を乗せた747型機は、ちょうど今空港に着陸するべく、下降しながら大きく右に旋回しているところだ。身体が浮き上がるような感覚に晒される上、気圧の変化によってボーンと耳鳴りも発生しているせいで、気分は最悪である。
そんな中、私は窓に映る島を呆然と眺めながら呟く。
「久しぶりね。日本。」
地上が目前に迫まった所で、747型機は機体前方部と後方、左右の翼の下から車輪をそれぞれ出し、空中から滑走路への着陸に備える――
――ガタン!
地面に着陸した時の強い衝撃と、ジェットの逆噴射による減速Gによって、私たち乗員の身体は激しく揺らされる。
着陸から滑走路上での減速までの行程を無事に済ませた747型機は、滑走路をゆっくりと進んでいき、ターミナル前、他の旅客機が横一列にズラリと並んでいる駐機場に止まる。
それを確認した私は、荷物入れからボストンバッグをささっと取り出し、座席の下に畳んで置いてたベージュ色のコートを急いで羽織り、他の乗客達の濁流に押し流されるように、15時間もの時間を共に過ごした機内から降りていった。
「お疲れ様747」と言い残して。
客室出口とドッキングしたボーディングブリッジを伝って、私は空港のターミナルの中に入る。ターミナル内では、言わずもながら日本の言語である日本語と、今現在世界共通語句としての存在が急速に高まってきた英語による館内放送が、ゆっくりとした口調で、日本語が先で英語が後という順で、交互に流れていた。日本人の父とイギリス人の母を持つ私は、この放送――日本語と英語の放送――の両方の意味をしっかりと聞き取ることができていた。ただ、その内容のほとんどが、次の飛行機のフライト時間に関することだったので、特に気にすること無く、順路に沿ってターミナル内をテクテクと歩を進める。建物の内装は、「ここは日本です!」と主張しんばかりに、和風一色で固められていた。カーペットは畳のように若葉色を始めとした鮮やかな緑色で彩られ、窓ガラスの骨組みは障子を意識したデザインで、ベンチは鳥居のように光沢の強い赤と黒で塗られている。ふと壁を見てみると、正月ということもあってか、巨大な門松の絵が描かれていた。
それから私は、面倒な金属探知機による取り調べ、入国審査や荷物の受け取り等を終え、ターミナルから外に出る。
「寒っ!」と、私は呟いて両手を口に近づけ、それに向けて息を吐く。今の日本は、イギリスと同様真冬の時期。寒くて当然だ。
空港手前のバスターミナルからも、朝ラッシュで次から次へと離陸または着陸していく旅客機がチラホラと見える。これほど飛行機が行き来してるのは、流石国際空港と言った所だろうか。
また、世界的にも大きな規模を持つ名古屋セントレア空港は、さながら“名古屋城”を初めとする日本のお城を髣髴とさせるデザインを持っている。屋根上部は緑青色の瓦で覆われており、遠くからみると屋根天辺の両端には天守閣までちゃっかりと置かれている。先ほどの内装からこの外装に至るまで、こんなに和のイメージが強調されたデザインが多いのは、グローバル化の進む世の中に遅れを取らないよう、自国のイメージを主張するよう政府からも言われているからだという。別にこれは他国でもやっていることであり、決して珍しいことでは無い。イギリスだとゴシック調の建物が多かったり、アメリカでは西部劇風の町があったりもする。
コートの袖を少しまくって時間を確認する。現在PM7時54分。バスターミナルの下の階にある停留所にて、私は人ごみに紛れてボストンバックを背負い、待ち合わせの約束をしていた知り合いを探す。
チラチラといろんな方向を見ながら人ごみの中をさ迷っているていると、ようやく探している人物っぽい人を見つける。
その人は、鮮やかな青色のスポーツバイクの運転席の上に腰掛け、片手に重そうなフルフェイスヘルメットを抱え込み、もう片手にスマホを持ち、イヤホンで音楽を聴いていた。バイクはスポーツバイクとしては比較的大きめで、乗りこなすにはそれなりの苦労が必要のはずだ。服装は、鼠色のネックウォーマーを首に巻き、藍色のコートの下に青いパーカー、黒いジーパン――といった感じである。
自分の記憶を疑いつつも、特長が一致しているとほぼ確信した私はその人物に近づく。ふと彼は、私の存在に気づいたのかこちらの方に向き直る。その顔は、絵に描いたような少年――――若干鋭さも感じ取れる大きめの瞳、眉毛や耳に被る少し長めの焦げ茶髪が特徴的な、あどけなさを色濃く残す若い日本人の若い青年の顔だった。見ようによっては、女の子にも見えてしまいそうな、可愛い系男子の部類に入るルックスだ。見た目上、とてもこんなバイクを乗る人物とは思えない童顔だ。
彼は片手を高く伸ばし、私に向かって大きく手を振る。
「こっちですよー? エマさーん。」
今の声、間違いなく彼だ。
「やっと見つけたわ。久しぶりね、ユウト君。」
私は内心深く安堵しながら、久しぶりに会った彼に挨拶する。
「はい。お久しぶりです。」
彼は私に向けてはにかんだ笑顔を見せる。
彼――ユウト・アキヤマは、F1レースの前座レースのF3レースで知り合った若手レーサーである。しかし彼は、21という若さであるのにも関わらず、今年WFRLの出場レーサー、通称“WFレーサー”になることが決定した、とんでもない実力者なのである。
WFRL――ワールドフォーミュラカーレーシングリーグは、F1グランプリシリーズと並ぶ、世界最高峰の自動車レースで、今世界中で熱狂的な人気を獲得している。参戦チームが用意する専用マシンの“WFマシン”は、F1マシンと同等、或いはそれ以上の速さを秘めたモンスターマシンで、エントリーするドライバー、チーム、自動車メーカーも、レース界では名の知れた所ばかりが出揃っている。特に、世界最速のWFマシンを駆る“WFレーサー”達は、多くの人々にとっての“ヒーロー”的存在である。WFRLのレースは、まるで映画のような圧倒的迫力と、世界規模の壮大なスケール、先が読めない一身攻防の激しいバトルにより、“自動車レースは時代錯誤だ”という批判を押しつぶして、世界中の人々を虜にしてきた。
そんなビッグレースにデビュー……つまりはWFレーサーとなるユウトはそれまで、レース活動を積極的に行う日本の大手自動車メーカー“ハクロウ”のワークスドライバーとして、F2を始めとする様々な国際レースで活躍し、その年齢の低さを感じさせないほどの素晴らしい経歴を積み重ねてきた。同時に才能と実力を磨き上げた結果、遂にそれが認められ、“WFレーサー”になれるチャンスを得られたのだ。
そんな彼の所属チームは、日本発のWFRLチーム、“ユキカゼ・レーシングチーム”。新興チームながら、日本のレーシングチームの代表格として活躍するプライベーター(自動車メーカーに頼らずに個人で運営するチーム)で、今日私が取材させてもらうチームでもある。
私は今日、“ユキカゼ”のマシンテストを取材させてもらうために日本にまで赴いてきた。ちょうど一昨日の(イギリスにおける)夜、以前から私と面識のあるユウトは、そんな私をテストコースにまで連れて行ってくれると言い、今わざわざ空港にまで迎えに来てくれた訳なのだ。
「わざわざ悪かったわねえ。こんな所まで迎えにきてもらっちゃって。」
ちょっと申し訳なさそうに、ユウトにそう言う。
「いえいえ。ここから鈴鹿まで電車とか行ったら、お金と時間がもったいなじゃないから、全然構いませんよ? それに、クミ姐や監督からも、行って来てって頼まれましたし。」
ユウトは特に気を悪くした様子も無く、飄々とした口調で返答する。
「あらそうだったの。」
私は口を卵形にしてそう言葉を溢す。
「でも、ありがとね。」
お礼を言われたユウトは、ちょっと恥ずかしそうな顔をしつつも、バイクの後部座席の方を指差す。
「とりあえず、そこのヘルメット使ってください。監督に、できるだけ遅滞無くって言われてますし。」
「分かったわ。じゃあ使わせてもらうわよ?」
私は後部座席にネットで固定された
、私のために用意してくれたヘルメットを取って被り、ボストンバックを両肩に掛け直して、ネットをどけてバイクの後部座席に座る。
ヘルメットをもう一度被ったユウトは、グローブを嵌めなおし、ヘルメットのバイザーを閉じ、両手でハンドルを握る。
と、ユウトは思い出したように、私に再び話しかける。
「あと、時間無駄にしないように、ちょっと飛ばしますね?」
「え? ああ、うん。了解。」
唐突に忠告され、言われるがままにオーケーを出してしまった。
――なんだろう? もの凄く嫌な予感がするんだけど…………――
「しっかり摑まっててください!」
ユウトは一度、右手のスロットルレバーをぶん回してエンジンを吹かす。そして、左手のクラッチレバーを握って左足のシフトペダルをつま先で押し上げ、1速ギヤにシフト。右足で地面を蹴り、右手のスロットルを再び回す。
直後、バイクは鋭く甲高いエンジン音を上げてターミナルから急発進する。
「ひゃあアアアッ!?」
強烈な加速のあまり、私はつい、ヘルメットの中で情けない悲鳴を上げてしまう。引き剥がされないよう、ユウトの背中に必死に這い蹲る。
バイクの速度はどんどんと、後部座席に乗ってさえいなければ笑えてしまうほどの勢いで上がっていく。
――ちょっとちょっと! 後ろに乗ってる人のこと考えて頂戴よ!――
エンジンの回転数を示す“タコメーター”の針がレッドゾーン(エンジン回転数の限界を示す、メーター奥の赤い所)を指す度、スロットルオフ、クラッチレバーを引いてつま先でペダルを押し上げてギアを入れ替え、シフトアップ。
再びスロットルオフ、クラッチレバーを引き、ペダルを押し上げ、シフトアップ。
慣れが必要なこの動作を、時速100キロを余裕に超えるスピードの中で、ユウトはいとも簡単に素早くかつ的確に行ってしまう。
空港内に敷地をあっという間に出て行き、ETCゲートを目の前にして減速する。
クラッチレバーを引き、ギアペダルを今度はつま先で軽く踏み、シフトダウン。その際、エンジン回転数が落ちすぎないようにスロットルを軽く回す。
ETCゲートを通過して交通量を払い終わると、再びスロットル全開。またまた、スロットルオフ、クラッチレバーを引き、ペダルを押し上げ、シフトアップ。
スピードは先ほどよりもさらに上がり、前方を走る車達が、まるで止まってるかのようにユウトのバイクの行く手を阻む。
――ヤバイッ!? ぶつかるってばッ!――
しかし、ユウトは平然と、右手のスロットルを緩めることなく、目の前に何台もいる車達の間を、右、左、右、左……へと、たまに2台並んで走る車の間を、まるで針を縫うようなライン取りで抜けて行く。その度に、私の左右の肩や背中のバッグが、車のボディやドアミラーを掠めてる気がして、もう恐くて仕方が無い。
――ほんと、そんな童顔からはとても想像できない能力持っているわね。流石ワークスドライバーといった所かしら…………――
半ばパニックってる頭の中の、辛うじて冷静さを保ってる部分を使って、私はそう思考した。
じっと目を凝らして、ユウトの肩がチラチラと被って見えにくいスピードメーターを見ようとする。メーターの針は〔200〕という文字の所を指している――――つまりこのバイクは今200キロ近くものスピードを出してるということじゃないか!!
背筋に、背中が凍ってしまいそうな、強烈が寒気が走る。こんな速度でもし今座席から落ちたりなんかしたら、間違いなくあの世行きだ。
――勘弁してよ! ただでさえ長時間フライトで疲れ果ててるんだからぁぁーー!――
私の心の叫びが届くはずも無く、ユウトのバイクはしばらくこの速度で疾走し続けた。
名古屋空港を出て1時間あまり。ユウトはサービスエリアの駐車場にバイクを止め、スタンドを立てて運転席から降り、近くのベンチに座っていた。その隣には、疲れ果ててぐったりと横たわっている私がいた。
「エマさーん、大丈夫ですかぁ~~?」
ユウトは私の顔を覗きこみながらそう問いかける。
「これの状態を見て大丈夫だと思うの?」
ぶすーっとした顔で、彼に質問で返す。
「いやぁ……アハハハハハー。」
――いや笑って誤魔化そうとすんじゃねえよ。――
笑ってやり過ごそうとするユウトのことを(できるだけ恐く見えるように)細めで彼のことを睨みつける。
「ハハ…………ごめんなさい。」
私の威嚇に負けたユウトはあっさりと謝る。
「素直でよろしい。」
私は大きな溜め息を吐き、上半身を起こし上げて続きを述べる。
「少しくらい自重しなさいよ。」
はは、と苦笑して、ユウトは、
「でも全開じゃありませんでしたよ? 日本の高速は道の繋ぎ目のバンプや緩いカーブのせいで、意外とスピード出せれませんから。」
「ヘエーそーなんだ。」
呆れた私は棒読みで返す。
――そういう問題じゃねえよ! 普通に危ないから飛ばすこと自体やめろっつてんだよ!――
と思いつつも、彼に再び質問する。
「いつもバイクに乗ってる時って、あんな感じなの?」
呆れた表情で質問してきた私に対し、ユウトは少し気まずそうに、
「まあ、忙しい時は、そんな感じですかね……」
「忙しい時、ねぇ…………」
私はジト目で彼の顔を睨む。
「そんなんだから、いつもアユミちゃんに怒られるのよ?」
「ウッ」と、ユウトから息を喉に詰まらせたような声が聞こえた。
「知りませんよ。あんな口うるさいヤツ。」
ユウトはプイッとそっぽを向いて、面倒くさそうにそう言う。
「子どもですか貴方は。アユミちゃんに同情するわ。」
私は呆れた表情でそう言葉を溢す。
「別にいつも飛ばしてるワケじゃないですよぉ。今日はたまたま、飛ばさないといけない理由がちゃんとあったんですから、そこんとこは許してくださいよ。」
ユウトはちょっと不てくした顔を見せる。
「ハァ……」と、
「話し変わるけど、ユウト君って何でWFレーサーになったの?」
そう言われた私は彼に質問を下する。
「へぇ?」
ユウトは何故か、素っ頓狂な声を上げる。それが面白かったので、思わず私はクスクスと笑う。
「どうしたのよ。私そんなに変な質問したのかしら? それとも、少し唐突だったかしら?」
「ああ。はい。その、少し唐突だったんで……」
ユウトは慌てて返答した。
「あらごめんなさい。でも、ずっとそれが気になってて、ついつい、ね。」
「いえ、全然構いませんよ。」
戸惑いつつもユウトは語り出す。
「……小さい頃、WFマシンのプロトタイプのデモ走行を見たんです。あのマシンが奔る姿が、もの凄く速くて、かっこよくて、力強くて……」
ユウトは一息吐いて空を見上げ、さらに言葉を続ける。
「それからしばらくして、WFRLのレースが開幕しました。それはもう、とんでもない迫力でした。観戦する為に海外まで出向いたこともあります。もともとモータースポーツが好きだったんですが、あのマシンに乗りたい、あんな凄いマシン達が集まるレースに出たい……そう思って、自分はレーシングドライバーになったんです。」
「なるほど。そんな経緯があったのね。」
私はクスリと微笑する。
WFRL、そしてWFマシンが、この世界に姿を現したした当時、カーレース界に激震が走った。
年々厳しくなるルールやレギュレーション、安全対策、そして近年意識が強くなってきている環境問題……自動車レースやレースカーはそういったものに縛られることが多くなっていき、退屈なレースが多くなりつつあった。カーレースファンやレーサー、その他関係者達はそう言った状況にうんざりしていた。そんなタイミングに突如現れた時代錯誤とも言うべき、ただ純粋に最速を決めるレース――――それが“WFRL”だった。
WFRLは、近年流行りの電気自動車やハイブリッドカー(内燃機関と電気自動車を組み合わせた車)を使わず、あえて時代遅れと成りつつあった純粋な内燃機関を使用し、“安価にかつ安易に速いマシンを用意させて走らせる”という考え方によって誕生したより速いモンスターマシン“WFマシン”を誕生させ、世界各国の都市を舞台にしたサーキット、ドライバーやチームに求められる高いレベルの技術とスキル、そして度胸……純粋に速さや迫力を、WFRLは追い求めた。その結果、多くのカーレースファンやレーサー、その他関係者達を強く魅入らせたのである。
私も数年前、このレースの魅力に惚れ込んで、自らこの取材を強く希望したジャーナリスト達の1人で、今となってはWFRL常連のジャーナリストとなった者である。ユウトがWFRLとWFマシンに惹かれた気持ちは、身に染みるほど分かる。
「両親にレーサーになりたいと懇願したとき、お金が無いから駄目だって、散々怒られましたけどね。」
ユウトは苦笑しながらそう言う。
「あらら。でも、無事にレーサーになれたと。」
「でも」と私は付け加えて、
「F1マシンのテストやらせてもらったのに、WFRLに行っちゃうなんて…………」
実はユウト、実力の高さが評価されたこと、ハクロウの支援があったことによって、去年レーシング部門のハクロウ‐ゼロが開発したエンジンを使用するF1チームにて、F1マシンのテストドライブをやらせてもらえたのだ。
「そこからF1ドライバーを目指すことだって可能だったのに、それでもWFレーサーになるのを選ぶなんて、贅沢な選択よ。」
「あはは……」
と、ユウトは苦笑する。
F2時代の頃から、WFRLに行きたいとプライベートで聴いていたものの、彼の判断の答えには正直驚かされた。
「でも、元々F1には行くつもりもありませんでしたからね。それに、ライセンス制もクリアするのも大変ですし。だからF1マシンのテストを受けた時も、WFマシンに対応できるようにするための予行練習のつもりでした。」
「なるほどぉ。確かにそのほうが手っ取り早いものね。」
私は感心するように、ウンウンと頷く。
“テクノロジーを競うF1“と“スピードを競うWFRL”……と対極的に捉えられるほど、両者はモータースポーツ界の頂点の座を巡って激しくいがみ合っている。
F1は、70年にも及ぶ長い歴史、F1マシンに用いられるハイブリッドなどの最新鋭のテクノロジー、大手企業の参入、厳しいライセンス制をクリアしたドライバー達といった、“1”を名乗るに相応しい豪華さやエリート性でWFRLを凌駕している。だが、それ故に高コストかつエリート重視のレースとなってしまい、チケットやテレビ放映権も高額で、レース自体も常に少数の強いものしか勝てないマンネリ化が進んでしまい、純粋にレースとしての面白さや迫力を重点に置いたWFRLに人気を掻っ攫われてしまっている。
ドライバーに関しても、直轄カテゴリーのF2以外のレースで結果を出してもライセンスを取得できないという、理不尽とも言えるライセンス制度が邪魔となり、多くの凄腕レーサーをWFRLに奪われてしまっている。そもそもとして、わざわざ大金を払ってまで勝つチャンスの少ないF1に参戦するよりも、予算が低くてドライバーの実力が反映されやすいWFRLに参戦した方が、普通に考えてお得なのだ。
「にしても、貴方図太いどころかもう生意気ね。F1マシンに乗るのを予行練習だなんて。罰当たりにもほどがあるわ。」
「はは……他の人達やブレスからもよく言われましたよ。」
ユウトは苦笑しながらそう答える。
「でも後悔はしてません。ようやく夢へのスタートラインに立つことができましたから。」
ユウトは、どこか遠くを見るような目でそう言う。
「そうね。頑張りなさいよ?」
「ありがとうございます。エマさん。」
ユウトは袖を捲って腕時計を見て時間を確認する。
「そろそろ出ましょうか。ちょっとのんびりし過ぎましたね。」
「できるだけ自重しなさいよ?」
私は皮肉を籠めた笑みを浮かべながらそう告げる。
「あはは。分かっていますって。」
――しかしユウトは自重するどころかさっきよりもさらにスピードを出し、私はまた命がけでユウトの背中にしがみ付く羽目になった。
PM9:11。ようやく私たちは目的地である“ミエ・インターナショナル・サーキット”に辿り着いた。大規模な遊園地も備え、F1の日本GPを始めとしたビッグレースが多く開催されることで有名なこのサーキットは、ユキカゼ及びハクロウの活動拠点の1つとなっており、今回のマシンテストの場となる。ここまで着くのに2時間も掛かったが、それでもユウトが飛ばしたお陰で多少早く着けたらしい。
出入り口のゲートバーを通過し、コースの下を掻い潜るトンネルを抜け、ピット裏にある巨大な駐車場に入る。そこに停まっているキャラバン(別名キャンピングトレーラー)の手前で、ユウトはようやくバイクを止めた。
ユウトはひょいっとジャンプするようにバイクから降りる。
「どぉっこらしょ……」と、女の子らしからぬおっさんのような声を上げながら私も後部座席から降りる。
直後、それに反応したようにキャラバンのドアが開いて、ユウトの子が1人、一瞬絹糸の束にも見えた栗色の長い髪をふわふわ揺らしながら駆け出し、私たちを出迎えに来てくれた。
「プハァッ!」と、ユウトは息を上げながらヘルメットを脱ぐ。
「お疲れ様ユウト。」
女の子は優しく柔らかな声で、彼にそう声をかけてあげる。
「ああ。だいぶ疲れたよ。ありがとアユミ。」
ユウトは彼女に顔を向けて礼を言うと、左手を首に当ててだるそうにその首をグルグルと回す。
「大丈夫?」と言って、女の子こと“アユミ”は、彼の顔を覗き込むように話しかける。
彼女“アユミ・スズキ”は、今年からこのチームにレースクイーンとして所属することになった、ユウトとは同い年の幼馴染みと同時に、彼直属のマネージャーである。本人曰く、レースクイーンになるのは今回が初めてらしいのだが、こんな可愛らしい見た目なら、レースクイーンに選ばれた理由も想像に難くない。全体像はまるで西洋人形のようだ。パッツンの前髪に被りかけた2つの大きな瞳はお人形さんのそれみたいにクリクリとしていて、柔らかそうな肌は練乳のような滑らかな白色。それでいて、胸やお尻も程よいサイズでスタイルもなかなか。腰まで届きそうな長さの栗色のロングヘアは、ハーフアップ(別名お嬢様結び)の結び目にはピンク色のフリル付のリボンが付けられていて、正しく清楚だ。また、白いダウンジャケット、レースがふんだんに盛られた黒のスカートといった服装が、彼女の可愛らしさをさらに際立たせていた。とにかく可愛らしい。
「私はもっと疲れたわよ!」
――ドスッ!!と、ボストンバッグ地面に落として、私はユウトに対して嫌味丸出しで愚痴を吐いた。
「え?」と、アユミが表情を瞬時に変えて声を上げる。
「本当ですか? すいません、エマさん!」
と、アユミは瞬時に表情を変えてペコリと頭を下げて必死に謝罪する。
「あ、いや……アユミちゃんは謝らなくてもいいのよ?」
と、困惑する私を他所に、アユミはユウトの方に向き直り、両手を腰に当て、また表情を変え、今度は口を大きく開き、怒鳴り散らす。
「ちょっとユウト! またバイクで飛ばしたの?」
「ウグッ!?」と、ユウトは声を漏らして、
「し……仕方ないだろ? 空港からここまでじゃあ、結構距離あるわけだしさ。」
ユウトはどうにか彼女に反論しようとする。
――が、アユミの説教が止まることは無かった。
「だからって、それで事故ったらどうすんのよ! エマさんも巻き込まれちゃうし、チームにも迷惑がかかっちゃうじゃないの! だいたいアンタはいつもねぇ……………」
アユミがガミガミとユウトに説教する様子を、傍から私は我慢し切れずにケラケラと笑いながら見ていた。
幼馴染のこの2人は、いつも一緒にいることが多いのだが、馬鹿でどこか抜けている性格のユウトのことを、生真面目で彼とはある意味正反対の性格のアユミ。この2人をサーキットやプライベートで見かける時は必ず一回、ユウトがアユミに叱られる所を見かけている。
でも、流石にこのまま放置するのは迎えに来てくれたユウトに申し訳ないと思い、ここは彼のフォローに入ることにする。
まずはアユミの肩にポンと手を置く。そして彼女に話しかける。
「いいわよアユミちゃん。取材当日に日本に来た私が悪いんだし。」
しかしアユミの生真面目さのレベルは、私の予想を上回っていた。
「でも、どっちみちユウトのことですから、必ずスピード出してましたよ。結局のところエマさんも危険な目に遭わせちゃったかもしれませんし……」
まるで自分の子どもが何かしでかして謝るお母さんのような表情で、アユミは申し訳なさそうにそう語る。
「……そんな簡単に事故らないから大丈夫だっての………………」
ボソリと、ユウトが呟いた愚痴をアユミは聞き逃さなかった。
両目を吊り上げ、額と額がぶつからんばかりに顔をユウトに近づけて彼に詰め寄る。
「……ユウゥ~~トオォ~~~~?」
ユウトの背中にバイクが当たる。重たいバイクが倒れてしまそうになり、ユウトは慌ててバイクを立て直させる。
「ちゃあ~~んとこっち見なさあ~~い!」
「わわ、悪かったよ! これからはちゃんと気をつけるよ! …………できるだけ、ね?」
ユウトはあっさりと敗北した。最後だけやけに声のボリュームが小さかった気がするが。
「どうだか! 私いっつも注意してるのに!」
アユミは腕を組んでぷいと彼にそっぽを向き、焼きモチのように頬をぷくーっと膨らませて拗ねてしまった。
と、そこに、
「説教はそれで終わったかしら? アユミ。」
ピットガレージのある方角から、30代ほどの、青とシルバーという、ユキカゼのチームカラーに彩られたベンチコートを着た、ウェーブがかった濃い茶髪のロングヘアと豊富な胸が印象的な、非常に大人びた雰囲気を放つ女性が1人、会話に割って入ってきた。
「ワワッ! キョウコ監督ゥッ!?」
ユウトを叱っている所を見られたのが恥ずかしかったのか、アユミは激しくテンパった表情を見せる。
一方ユウトは「チャンス!」とばかりに、急いでバイクを押し出して、アユミから逃げ出す。
「キョウコさんじゃないですか。お久しぶりです!」
私は目の前の女性“キョウコ”に挨拶する。
キョウコさんこと、“キョウコ・カザミ”は、このチームの設立者でもある、チームの代表者兼監督で、過去には数々の世界選手権の元レーサーであったりと、豊富な経験を持っている人物である。
彼女を始め、私はユキカゼのスタッフとは面識は結構あるのだが、その中でも彼女は非常に親しい人物の1人である。
細いくびれを持ちながら、私やアユミよりも1回りも2回りも大きい胸やお尻が、見てる者に彼女の放つ“大人びている”雰囲気の正体を示唆しており、見る度についついそちらに目が行ってしまい勝ちになる。
「どうもエマ。また会えて嬉しいわ。去年のトロフィー授賞式以来だったかしら?」
「そうですね。だいたい一ヶ月ぶりでしょうか。」
「あら? 意外とそんな程度だったのね。」
キョウコさんは目を丸くさせながらそう言う。
「まあいいわ。今年もまたよろしくね。」
キョウコさんは私に手を差し出す。
「はい。こちらこそ。」
私も手を差し出し、彼女と固く握手を交わした。
キョウコさんはユウトに話しかけようと、彼がいた所に振り向く。
「ユウトぉ…………ってアレ? どこ行った?」
「ここですよキョウコさん。バイク置きに行ってました。」
(アユミから逃げるのを目的に)バイクを置きに行ってたユウトが、スタスタと小走りしながら戻ってきた。
「ああユウト? エマのお迎えありがとね。ご苦労様。」
キョウコさんはお礼の代わりとばかりに、ユウトの顔を見ながらにっこりと笑う。
「いえいえそんな。全然大丈夫ですよ。」
ユウトははにかみ笑いしながらそう答える。
「フン!」という拗ねたアユミの声が聞こえてきた。
私とキョウコさんは思わず笑い出しそうになるのを必死に堪える。
彼女のことを細めで睨みつつも、ユウトはさらに続ける。
「それに、これから皆さんにお世話になるわけですし、これくらいお安い御用ですよ。」
その言葉を聴き、キョウコさんは軽く咳払いして、さぞ嬉しそうに、
「ありがたく受け取って置くわ。その言葉。」
キョウコさんはそれから、ユウト、アユミ、そして私の3人にそれぞれ目を向け、
「3人とも? まだマシンの準備に時間がかかるから、キャラバンの中で休んでてちょうだい。特にユウトはね。」
「え? はい。」
急に名指しされたユウトは、慌てて返事をする。
「このあとにニューマシンに乗ってもらうから、今のうちに心の準備も済ませて置きなさい。貴方WFマシンに乗るのは初めてのようなもんだから。」
「分かりました。」
さっきとは打って変わって真面目な表情で、ユウトは深く頷く。
「じゃあさっさと行くわよユウト。」
アユミはユウトの耳たぶを掴み――グイッ――と、強引に引っ張る。
「イダダダダダダダ!」
アユミはユウトが痛がっているのを無視し、耳を掴んだまま、彼のことを(物みたいに)キャラバンにまで牽引していこうとする。
「イタイイタイ! ちょっとそんなに引っ張るなよ! 耳千切れるって!」
ユウトは慌てて歩き出す。そうでなければ、本当に耳が千切れかねない。
「いいからさっさと歩きなさい。」
アユミは冷たく返答する。
「まだバイクのことで怒ってんのかよ! ちゃんと謝ったじゃん!」
「別に怒ってなんかいません。」
「現に今怒ってるじゃん! イタイイタイ!」
2人はいがみ合ったまま、キャラバンの中に入って行った。
クスクスと笑いながら2人のやり取りを眺めつつ、私も続こうとした。
「エマ?」
キョウコさんに呼び止められてしまったので、仕方無く足を止める。
「何でしょうか?」
「キャラバンから抜け出して、ガレージの中を撮影したりなんかしないでよ?」
「ちょっと! しませんよそんなこと!」
思わず大声で否定する。
レーシングチームにとって、ガレージの中は関係者立ち入り禁止の極秘エリアとも言うべき場所だ。マシンのメカニズムやセッティングの内容など、他のチームに晒け出されたくない技術や情報がぎっしりと詰まっている。当然、カメラマン含む関係者以外の人物は許可が下りなければ立ち入り禁止だ。特に今はマシンの準備中――各部のチェックの為にマシンの外装は外されており、エンジンやその他最新技術を駆使して作られた部品等が完璧に露出してしまっているので、余計に見られてはマズいのである。
「分かっているのなら全然構わないわ。」
ブスーッ! と、私は頬を膨らませる。
キョウコさんは手で口を押さえてクスクスと笑いながら、
「安心しなさい。マシンの発進シーンの時ぐらいはガレージもカメラOKにするから。」
「むぅーー」と、私は頬を膨らませる。
別にそんなことなどで怒ってる訳ではない。私だって記者としてのマナーぐらい弁えている。そんあ、私が如何にもやらかしそうな感じで話したことに頭に来ているのだ。全く失礼極まりない。
「じゃ、私はガレージに戻ってるわねぇ~~。ゆっくり休んでてちょうだい。」
「エ!?」と、思わず心の中で大声で叫ぶ。外側の私はただ口をぽかんと開けることしかできなかった。
キョウコさんは行ってしまった。私の心の叫びなど考えもせずに。
「はぁ……」と、溜め息をついた私は、仕方無さそうにトボトボとキャラバンの玄関へと足を運ぶ。
「お邪魔しまぁーす。」
と、ひかやめな声で挨拶しながらドアをゆっくり開けて中に入る。
「お? 久しぶりじゃないかエマ!」
ちょっと男性っぽくも聞こえる口調の、こちらもチームカラーのウインドブレーカーを羽織った、ガタイの良さそうな見た目の若い女が、挨拶代わりに私に声をかけてくる。
広いローテーブルを囲うように置かれた2台のソファーには、(私から見て)左側にユウトとアユミが、右側に先ほどの声の主が腰掛けていた。
「ホントそうね。クミコ。」
私も目の前の親友に挨拶を返す。
目の前の親友こと、“クミコ・タナカ”は、以前F1ドライバーとしても活躍してきたユキカゼのエースドライバーである。彼女もユウトと同様にフォルケウのワークスドライバーでもある。25歳と私と同い年でありながら、F1では2回の優勝を経験するなど、その実力は確かなものを持っている、私の誇れる友人の1人だ。鋭い黒の瞳孔の三白眼、クセのある肩までの長さの黒髪など、クールで男っぽい鋭さを放つ容姿も持ち合わせており、メディアやファンからは“イケメン女レーサー”としても注目されている。
「どうだった? ユウトの運転するタクシーは。」
クミコはニヤニヤと笑いながら私に質問する。
――ボフッ!
――と、私はどっと溜まった疲れに身を任せ、ソファにお尻を落として質問に答える。
「そりゃあもう疲れまくったわよ。」
頬に拳を当てながらクミコはケラケラ笑う。
「そうだろうな。まだユウトのやつヘタクソだしな。」
「ちょっとクミ姐! どういう意味だよ。」
ユウトはクミコに反論する。
「おうおう先輩に反論するとは。随分生意気になったモンだなユウトよぉ。」
クミコはユウトに向け、ニヤニヤと嫌らしく笑う。
「そっか。アンタ達って先輩後輩の関係だったわね。」
私は思い出したような言い草でそう言う。
「ああ。私とユウトから、もうとっくにその話は聞いてるだろ?」
実は、ユウトとクミコの2人は、ハクロウのレーシングドライバー育成の為のスカランシップに出会い、共にプロのレーサーを目指した、先輩後輩の関係なのである。空港でクミコのことをクミ姐と呼んでいるのも、彼女のことを彼なりに慕っているからだという。実際、2人のやり取りはまるで兄弟そのものだ。
「でも、私2人が一緒の場所にいる所なんて、オフの時に2回見たぐらいなんだけど……」
「クミ姐の出てたレースのレベルが高過ぎるんだよ。俺がF2に辿り着いた頃には、もうクミ姐はスーパーライセンスも取ってF1で活躍してたんだから。その上、WFRLでも速いんだから、正直悔しいぐらいにまで凄いよ。」
と、ユウトは両手を首の後ろで組みながらそう答える。
褒められたクミコの方は、少し照れくさそうに鼻で笑い飛ばし、
「そりゃあ、私とお前さんじゃ5つも離れてるからな。当然さ。」
「でも」と、クミコは付け加え、
「そう私ばっか褒めんな。お前なんか、持参金無しでル・マンやWECとかいろんなレースに出れたんだ。しかもF1マシンに乗ったのを踏み台にして、WFレーサーになったんだ。かなりの実力と貪欲さ持ってると思ってるぞ?」
「そっか。ユウト君あんまりお金持ってなかったのね。“ペイドライバーばかりの世の中に彗星の如く現れた英雄”って、メディアでもベタ褒めされてたこともあったし。」
私もクミコに続くようにそう語った。
レース活動を行うために必要な費用は、スポンサー無しでは払えないことが多く、チームとの契約には持参金が必要であることがほとんどである。ところがユウトは、スポンサーやフォルケウからの支援は受けながらも、彼の家は裕福では無く、支援は全て彼の実力が認められたからこそのものであった。持参金を払って契約してもらう“ペイドライバー”なんかよりもずっとすごいレーサーだと、私は思う。
「やめてよクミ姐。エマさんまでそんな、彗星の如くだなんて……」
ユウトの頬がポッと赤く染まる。
「私が言ってる訳じゃ無いわよ。でも、充分誇れると思うわよ?」
私に続けてアユミも助言する。
「そうよ。確かにクミコさんもすごいけど、ユウトも負けてないわよ。小さい頃から、WFレーサーになるために頑張ってきたんだから。」
「そ、そうかなぁ……」
ユウトは自信無さそうだが、徐々に肯定し始める。
「ああ。お前がレース始めた頃からずっと見てきた私やアユミが言ってるんだ。間違いは無いさ。」
ユウトは私に「喜んでいいんですか?」と、目で聞いてくる。
私は満面の笑みで大きく頷く。
ようやくユウトは認めたらしく、どこか仕方無さそうな表情で笑った。
――私たちが呑気に会話していた頃、キョウコはピットガレージの中に足を運んでいた。
冷たい冬風が度々入り込むガレージの中からは、工具が奏でる金属音、燃料やオイルの薬品クサい臭い、メカニック達の掛け声や会話、そして張り詰めた緊張感によって埋め尽くされていた。
「ジュード? マシンの準備はどこまで終わったかしら?」
キョウコに名前を呼ばれたチーフメカニックが、スタスタと監督の彼女のもとに駆け寄る。
「もうそろそろ、エンジンの暖気にはいれそうなところです。」
「分かったわ。」
キョウコは間を少し置き、
「それで、ニューマシンを見た感想は?」
「ええ。素晴らしい出来でしたよ。去年よりも完成度が増してて。アレなら、どこのチームにも負けませんよ。」
ジュードは嬉しそうに感想を述べた。
「なら、良かったわ。」
キョウコも嬉しそうに深く頷いた直後…………
――グオウッ!!
――と、獣の唸り声にも似た、野太く気高く、凄まじい迫力を放ち、エンジンの始動音が2つ、コーラスのように重なり合ってガレージの中に響き渡る。
地響きのような産声を発したのは、2台のフォルケウ製4500ccV型12気筒エンジン、“RX123E”である。型式番号としての遠いご先祖は、F1でチャンピオンを獲得した名機だという。
エンジン音のした方向には、スパルタンなカーボンブラックを纏った2台のフォーミュラ・カー(F1のようにコックピットやタイヤなどが剥き出しのレースカーのことを指す)が、排気管から白い排気ガスと、まるで楽器のように心地良いアイドリングサウンドを発生させていた。
マシンの準備段階の1つである、“ファースト・イグニッション”を現在行なっている。これの前には、冷却水を最低温度まで暖め、始動時の気温、気圧、燃料温度、水温など300を超える膨大なデータがラップトップパソコン(携帯型パソコン)に送られ、始動時に適した燃料マップをエンジニアが選択…………といった作業を30分も費やして行わなくてはいけない。
だがこれは、決してメカニック達の作業が遅いからという訳ではない。マシンの性能を突き詰め過ぎたが故、エンジンを始動させる、こんな作業だけにこれほどの手間を必要とするほど、機械が気まぐれなのだ。
2台のマシンの周りに群がるメカニックのうち2人が、それぞれエンジンのスロットルレバーを直接手で動かす。エンジンの暖機を入念に施すことで、エンジンオイル、サスペンション、ブレーキ、タイヤ……とマシン全ての部分を温め、マシンを覚醒させてようとしているのだ。この作業のことを儀式とも呼ぶ人もいる。他のメカニック達は、パソコンや自らの身体に染み込んだ感性で、マシンの状態を隅々まで確認していた。
「無事動いてくれましたね。」
ジュードは安心したようにそう呟く。
「今年こそはチャンピオンを獲りに行かないとね。」
と、キョウコは重くそう言った。
「そうですね。」
キョウコとジュードは、大いなる期待と緊張感を胸に、今まさしく目覚めようとする2台のフォーミュラ・カー…………ユキカゼの“WFマシン”を、じっと見つめる。
機械と無機物でできた2匹のモンスターは、獲物を目の前に襲う頃合を待ち兼ねる獣にも似た、重々しく、狂おしい、何とも言い難い強烈な雰囲気を、ガレージ内全域に漂わせていた。