第九話 ひとつの噂は時の流れを紡ぐ鍵になり
未来から私が来た事で、時の流れに異変が起きているのかもしれない。
確証は無いものの、現時点でそう結論づけたリサはこの時代に来た目的である、ニコに恨みを抱いている人間を調べる為に部屋を後にした。
来た時と同じように、部屋に設けられた小さな窓から。
「使用人に変装してちゃんと表から出ればいいじゃないか。君が犯罪者のように窓から出て行くなんて」
「……私はこの世界の人間じゃないわ。必要以上に人と関わらないほうが良い」
それがこの世界に新たな異変を起こす可能性があるもの。
ニコの言葉に、呆れた様な表情を浮かべながらそう答えるリサ。
だが、口ではそう言っているものの、ニコの気遣いがリサにはたまらなく嬉しかった。
自分が居た世界からいなくなってしまったニコ。この10年以上、彼と言葉を交わすことも出来なければ、彼の優しさに触れる事も出来なかった。
「じゃあね、ニコ。また明日来るわ」
「判った」
ニコが放つ一言一言がリサに至福の喜びを与え、思わずこの場にとどまりたい欲望にかられてしまうが、それが彼女の心を支配する前に、リサはくるりと踵を返すとそのまま振り返ること無くニコの部屋を後にした。
そして部屋に残ったのは、甘い残り香と闇夜の欠片。
彼女が残したそれらを感じながら、まるで夢を見ていたかのような感覚に襲われたニコは、リサが出て行った窓から見える夜空を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた
***
未来から来たリサと別れた後も、ニコの頭の中はその事で一杯だった。
兄ウェイドが言った通り、王都での話を心待ちにしてた父テムジンに王室騎士での想い出を語ったが、テムジンの元を去った後に一体何を話したのかは全く覚えて居なかったし、懐かしいナタリアの酒場「三日月亭」でグラスを交わしたこの世界のリサとの甘い時間も記憶に刻むことは出来なかった。
それほど衝撃的だった未来から来たリサの存在と、己の死の事実。
そして不安と疑問に苛まれたまま、長い夜は開けた。
「ウェイド」
朝日が差し込む屋敷の廊下、男性と話しながら廊下をゆくウェイドにニコがそっと問いかけた。
そしてちらりと視線をウェイドの隣に立つ男へと送るニコ。
だがその男は、ニコに見覚えの無い人物だった。
フォーマルな装いからすると、テムジン商会の仕事関係だとは思うが──
「……ええっと、貴方は?」
「はじめましてニコ様。私、ウェイド様の仕事をお手伝いしておりますブランタと申します。以後お見知り置きを」
そう言って丁寧にお辞儀するブランタ。
年からすると、ウェイドよりもひと回りは上の様な気がする。多分、父上と仕事を共にしていた商人なのだろう。
ウェイド付きで商売のなんたるかを教示している教師といった所か。
「はじめましてブランタさん。兄がお世話になっています」
「いえ、どちらかというとお世話になっているのは私の方ですよ。まさかウェイド様にこれほど商才がお有りだとは」
「ウェイドに……商才が?」
ブランタの言葉に、初耳だな、とウェイドを見ながら目を丸くするニコ。
昔から思考に強い男だったが、他人とコミュニケーションすることが苦手で、商売には絶対に向いていないと思っていた。
「……なんだその目は」
「人は見かけによらないものだなって」
「能ある鷹はなんとやらというやつだ」
おどけながらそう漏らすウェイドに、ニコは大きく肩をすくめてみせた。
「しかしニコ……お前凄く酒臭いぞ」
「……昨日は全く寝付けられなくてね。久しぶりに酒の力を借りて」
リサの件と相まって、ニコの睡眠を妨げる事になったのは皮肉にもあのふかふかのベッドだった。
まるで雲に寝転がっているように感じてしまうあのベッドは、硬いベッドに慣らされてしまったニコに安眠を与えることが出来なかった。
「王室騎士とは思えないメンタルの弱さだ」
「確かに」
「……それで、俺に何か用か?」
見ての通り、仕事中なのだが。
そう言いたげなウェイドにニコは一瞬言葉を躊躇してしまったが、自分の命に関わる重要な事だったために、短く端的に言葉を選びウェイドへと投げかけた。
「ウェイド、殺人鬼の噂について知りたいのだが」
「殺人鬼の……噂?」
「ああ。パラミシアの街で起きている殺人事件の犯人だ」
「……その犯人がどうしたんだ?」
それがこんな早朝に気になることなのか?
おもわずきょとんとした表情を浮かべながらそう返すウェイド。
ウェイドにとってはどうでも良い話題であったが、ニコは自分に恨みを持つ人物の特定に繋がるかもしれない情報だと考えていた。
「特に理由はないんだけどね。ちょっと噂を耳にしてさ」
「……フム」
パラミシアを離れていたニコであれば、気になって当然か。
そう自答しながらウェイドが続ける。
「犯人は相当の剣術を持ち合わせている男らしい」
「……剣術を?」
それは初耳だ。
ウェイドの言葉に息を呑むニコ。
居城に居るリサは護衛に衛兵を1人つけていた。だが、相手が剣術の達人なのであれば1人では足りないかもしれない。
「これまでの被害者の状況を聞くとそう考えざるを得ない。犯人は不意な『闇討ち』ではなく、正面から被害者と斬り合い、そして相手を斬り殺している」
「……ッ!? ちょっと待て、斬り合うって事は、狙っているのは一般市民ではなく……」
「そうだ。犯人は剣に少なからず覚えがある剣士を狙って襲っている」
思いがけないウェイドの言葉に、ニコは顎に手を当て考え込んでしまった。
犯人が無差別的な快楽殺人者であれば、例えば剣の切れ味を愉しんでいる鍛冶職人か、刀剣愛好家といった犯人像が見えるが、正面から斬り合っているとなれば話は変わってくる。
犯人は斬り合いを愉しむ剣士か、もしくは己の剣の腕を見せつけたい顕示欲が高い剣士──
「有難う、参考になったよ」
「参考? 参考ってなんだ?」
「こっちの話だ。仕事の邪魔をして済まなかった」
また後でな、とウェイドの肩を軽く叩き、ブランタに挨拶を送るとニコはくるりと反転し自らの部屋へと姿を消した。
差し込む朝日と共に、パラミシアの冬のきんと透き通った空気が支配する廊下。
清々しいその空気に、ニコが残した酒臭い空気とどこか腑に落ちないどんよりとした空気が次第に混ざり、ウェイドとブランタは怪訝な表情を浮かべなながら思わず顔を見合わせた。