第五話 君が罪を裁こうとするならば、僕はただそれに従おう
まさか城壁を素手でよじ登ってくる者がいるとは、辺境伯の居城を警護する衛兵の誰が想像できただろうか。
居城の入り口たるゲートハウスを通らず、堀から城壁をたどり周回したニコは、ホーディングと呼ばれる角櫓部分を軽々とよじ登っていった。
少しでも指を滑らせてしまえば命を落としかねない状況。
しかし、ニコは慣れた手つきで簡単に城壁を登りきると城壁通路を使い簡単に城壁の中心に位置する天守へと足を踏み入れた。
足音を立てずに記憶をたどり、あの部屋へと進むニコ。
そして彼の記憶の中で大事に閉まっていたリサと出会ったあの部屋は変わらない姿のまま、ニコの前にその姿を現した。
「今回はリサは居ないな」
念のため周囲と部屋の中を確認するニコ。
また背後から剣を突きつけられてはたまらないし、衛兵に見つかってしまえば面倒な事になってしまう。
音を立てないように部屋のノブを回し、ゆっくりと扉を開くニコだったが、老婆の悲鳴のような錆びついた音が発せられた瞬間、その手はピタリと静止した。
辺境伯の居城で、手入れをしていない部屋というのも珍しいが、ドアが錆び付いているということは、つまり誰も足を踏み入れていないということだろうか。
息を押し殺しながら人ひとりが通れる程の隙間を作り、逃げこむようにするりと滑りこむニコ。
「臭いな……」
部屋に滑り込んだと同時に、ニコを襲ったのは埃臭く、カビた空気だった。
そしてそこにあったのは、誰も立ち入った気配が無い部屋──
僕の取り越し苦労だったか。
その空気に何処か安堵の表情をうかべながら、分厚いカーテンの隙間から差し込む陽の光に浮かび上がる部屋の中を見渡すニコだったが、彼の視線はぴたりと一点で固まった。
「……どういう事だ」
誰に言うでも無く、小さくひとりごちるニコ。
彼が見ていたのは、あの懐中時計が置かれていたテーブルだった。
光り輝く、装飾が施されたあの懐中時計。
あの女性が首から下げていた、懐中時計。
だが、そこに有るのは、埃が積もった小さなテーブルだけ──
あの懐中時計の姿はどこにも見当たらなかった。
***
やはりあの女性が懐中時計を盗んだのか。
部屋を後にし、城壁通路を戻るニコは頭を抱えてしまった。
あのリサに似た女性がリサを装い、ここに忍び込んで懐中時計を盗み、そして逃げる最中あそこで気を失った。
そう考えられ無くもないが、ニコはやはりどこか引っかかってしまっていた。
盗賊であるならば、防寒具を備えた上でもっと安全な方法で逃げるはず。あんなボロボロのブリオーを来て逃げる筈はない。それに、さっきのあの部屋、少なく見積もっても1ヶ月ほどは誰も足を踏み入れていないように思えた。
何から何まで訳がわからない。だが、現実としてリサに似たあの女性が懐中時計を持ち、そしてあの部屋から懐中時計が無くなっていた。それは事実だ。
「……おい、お前」
「……ッ!」
つい考えふけってしまっていたニコは、背後から放たれたドスの効いたその声で今自分が堂々と城壁通路を渡っていた事に気がついた。
しまった。僕は今忍び込んでいるんだった。
「止まれ。何者か」
と、その声とともにかちゃりと武器を構えた音がニコの耳に届いた。
声からして衛兵だろうか。とすれば構えたのは衛兵の武器である槍の一種、パイクだろう。
「怪しい者じゃない」
両手を挙げ、抵抗するつもりはないと言いたげにゆっくりと振り向くニコ。
身分を明かし、リサを呼べばなんとかなるだろうか。それとも虚を突いて逃げるべきか。
そう思案するニコだったが、そこに立っていた人物の姿にこれまでの考えが一瞬で地平線の彼方に吹き飛んでしまった。
「あら、おかしいわね。とても怪しい盗人さんに見えるけど?」
そこに立っていたのは、仕様がない人だと呆れた様な表情を浮かべる衛兵と、その隣でレイピアを構える麗人だった。
まるで闇夜がそのまま形になったかのような美しく黒い髪に、降り積もった雪のような肌。剣の切っ先の様に斬りつけるその視線もどこか心地よくニコには感じてしまった。
「リ、リサ!」
やっとの思いでその名をひねり出したニコ。
そこに立っていたのは、一年間夢にまで見た愛しきリサの姿だった。
「どこの盗人さんか存じ上げませんが、気安く私の名を呼ばないでくださいます? 私が愛するニコはまだ戻ってきて居ないはずよ?」
ピンとレイピアの先をニコの喉元へ向けながら、どこか挑戦的な笑みを浮かべるリサ。
綺麗だ──
その姿を見てニコは嘘偽りなく、そう心の中で溜息をついた。
トマソンはリサがこの一年で見違える程綺麗になったと言っていたけど、まさかこんなに綺麗になっているとは。
思わず抱きしめたい欲望に苛まれてしまうニコだったが、それ以上にトマソンが言ったもう一つの言葉が彼の別の欲望を突き動かした。
この一年でリサの剣術はさらに磨かれている──
「……僕が君の愛するニコだという証拠があるんだが」
肩を竦め、まるでじゃれあうように、リサの挑発に乗るニコ。
「あら、何かしら?」
「……これ、良いかな?」
ちょいと顎で自らの腰に下げているレイピアを指すニコ。
まずは剣で語ろうじゃないか。
無言でそういうニコに、リサは満面の笑顔を浮かべると、どうぞと抜刀を促した。
「リュック、下がって頂戴」
「全く……お怪我だけはなさらぬよう」
「私が怪我なんて」
傍らで立つリュックと呼ばれた衛兵に下がるよう伝えると、リサは瞬間的に衛兵に守られるべき辺境伯令嬢の姿から、剣術の達人の姿へと変わった。
「へぇ」
思わず溜息を漏らすニコ。
その姿を見ただけで判るほど、リサはかなり腕を上げている。
──だが、腕を上げたのは君だけじゃないよ。
「はっ!」
ニコの溜息が開始の合図となり、先手を打ったのはリサだった。
肩幅に足を開き、利き足を外側へと向ける基本の構えから、前進、そして身体を前に突き出し、突く──
流れる様なリサの初撃。
だが、ニコは動じる事無くそれを受け止めた。
リサと同じく基本の構えから、後退し、剣をV字に跳ね上げ、その剣を払う。
基本的動作で難なくリサの剣をさばいたニコは、そのまま、邪魔だと言わんばかりに剣を投げると愛しいリサの身体を抱き寄せた。
一年前よりも、より強靭なニコの腕が優しくリサを包み、そしてリサもニコに身体を委ねるようにその胸の中に飛び込んだ。
「ああ、リサ。この時をどれほど待った事か」
「私もよ、ニコ。でもね……」
唇を寄せるニコに、待って、と言いたげにか細い指で制するリサ。
愛する女性を前に「お預け」を喰らってしまったニコは怪訝な表情を浮かべてしまう。
「なんだ、リサ?」
「……私との約束覚えてるわよね?」
「あ……」
リサとの約束。その言葉にニコは思わず顔をひきつらせてしまった。
パラミシアに戻ったらまず、兄のウェイドに挨拶に行くこと──
「ウ、ウェイドにはこれから……」
「丁度トマソンと会ってね。そしたら、ニコがここに向かったって」
きり、と睨むリサに気圧されてしまうニコ。
どうせばれてしまうなら……正面からリサの元にまず行くべきだった。
「道中トマソンにリサの話を聞いてしまった。この一年で君がとても綺麗になったと」
「あら、そう?」
「そんな話を聞いて、僕が我慢できるとでも?」
「あぁ……無理ね」
だろう? とオーバーリアクション気味に肩を竦めるニコに、思わずリサは吹き出してしまった。
懐かしい。愛するニコは変わらず、昔のままのニコだ。
「だけど、君がこうして僕の前に現れなければ、僕はウェイドの元に戻れたのに」
「トマソンにさっき会った時、彼が私に言ったの。……ニコがとても素敵になってるって」
「へぇ、そう?」
「そんな話を聞いて、私が我慢できるとでも?」
お返しとばかりに小さく肩を竦めるリサ。
そんなリサの仕草がニコにとっては愛しくてたまらなかった。
「……無理だね」
「無理よ」
もう一度リサを抱きしめるニコ。
今度は力強く、もう絶対に離さない、と。
そして、お互いのひんやりとした唇の感触が、愛する人が戻ってきた事を静かに告げた。