第四話 例え心が君を欲しようとも、僕はそれに従うわけにはいかない
ルードルフ辺境伯が統治するパラミシア地方の主要都市のひとつであるパラミシアの街は、小高い丘に建てられた辺境伯の居城を中心に、半径1km程の城壁内に住居や店舗が点在する北方地方では珍しく発展した中規模の地方都市だった。
一年の半分が雪に覆われ、その厳しい気候とそこから生まれる劣悪な土壌環境から、発展する街が皆無だった北方領地において唯一発展した都市パラミシア──
厳しい寒冷な気候と痩せた土壌に耐性があるライ麦や燕麦などの穀物を中心に、農業による自給自足の生活を行っていたパラミシアが成功する要因の1つになったのがテムジン商会の大陸間貿易事業だった。
その厳しい自然環境から各地で起きている領土争いに巻き込まれる事なく、そして、情勢が不安定な王都ヴェルザンスやその周辺都市よりも安全に貿易が出来るとテムジン商会が仕切る商人ギルドは世界各地の商人達に好まれ、いつしか東西を繋ぐ貿易都市としてテムジン商会とパラミシアは確固たる地位を築き上げていた。
一年の終わりに近づき、寒さも厳しさを増すこの時期にもかかわらず、多くの荷を載せた馬車が行き交うパラミシアの街を守る城壁の一角に設けられた城門。
その城門を一台の馬車が通り抜けていった。
ニコとトマソン、そしてリサに似た女性を乗せた馬車だ。
「ニコ様、パラミシアです」
「……懐かしいな」
トマソンの言葉に、漏れだすようにそうつぶやいたニコ。
変わらない城壁に、幾つもの荷物を乗せた馬車が行き交う活気に包まれたパラミシアの風景に思わず郷愁の念にとらわれてしまうニコだったが、その風景を心の中から懐かしむ事は出来なかった。
このリサに似た女性が持っていたあの懐中時計が未だ彼の中に大きなしこりとして残っていたからだ。
「このまま屋敷に向かってもよろしいですか?」
「ああ。戻ってすぐにこの女性の介抱準備を」
「承知しました」
何故あの懐中時計をこの女性が持っているか。その答えは直接女性に聞くしかないとニコは思っていた。
しかし、屋敷で介抱したとしても、この女性は必ずしも助かるという保証は無いし、目が覚めるまで時間がかかるかもしれない。その間にできることは、ルードルフ辺境伯の居城へ向かい、あの部屋に懐中時計があるかを確認する事。
もしあの部屋に懐中時計がなければ、この女性が盗んだ証拠になるだろう。
「この女性を頼めるかな、トマソン?」
「はい、大丈夫ですが……ニコ様は?」
「僕は辺境伯の居城に向かうよ」
だが、ニコのその言葉にどこか呆れたような表情を浮かべるトマソン。
「……リサ様との再会を待ちきれないお気持ちは理解できますが、ウェイド様へのご挨拶を先になさらなくても?」
「別にリサに会うわけじゃない。ちょっと確認したいことがあってね。兄への挨拶は優先するさ」
それに、兄への挨拶を怠り、自分の所へ来たとリサが知ったらそれこそ大変な事になるからね。
そう言ってニコは小さく肩をすくめた。
この一年、リサと手紙でやりとりする間、ニコがリサに口うるさく言われ続けていた事、それは「戻ったら兄であるウェイドに感謝の気持ちを面を向かって伝えること」だった。
愛し合うニコとリサが離れ離れにならざるを得なかった一年前。
そして、ニコが剣の道に進むことが決まった一年前、もう一つニコにとって重要な出来事があった。
それは、父のテムジン商会を兄ウェイドが継ぐことに決まったと言う事だった。
常日頃、兄ウェイドと共に、商会を盛り上げて欲しいと口にしていたテムジンだったが、一方でニコが内心で王都ヴェルザンスの王室騎士を夢見ている事はよく判っていた。
そして、口にせずともニコの考える事は手に取るように判る兄ウェイドも──
最初の子供だったウェイドに、テムジンと妻エリスは過剰とも取れる愛情を注ぎ、そして一人前の紳士に育て、ゆくゆくは商会を継いで欲しいと厳しい教育を施してきた。
それは生まれながらにして決められた一本のレール。
だが、ウェイドはそれを苦と思っては居なかった。
「父上と母上、そしてテムジン商会の事を思えば、自分が跡を継ぐことは当然の事です」
とある夜、ニコと対照的に、物静かで行動を起こす前にまず熟考するタイプのウェイドが珍しくそう主張したことに、テムジンは涙を流し喜んだ。
そして、ウェイドがテムジンに師事し、家業を継ぐ事を決断したその出来事が、ニコの夢をを後押ししたのは紛れも無い事実だった。
「物静かで頭が良いウェイドに夢のひとつくらいあったはずよ? その夢を諦めてニコの夢を応援してくれたウェイドに感謝しなきゃ」
王室騎士になるための第一歩、王都で開催される剣術武闘会への出場を父テムジンに許され、喜びを伝えに来たニコにリサは諭すようにそう言った。
「そうだね。戻ってきたらウェイドに感謝の気持ちを伝えるよ」
「その前に剣術武闘会でいい成績を残さないと意味ないけどね」
それこそウェイドに合わせる顔が無くなっちゃうわ。
そう言いながらリサは小さく肩を震わせ、笑顔を零した。
冗談半分でそう漏らしながらも、夢を諦める辛さは痛いほど判るとリサは言う。
彼女もまたウェイドと同じ境遇だったからだ。
リサにとっての諦めざるを得ない道、それはニコが歩む「剣の道」だった。
辺境伯令嬢というレールの上を進むさだめにあったリサ。ニコに勝るとも劣らない才能を持ちながら、その道に進むことができないリサは何度も家を出ようと考えていた。
だが、それを引き止めたのはニコの存在だった。
飄々と掴みどころの無い性格のニコだったが、たったひとつ、曲がったことが自他ともに許せず、真っ直ぐとした性格の持ち主であるニコ。そんな彼の性格がリサの心の支えになっていたのは事実だった。
そして、ウェイドと同じく自らの道を受け入れると同時に、好敵手であり、最愛の人であるニコの王室騎士への夢はいつしか彼女の夢に変わっていた。
「……やっぱり変わらないな」
遠くに見える辺境伯の居城へ続く道を一歩一歩たしかめるように歩きながら、一年前と変わらない町並みにニコは思わず笑顔が溢れてしまった。
小さいころウェイドとよく行ったアラン爺さんがやっている雑貨屋に、リサとの密会にも使わせてもらったナタリアさんの酒場「三日月亭」──
ニコにとってそのすべてが懐かしく、そしてどこか愛おしかった。
つい顔を出して昔話に花を咲かせたい欲望に苛まれてしまったが、それをぐっと押しとどめ、足を進めるニコ。
そして、その欲望に負けること無くニコは居城の城門付近まで辿り着いた。
だが、遠目に見えるのは、城門を守る衛兵達。
話を通せば中へと案内してくれるだろうが、そんな事をしてしまえばちょっとした騒ぎになってしまうだろう。そして有無をいわさず連れて行かれるのは、リサの元に違いない。
先ほどまでとは比べ物にならない、欲望に苛まれてしまうニコ。
この居城の中に、一年間会えなかった愛しきリサが居るんだ。一秒でも早くその姿を見たい。その肌に触れたい──
「はぁ……」
どくどくと高鳴る鼓動を落ち着けるようにニコが重い溜息を放った。
そして城壁を仰ぎ見るニコ。
「あの女性が持っていた懐中時計の真意を確かめるだけだ。このまま忍び込んであの部屋を見て戻れば問題ない、か」
誰にも見つからなければ問題ない。
この時間、丁度居城内を巡回している衛兵は少ないはず。
そう考えたニコは城壁の隙間にするりと身体を滑りこませると、王都ヴェルザンスで鍛えあげられた四肢の筋肉を使い、軽々と城壁を登り始めた。