第三話 君がリサではないと僕の心がささやいても
この女性は本当にリサなのか。
パラミシアへの帰路を急ぐ馬車の中、静かに目を閉じるその女性を見ながら、ニコはもう一度そう思った。
顔立ちやその美しい黒い髪は紛れもないリサ。だが、もしリサだとしたら何故こんな服装で、何故あんな場所に──
「リサ様に瓜二つですが……この女性がリサ様では無いと私は思います」
懐旧の念にかられるニコの耳に静かに届いたのはトマソンの落ち着いた声だった。
「……と言うと?」
「はい。ニコ様をお迎えに出発する時にリサ様にお見送り頂きましたので、この場にいらっしゃる事はあり得ないかと」
「成る程。と言う事はリサはパラミシアに?」
「私めが出立する数時間前までは確実に。それに……」
そう言ってひょいと女性の顔を覗きこむトマソン。
ニコと違い、パラミシアの街でテムジン家に仕え、そしてリサとも面識がある彼に、目の前の女性が彼女ではない確たる証拠があった。
「見る限り、明らかにリサ様と違う所があります」
「違う所?」
「はい。リサ様に瓜二つではありますが」
ニコ様もお解りになると思います。
女性を診ながらそう漏らすトマソンにニコはきょとんとした表情を浮かべながらも、すぐに彼の言いたい事が理解できた。
──年齢だ。
僕の記憶が正しければ、この女性はリサよりもいくらか年齢が上のように見える。
リサは僕と同じ年の生まれで、今年で23歳だ。間違いなく。彼女が年齢を若く見積もっていなければの話だが。
しかし、目の前の女性は、ぱっと見、もっと上……30歳代半ばくらいに見える。
丸一年、リサとは文通でのやり取りだけで一度も会っていないからもしかすると僕が驚くほど大人びた女性になっている可能性は否定できないけど。
「年齢が合致しない?」
「左様でございます。見た限りではリサ様よりもひと回りは年を召されているかと」
「僕もそう思う。……うん、確かに君が言うとおり、この女性はリサじゃない可能性が高いな」
自身に言い聞かせるように、どこか安心したようで、寂しそうな表情を浮かべるニコ。
だが、安心する一方で、リサに似たこの女性を目の当たりにしてしまったからだろうか、ニコは一秒でも早くリサに会いたくなってしまった。
一年前の記憶の中のリサも美しかったが、この一年でさらに美しくなったのだろうか。どこか妖艶で儚い美しさを持っているこの女性のように──
「この一年でリサ様は大変お美しくなられましたよ」
「え?」
トマソンの心を読んだかのような発言に思わず驚きを隠せないニコ。
そう言えば昔からトマソンは僕のやること考える事を言い当てる事ができた男だった。一年離れていても相変わらずという所か。
「リサ様の変貌ぶりにきっとニコ様も驚かれると思います」
「成る程……それはまずいな」
そう言って小さく肩をすくめるニコに、トマソンは小首をかしげてしまう。
「何故です?」
「再会してリサだと気が付かなかったら……とんでもないことになってしまうだろ?」
冗談ではなく、怒りに満ちた剣で一突きにされるだろう。
昔から変わらない、飄々とした表情でそう言うニコのその姿に今度はトマソンはどこか懐かしさを感じてしまった。
相変わらずの御方だ。どこかそれを楽しんでいらっしゃるような。
「成る程。では、お気をつけ下さい。一年前と比べて剣術の腕も相当上がっておられますので」
「それは……楽しみだね」
トマソンの言葉に思わず血が疼いてしまうニコ。
ニコとリサは、あの小さな部屋での出会いの後親達の目を盗んで会うようになった。理由はもちろん、お互いの剣術のどちらが優れているかはっきりさせるためだ。
そして、お互いが「好敵手」から「剣の道を行く仲間」に変わり、そして「愛する人」になってもその勝負は続き──結局決着する事はなかった。
丁度一年前、ニコがリサの元を離れ、王都ヴェルザンスへと行くことに決まったからだ。
ニコは夢だった王都とそこに住まう王を守るために組織されたエリート集団、王室親衛連隊に王室騎士として隊員として採用が決まった。
剣術を志すものであれば誰しもが憧れる存在である、王室親衛連隊の王室騎士だったが、その一員になれる剣士は100人に1人ともいわれるほどの難関だった。
王室親衛連隊に王室騎士として採用されるには、まず王都で開催される剣術武闘会で好成績を収める必要があった。そして剣術武闘会で名を残した剣士の中から、格式高い王室騎士として適任かどうか吟味され、一握りの剣士達が王室騎士の訓練生とも言える「騎士見習い」として王都での訓練に就くことになる。
そして彼ニコは自らの力でその狭き門をくぐった1人だった。
そしてそんなニコの王室親衛連隊への配属に一番喜んだのは他でもない、同じ剣の道を歩む恋人のリサだった。辺境伯の令嬢という肩書からその道を外れる事が許されなかったリサにとって、剣の道はゆくゆくは諦めざるをえないものであり、リサは愛するニコの採用をまるで我が事のように喜んだ。
だが、それは嬉しくもあり、寂しい日々の始まりでもあった。
一年とはいえ、ニコが遠く離れた王都ヴェルザンスへといかなくてはならないからだ。
同じ剣を愛するニコの事を理解していたリサは、離れたくないという我儘な心を押さえつけ、そして勝負の決着を曖昧にしてまで笑顔でニコを送り出していた。
「リサ様は『待って』いらっしゃいますよ?」
意味深な言葉をささやくトマソン。
その「待つ」という言葉の指す意味をニコは理解していた。
勝負の決着ではなく、リサが待っているのは──
「……分かってる。今回の帰郷は僕に取って重要なものだからね」
リサを一年待たせてしまった。
トマソンの言葉に息をつまらせてしまうニコ。
今回のパラミシアへの帰郷がニコにとって重要な意味を持っているのはそこだった。
愛するリサへ永劫の愛を誓う、求婚の言葉──
リサと出会った同じ星夜の夜にニコはその想いを彼女に伝えるつもりだった。
不器用なニコはこれまで、その言葉を口にだすために勝負をしていた、といっても過言ではなかった。
リサを守るためには彼女よりも強い男で無くてはならない。その証明の為に、彼女を負かす必要がある。
しかし、そう思っていたニコだったが、彼女の元を離れたこの一年でそんなことはどうでも良いと思うようになっていた。
大事なのは、力では無く、想い。
強くありたいと思う自分ではなく、守りたいと想う相手。
「まだかまだかと大変やきもきしておられました」
「君には苦労をかけたね、トマソン」
優しい瞳でそう語るトマソンに、ニコは苦笑いを浮かべながら肩をすくめてしまう。
トマソンは何かと話しやすいその温厚な空気から、リサの相談を受けることも多かった。ニコが居なくなったこの一年は得に。
この一年、僕への愚痴を受けてくれたトマソンには頭が上がらないな。
ニコが心の中でもう一度感謝の念を紡いだその時、ガタンと馬車がひとつ跳ねた。
これまで続いていた砂利道の林道を抜け、レンガ造りの街道へと馬車が足を踏み入れた音だ。街道に入ったと言うことはパラミシアの街までもう少しの距離。
そして、厚くかかった雲の隙間からニコの帰郷を祝福するような暖かい太陽の日差しが馬車内に差し込み、ニコが窓から外の景色へ視線を移したその時だった。
ふと、きらりと光る何かがニコの視界の端に映り込んだ。
太陽の光を反射させている何か──
それが女性から放たれていることに気づいたのは直ぐだった。
女性の胸元、ブリオーに少し隠れるようにちらついている黄金色の何かが見える。
「……失礼するよ」
その光り輝く何かにどこか引っかかってしまったニコは、丁寧に『余計な部分』に触れないよう細心の注意を払いながら、女性の胸元へと手を伸ばした。
「ニコ様?」
「大丈夫だ。気を失っている女性を襲う趣味は無い」
訝しげな表情を浮かべるトマソンを脇に、するりと女性の胸元からそれを取り出すニコ。
だが、女性が首から下げていたそれのひんやりとした感触に何故か背筋が凍るような感覚に襲われてしまった。
それは、そこにあってはならない物だと、ニコの身体が返す無言の反応だったのかもしれない。
「……懐中時計……ですかな?」
それに視線を落としたまま、何故か言葉を失ってしまったニコを代弁するように、覗きこんだトマソンが小さく呟く。
女性の首から下げられていたのは、美しい懐中時計だった。
かなりの値打ち物ではないかと思ってしまう、装飾が施された美しい懐中時計にトマソンはさほど驚きを見せなかったが──ニコは違った。
どきりと鼓動が高鳴り、嫌な汗がじわりと背筋を伝う。
息をする事も忘れ、ニコはその懐中時計と未だ眠ったままの女性を交互に見やった。
リサに似た女性。そして彼女が持っていたこの懐中時計。
それがニコを更に困惑させる。
どうしてここに、これがあるんだ。
その言葉が正しい回答を導きだすこと無く、ニコの頭の中をぐるぐると回った。
この懐中時計はリサ出会うきっかけになった、あの部屋に置かれていた東方の魔術師が作ったと言われるあの懐中時計だ。