第十六話 静かに流れる時間だけが、僕達の行方を知っている
ウェイドが手にしていた剣は、奇しくもニコやリサと同じ細身のレイピアだった。
肩幅に足を開き、利き足を外側へ向け腰を落とす。
ニコが剣を抜くその時を待ち、ウェイドはゆっくりと構えへと移った。
「シッ!」
タン、と後ろ足を蹴りあげニコとの間合いを詰めるウェイド。素早い前進から僅かのブレも無くまっすぐ腕を伸ばし、突きを放つ。
「くっ!」
ウェイドのスピードに虚を突かれたニコは、僅かにタイミングが遅れ、後退しながら咄嗟に剣を斜め前につきだし、間一髪ウェイドの剣を捌く事が出来た。
なんて重く鋭い突きだ──
剣がかち合った甲高い音がウェイドの書斎に響く。
彼らはまだお互いが幼かった頃に一度剣を交えていた。
既に剣の才能の片鱗が見えていたニコに、兄のウェイドは遊び半分で挑み、そしてあっさりとウェイドは負けた。
剣術のイロハも知らないウェイドが負ける事は仕方がない事だったが、その時の記憶が残っていたニコには、このウェイドの剣術に驚きを隠せなかった。
「……ハン」
目を丸くするニコにウェイドは小さく鼻で笑うと、すかさず続けざまに斬撃を放っていく。
微妙な間合いのコントロールでニコの反撃を躱しながら、次々とウェイドの突きがニコを襲う。
「どうしたニコッ! 王室騎士の実力はそんなものかッ!」
「クソッ!」
前身のバネを使い放たれる鋭い突き。そして後ろに少し引き、溜めを作って再度突きを放つ。
まるで流星の様に放たれ続けるウェイドの突きにニコは次第に書斎の壁へと追い詰められていく。
ニコが押されているのは単純にウェイドの剣術がニコに優っているという理由だけではなかった。
この日を準備し、憎しみに支配されたウェイドと違い、ニコの剣には未だ迷いがあった。
実の兄であるウェイドに剣を向ける事が出来ない──
その気持の差が次第にニコを追い詰めていっていた。
「剣が止まっているぞニコ。大人しく俺にリサを渡す気になったか!?」
「……ッ!!」
リサ──
その名前に一瞬ニコの手が止まってしまった。そしてその隙を突き、ウェイドの剣がニコの喉元を襲う。
しかし、その剣の切っ先が柔らかい喉を切り裂くかに見えたその瞬間、ふと何を思ったかウェイドは剣を指先でくるりと回転させるとそのまま鞘の中へ戻した。
「なっ……!?」
一体どうしたんだ。何故剣を引いた。
わけも分からず呆けてしまうニコだったが、直ぐにその理由が判った。
「……ウェイド様」
コンコン、と小さいノック音が聞こえ、小さく開け放たれた書斎の扉。
そしてそこに居たのは、テムジンの屋敷で働くメイドの女性だった。
「お部屋から何か騒ぎ声が聞こえましたが、何か有りましたか?」
「なんでもない。ちょっと足を滑らせてしまってね。情けない」
「……そうでしたか。申し訳ありません、先日侵入事件がありましたので心配になりまして」
「……ありがとう。問題ない」
にこりと笑みを浮かべるウェイドに、メイドは失礼しましたと頭を垂れ、踵を返した。
ジロリとニコを睨みつけたまま、剣の柄に手を当て、メイドの気配が無くなる瞬間を待つウェイド。
そして、完全にその気配が消え去った瞬間、ウェイドは再度すらりと剣を抜いた。
「……さて、続けようか」
「君は……」
何故あのメイドが来ることが判っていたんだ。
わけも分からず、ニコはただ狼狽を漂わせる。
ウェイドはメイドがノックする前に剣を引いていた。まるでメイドがこの部屋に来るタイミングを事前に判っていたかのように。あれは……まるで「そうなる事」が事前に判っていたかの動きだった。
と、ふと彼の脳裏に先ほどこの部屋に足を踏み入れた時にウェイドが放った言葉が蘇った。
小さかったが、ウェイドは確かに囁いた。
時間通り、と。
「……さっき僕がこの部屋に来た時──時間通り、と言ったなウェイド」
「フフ、良く覚えている」
不敵な笑みを携えるウェイド。そしてその表情に唇を噛み締めるニコ。
その言葉から推測される答えは1つだ。
「君は、この日を既に見ている……?」
メレフェンの懐中時計を使って?
自分の中に産まれた予想を口にしたニコだったが、一方でそれはあり得ないとも思っていた。
10年後から来たリサは言っていた。メレフェンの懐中時計を使っても狙った時間に飛ぶことは出来ない、と。ウェイドが懐中時計を使って今日のこのタイミングをピンポイントで見る事は不可能なはずだ。
だが、返されたウェイドの言葉はニコの予想を覆す。
「そうだニコ。俺はこの日を見ている」
「……不可能なはずだ。懐中時計を使って狙った時間へ行くことは出来ないとリサは言っていた」
「思い込みとは怖い物だ、ニコ。そうなるはずはないと己の中で作った真実が思考を停止させる。一年前、俺の前に現れた『10年後の俺』はその方法を教えてくれた。──狙った時間へ行く方法だ」
「……なんだって!?」
「それを知っていたからこそ、一年前を狙って奴は俺の前に現れたのだ」
その言葉に言葉にならない絶望がニコを襲う。
確かに、その方法を知っていなければ、10年後のウェイドは一年前を狙って現れることは出来なかったはず。
そしてその方法を知ったウェイドはすでに今日という日を見ている。いつ僕がこの場所に現れ、次に何が起こるか。ひょっとして……僕がどう守り、どう攻めるかも知り尽くされているんじゃないか。
「いい顔だ。いい顔だぞニコ」
「やめてくれッ、ウェイド……ッ!」
それはつまり、どう足掻いてもウェイドには勝てないということ。
じりと近寄ってくるウェイドに、ニコは戦意を失い逃げる様に扉の方へと後ずさっていく。
「フィナーレだ、ニコ……!」
くるりと剣をしならせ、身を低く構えるウェイド。
もうダメか──
剣をウェイドへ向けながらも、諦めに近い落胆がニコの心を支配しかけた──その時だった。
「なっ!?」
ニコの手に伝わってきたのは、肉が裂ける独特の感触だった。
その感触に促されるように視線を送ったニコの目に映ったのは、自らの腕にニコの剣を突き刺すウェイドの姿。
信じられない光景だった。
「何をッ……!?」
得体のしれない恐怖に襲われたニコは、咄嗟に勢い良く剣を引いた。
ウェイドの腕から抜かれた剣が血痕を散らせ、書斎の壁面を赤く染める。
だが、困惑するニコと対照的に、ウェイドは満面の笑みを浮かべていた。そして、ウェイドが見ているのはニコ姿ではなく、彼の背後……開け放たれた書斎の扉だった。
「……ニコ?」
「……ッ!?」
小さく掠れた声がニコの耳に届いた。
聞き覚えがある優しい声。その声は──リサの声だった。
「リッ、リサッ!?」
くるりと背後を向くニコの目に飛び込んできたのは、紛れも無いリサの姿だった。
窓から差し込む、星夜の光に照らされた美しいワインレッドのドレスを着たリサ。
「何故ッ!? 何故ここに!?」
「……ニコッ……これはッ……」
リサの声に、ニコははたりと我に返った。
血のついた剣を握るニコと、腕を抑えうずくまるウェイド──
しまった、ウェイドの狙いはこれだったのかッ……!
「……ニコ、俺はこの日を見ていると言ったではないか。赤いドレスを着たリサがお前に会いに屋敷に訪れるシーンを」
「くっ!! リサッ! 違う、これは違うんだッ!!」
うずくまったまま、クツクツと笑うウェイドに、ニコは慌てて剣をその場に捨てた。
だが、すでに時は遅かった。
あまりのショックに呆然としたリサの姿が、さらなる絶望をニコに与える。
「……リサ、気をつけろ。殺人鬼の正体は──ニコだった」
「……ッ! 違う!! 僕じゃない!!」
「ニコッ、どうしてッ……何故貴方がッ!?」
ゆっくりと立ち上がったウェイドは剣を構え、まるでリサを守る騎士のように彼女の傍らへと歩み寄る。
僕を信じてくれリサ──
そう祈るニコだったが、ウェイドはそれを許さない。
「衛兵を呼んでくるんだリサ。過ちを犯してしまったニコは罰せられなければならない」
「ああ、ニコ……」
どうしてなの。
あまりのショックに、ふらりとウェイドに身体を預けるリサ。
そしてウェイドは時の流れを変えた事を確信した。
この後衛兵がなだれ込み、反抗したニコは胸を貫かれる──
ぎらりと笑みを浮かべるウェイドの姿が星夜の光に映しだされたその時だった。
「……?」
あれは──
ウェイドに肩を抱かれるリサの姿に、ニコはひとつ違和感を覚えた。
部屋の中を照らすのは、心もとないろうそくの明かりと、窓から差し込む星夜の光だけ。薄暗い部屋の状況からよく判らなかったが、リサの細い指み見えるのは──幾つもの傷だった。
「……やっと辿り着いた」
「え?」
ぽつりとリサの声が書斎に広がった次の瞬間、ウェイドは後頭部に激しい衝撃を受けた。
その衝撃がリサの右手に握られたレイピアの柄で殴られた物だと気がついたのは、その視界がぐにゃりと歪んでからだった。
「がッ!!」
突然の出来事に、防ぐこともできず、後頭部を強打され脳震盪を起こしたウェイドは力無く倒れこんだ。
背後にあった机にしがみつき、起き上がろうとするものの、すでにウェイドの手のひらからは力が抜け落ち握ることすら出来ない。
朦朧としていく意識の中、ウェイドは理解出来なかった。
何故何も知らないはずのリサが俺を──
「貴方が見てきた未来には私は居なかったのよ、ウェイド」
「……ッ!!」
リサの言葉に目を丸くするウェイド。
「本来この場所に現れるハズのこの世界のリサは──トマソンに足止めしてもらったわ。そして代わりに私が──」
「君はッ……10年後のリサ!?」
ドレスを着た10年後のリサの姿にニコも驚きを隠せなかった。
まさかこんな形で来るなんて。この世界と関わりを持ちたくないとそう言っていたのに──
「言ったでしょ、ニコ。貴方を助ける為だったら、私はなんでもするって」
「……くっ」
闇の中に消えていく意識を必死に押しとどめ、懐の中に腕を伸ばすウェイド。
時間を……時間を戻せば……何度でもやり直せる。
そして、その指先にひんやりとしたメレフェンの懐中時計が触れる。
が──
「……ッ!!」
咄嗟に伸びたニコの手がウェイドの腕を止めた。
メレフェンの懐中時計に触れていたウェイドの右腕がニコの手に掴まれ、引きずり出される。
ウェイドの左腕は僕の剣に刺され使えない。これでもうウェイドは時の流れの中に逃げる事は──出来ない。
「ニコ……ッ!!」
「思い込みは怖いなウェイド。己の中で作った真実が思考を止める」
先ほどウェイドが口にした言葉を返すニコ。
そして、物悲しげな表情を浮かべるニコを睨みながら、煮えたぎる憎しみの中に溶け込んでいくように、ウェイドの意識は深い闇に覆われていった。
最終話はこの後21時アップです