第十二話 僕とリサの剣
テムジンの屋敷は周りをレンガで組まれた塀が囲み、外部とつながっているのはテムジンが雇った衛兵が守る北の正門と南の後門の二箇所だけだった。
通常であれば、簡単には足を踏み入れることができないテムジンの屋敷。
暖かいニコの部屋から身も凍る庭に出たリサは、黒いコートを羽織りながら即座に後門がある南に向かって駆け出した。
リサは出来るだけニコ以外との関わりを避ける為に、後門に近い塀をよじ登り、夕刻まで周回している衛兵の隙をついて屋敷内外へと行き来していた。
そして今回も、同じように後門近くの塀を使って外へと行こうと考えていたリサ。
だが、そんなリサの視線に飛び込んできたのは、幾つもの松明の明かりだった。
空を覆い尽くす厚い雲が月の光を遮っているために、僅かな光も届いていない深い闇の中、まるで鬼火のように揺らめく幾つもの松明。
それが、衛兵が持つ松明だとわかったのは彼らが直ぐ近くまで歩み寄ってからだった。
「……ッ!?」
男爵が雇った衛兵は、正門と後門にそれぞれ数名、この時間に庭の中を巡回している衛兵は居ないはず──
咄嗟に茂みの影に滑りこむリサだったが、それが逆に災いしてしまった。
飛びこんだリサの動きで、茂みが大きく揺れ、そして葉擦れの音を放ったのだ。
そしてその音に、松明を掲げる衛兵が即座に反応した。
「……誰だッ!?」
「しまっ──」
衛兵の声に、息を殺すリサ。
ぐるんと身をひねり、松明をリサの方へと向けた衛兵が微かな動きも見逃なさいと目と耳を凝らしているのが空気で判った。
「出てこい……答えなければ力づくで引きずり出すぞ」
次第に近づいてくる声。最悪気絶してもらおうかと一瞬考えたリサだったが、周囲の状況を見てその考えは跡形もなく消え失せた。
まるで明かりに集まる羽虫のように、こちらに向かってきている幾つもの松明の明かり──
「……どいてっ!」
「……ッ!!」
嫌な予感が脳裏を過った瞬間、即座にリサは動いた。
地面を蹴りあげ、茂みから飛び出すと衛兵の左側──松明を持つ左手の方向へと駆け出す。
松明の明かりが周囲の闇をより濃くし、衛兵は一時的に私を見失うはず。
そして、そう判断したリサの考えは的中した。
「うっ……!」
逃げ出したリサに衛兵は慌ててリサの身体を捕らえんと動いたが、松明の明かりと周囲の闇で暗順応がおきてしまった為にその姿を見失ってしまった。
「ま、待てっ!!」
衛兵の声を置き去りに、ふわふわと松明の明かりが浮かぶ闇の中、広い庭を駆け抜けるリサ。
背後から先ほどの衛兵が仲間を呼ぶ叫び声が聞こえたが、気に留める事なく暗闇の中を駆け抜けた。
間違い無い。あの衛兵は自分を捕まえようとしている。
何故ばれたのか──
ぞくりと背中に冷たい物を感じたリサ。
来た時と同じように塀をよじ登ろうかと一瞬考えたリサだったが、その足は後門脇の塀ではなく篝火が炊かれ、闇の中に浮かび上がっている後門へと向かっていた。
衛兵は私の存在を知り、そして捉えようと警戒している。塀を登っている途中で追いつかれてしまう可能性は高い。だったら時間を短縮出来る後門を突っ切る──
しかし、その後門にはさらにリサの予想を超えるものが立ちはだかっていた。
後門の篝火が塀に落とすのは、幾つもの人影。
普通であれば、二名、多くても三名程度の衛兵しか居なかったはずの後門には、まるでリサが来るのを待っていたかのように10名近くの衛兵が待ち構えていた。
「居たぞッ!」
「……もうっ!」
庭の中央付近で起きた騒ぎの声がすでに届いていたのか、警戒を強めていた後門を守る衛兵の1人がリサの姿をとらえた。
しかし、リサは足を止めない。
まだ全員が私の姿を捉えているわけじゃない。このままスピードに乗って行けば切り抜ける事はできるはず。
彼女のその美しい黒髪と、そして身体を覆う黒いコートのお陰で完全に闇と一体化したリサは、一陣の黒い風になった。
「ここは通さんぞ、賊めっ!」
「押し通るわッ!」
槍を構えた1人の衛兵がリサの目に映った。
多分、気がついているのはこの衛兵だけ。
そう判断したリサは、腰に携えていたレイピアを滑らかに抜いた。
「ハッ!」
リサの動きに合わせ、足止める為に衛兵は低い突きを放った。
もしその足を捉えることが出来なくても長い槍が邪魔になり足をもつれさせる事も出来るはず。
そして、衛兵の予想通り、リサの右足元に刺さった槍はリサの動きを封じる
「くっ!」
丁度踏み込もうとした足を邪魔される格好になったリサはぐらりをバランスを崩してしまった。
このままだと倒れる──
咄嗟にそう判断したリサは、考えるより前に身体が無意識でその攻撃に反応した。
倒れこむ力を利用して、衛兵の槍と両腕、そして低く構えたその身体の上をぐるりと前転し乗り越える。
まるで衛兵の身体を滑るように乗り越えたリサは、いとも簡単に衛兵の背後を取った。
「なっ!?」
まさかそう返されるとは思いもしていなかった衛兵は一瞬呆気に取られてしまった。
そして、賊に背後を取られたという絶体絶命の状態に全身の毛が逆立ち、恐怖がその身を覆い尽くす。
だが、彼の身体に背後からリサが持つ鋭い刃が突き立てられる事は無かった。
くるりと身を翻す衛兵の目に映ったのは、黒い髪をなびかせるリサの後ろ姿──
「クソッ! 追えッ!! 逃げたぞッ!」
絶対に逃さないと叫ぶ衛兵の声と、リサを追う為に走り出した衛兵の足音が篝火がぼんやりと光る暗闇の中に響き渡った。
***
闇の中に逃げ出してすでに数時間が経っていた。
普通であれば、一時中断されてもおかしくないリサへの追撃だったが、沈静化するどころかそれはさらに熾烈を極めていた。
まるでパラミシアの全衛兵が捕らえんと追ってきているような、そんな気すらしてしまうリサ。
だが、それは偶然ではなかった。
テムジンの屋敷に忍び込み、ニコを襲ったと話したウェイドの通報は、街の衛兵詰所へと伝わり、そして辺境伯の元まで届いていた。
その賊が例の殺人鬼に違いない。
そう判断した辺境伯は夜を通しての捜索命令を下していた。そして衛兵と合わせて街に放ったのが、殺人鬼事件の解決の為に腕に自信がある剣士達で組織した例の「自警団」だった。
「……お前が例の殺人鬼?」
すでに東の空が透き通り、青みがかってきているパラミシアの街。
リサの前に立つ1人の男が小さくそう囁いた。
あきらかに衛兵ではない、どこかのゴロツキと言っても納得してしまうその男の姿。
彼が辺境伯が組織した「自警団」の一員だということは明白だが、リサにはその男が何者なのか判らなかった。
追われ続け裏路地へと逃げ込んだリサだったが、姿を消した衛兵と違い、まるで猟犬のように彼女を追う自警団の剣士はリサに休む時間すら与える事は無かった。
袋小路へと追い詰められた状況で、息は上がり、生傷で薄汚れた満身創痍といっても過言ではないリサ。
すう、とゆっくりと息を吐き出す「のがれの呼吸」で息を整えるリサだったが、すでにその顔には絶望の二文字がうっすらと見え隠れしていた。
リサの前に立つ剣士は全員で4名。もちろんその誰もが武器を携えている剣術に覚えがある猛者達だ。
「無視かい。……まぁ、なンも答えなくても別に良いけどよ。お前を殺して殺人鬼事件がなくなれば……お前が殺人鬼だったというだけの話だ」
「……ッ!」
そう言ってジリ、と間を詰める剣士。その手に握られているのは男の屈強な姿にぴったりの「戦鎚」だ。ウォーハンマーと呼ばれるもので、柄の先に設けられた頭の片方がハンマー、片方がつるはしの様な鋭利なピック状になっている大柄の武器だ。
その威圧感に後退りながら、この状況をどうやって打開するべきか考えるリサ。
戦鎚の打撃、もしくは斬撃を正直に剣で受け止めてしまえば剣もろともやられてしまうのは明らかだ。如何に初撃を躱し、その懐に飛び込めるかが鍵。だけど、相手も素人じゃない。こっちがそう動くということは重々承知のはず。
「女を殺すのは気が引けンが……まぁ、自業自得っつー事で」
そう言って剣士は戦鎚を右肩にぽんと乗せると、地面を蹴り上げリサとの間合いを調整した。剣よりも長く、槍よりも短いその間合い。
そして男はぐん、と身をひねり、かなりの重量になる戦鎚での戦いの基本になる、遠心力を使った打撃を放った。
リサの左から脇腹を狙った横薙ぎ払い──
だが、リサは後ろに少し飛び間合いを殺すと、即座に前身し突いた。
その動きを殺す為に、大腿部を狙ったリサの斬撃。
その剣は、筋肉を切り裂き、刃が男の足に食い込んだ。
が──
「甘めぇッ!」
「……ッ!!」
それを意にも止めず、男は左足を軸にさらに遠心力を使い戦鎚を振り上ると、リサをめがけ戦鎚をそのまま振り下ろした。
男の大腿部に刺さった剣を抜き、後退しようとしたリサだったがその剣はびくとも動かない。
そして次の瞬間、男の戦鎚の衝撃が地面を揺らした。
地面にめり込んだ男の戦鎚だったが──リサは無事だった。
再度後ろに飛び退き、戦鎚を躱したリサ。なんとか致命傷の一撃を躱したリサだったが、状況は絶望的な様相を呈した。
厳しい表情を浮かべるリサの目に映っているのは、男の大腿部に刺さったままのレイピア。
助かる為に手放すしかなかった主を失ったリサの剣は、寂しく男の足に突き立っていた。
「よく手ェ放したな女」
そこは褒めてやるぜ。
足に刺さったレイピアを抜き、直ぐ傍へ放り投げながら男は冷笑を浮かべながらそうつぶやいた。
「……くそっ」
武器はもう無い。
後ずさるリサは周囲に何か使えるものが無いか手探りで探すものの、彼女の手は無情にも空を切るだけだった。
残された道は、逃げるだけ。男の脇をすり抜け、その後ろにいる男達に掴まれる前に──
その明らかな絶望的な状況に、何故か笑みを浮かべてしまうリサ。
「何笑ってやがる」
「……別に」
初めて放ったリサの声に、ぴくりと男が反応したその時、リサは地面を蹴りあげた。
そして、その動きに男は一手動きが遅れてしまう。
身をひねり、戦鎚をなぎ払う男だったが、すでに男との距離を詰めていたリサは滑りこむようにしてその斬撃を躱すと、男の背後へと踊り出た。
ひとり目は想定通り。
身を起こしながら、ふたり目に視線を移すリサだったが──
「逃すかよッ!!」
「キャ……ッ!!」
後頭部に感じた衝撃にリサは思わず悲鳴を漏らした。
ふと視線を戻すリサの目に映ったのは、自分の髪をぎゅうとつかむ男の腕だった。
そして髪を引っ張り、引き寄せたリサの身体に叩き込まんと、振り上げる戦鎚。
不味い──
その言葉と同時にリサの脳裏に浮かんだのはニコの姿だった。
まさかこんな形で終わっちゃうなんて。
そう心の中で詫びるリサだったが、引きずり戻され、天を見上げるリサの視界にふと黒い影が映り込んだ。
空に舞う、黒い影──
そしてその影は瞬時に大きくなり、戦鎚を掲げる男の上に覆いかぶさる様に落下した。
「……うごっ!?」
全く予想できなかった男はその影に背中から潰され、声ともうめき声とも言えない異音を発しその場に昏倒した。
そしてその影は他の剣士達にも衝撃を与えた。
「な、なんだッ!?」
突如空から舞い降りた黒い影に一斉に身構える剣士たち。
その影が黒いフードを被った人だと最初に気がついたのはリサだった。
「だ、誰!?」
「……誰、とはずいぶんな言い草だな」
昏倒した男の背からゆっくりと起き上がった人影のフードの中に見える、見覚えのあるその顔がリサの瞳に映った。
片時も忘れた事は無い、愛しいその姿──
「ニコ!?」
フードの影に隠れるその飄々とした姿。空から舞い降りたのは紛れもないニコだった。
「どうして貴方がここに!?」
「昨日、君を守ると約束した」
この世界のリサにだが。
そう言って優しく抱きかかえるニコに思わずリサの鼓動は高鳴ってしまった。
確かに10年前、ニコと再開した時にそんな事言ってたっけ。
そしてひょいと、先ほど男が投げ捨てた剣をリサへと渡すニコ。
だが、その表情には得心がいかないと言いたげな影が落ちている事にリサは気がついた。
「……こいつに危なくやられる所だったじゃないか。どうして足ではなく、急所を狙わなかった?」
君なら狙えたはずだ。
確かにニコが言うとおり、あの時、足ではなく胴体か首を狙えば問題無く切り抜けられたかもしれない。
だが、リサの選択肢の中に最初からそれは無かった。
「言ったでしょう、この時代の人間と関わらない方が良いって。無関係な人を殺める事で関係ない人の未来を変える訳には行かないでしょ。それに──」
ニコから受け取った剣を構え、どこか冗談っぽくリサが続ける。
「ゴロツキか何か知らないけど、例えそんな奴らでもパラミシアに住む人達を手に掛ける程、愚かじゃないわ。私は」
寝付きも悪くなっちゃうし。
そう言い放つリサに、ニコは思わずきょとんとした表情を浮かべ、そして笑顔を零した。
ウェイドの言葉にまたしてもリサを疑ってしまっていた。僕を助けに10年後から来てくれた彼女を。
やはり彼女は僕の知るリサだ。
「東へ抜ける! 遅れるなよッ!!」
「……貴方こそ!」
リサと同じく剣を抜いたニコは、軽くリサと剣を合わせた。
カチンと心地よい剣の音が澄んだ早朝の空気に響く。
僕はただ助けられる存在じゃない。
そう心の中でリサに問いかけたニコは、ひゅん、と剣を回し、手首の感触を確かめながら、目の前に立つ3人の剣士に向かい駆け出した。