第十一話 静かに動き出す時計の針
どれくらいの時が流れただろうか。
愛される喜びと、愛する者の温もりにリサは時を忘れ、瞼を閉じたままニコの胸に身体を預けてしまっていた。
極寒の街パラミシアで必需品ともいえる、部屋に1つは必ず設置されているレンガ造りの暖炉から放たれる暖かく心地良い暖気が、ニコの温もりと共にリサの心をゆっくりと溶かしていく。
このままずっとニコが居るこの世界にとどまりたい──
ついそう考えてしまうリサだったが、彼女の理性がそれを拒んだ。
「……ありがとう、ニコ。もう大丈夫よ」
ニコの傍にいれるのは、この世界の私だけ。そして10年後も、20年後もずっとニコの傍に居させるために、私はこの時代に来たんだ。
そう言って優しい手つきでニコの元から離れるリサ。
だが、理性と感情の間で揺れる心がはっきりと浮かぶそのリサの表情に、ニコの心はじゅくりと疼いてしまった。
「……力になれなくてすまない」
「馬鹿。私がニコの力になるためにわざわざこうやって来たのよ? それは助けられる側の貴方がいうセリフじゃないわ」
貴方は大人しく私に助けられなさい。
申し訳無さそうに言葉を漏らすニコを励まし、そして叱るように笑顔でそう答えるリサだったが、ニコは大人しくそれに従うつもりはさらさら無かった。
「僕にも出来る事は……ある」
「……できること?」
リサの言葉に静かに頷くニコ。
10年後の未来から来たリサが知らない「異変」が起きているトマソンとブランタさん。その2人が僕の死に何かしら関与することになる可能性は大きい。
「星夜のその時までまだ時間はある。僕がトマソン、君がブランタさんに当たってみるというのはどうだろうか」
テムジン家に仕えるトマソンと、テムジン商会を手伝うブランタ。
二人共、この屋敷に居るはずと考えたニコは、どちらかを問いただせば真相が判るかもしれないと考えていた。
すでに未来から来たリサの姿はトマソンには知られている。だとすれば、リサが近づけるのはブランタさんだろう。2人で彼らに当たれば、星夜の夜までに真相を解明することだって出来るはずだ。
「それは危険よニコ。時間があるとしても、どちらかが貴方を襲う事になる可能性があるんだったら貴方は近づくべきじゃない」
「大丈夫さ。僕が襲われるのは明日の夜だろ? ということはつまり……それまでは襲われる事は無いということだ」
未来の君の記憶がその証拠さ。
そう続けるニコに、リサは納得しつつも、眉をひそめてしまった。
すでに時の流れに異変が起きてしまっている。ニコが襲われるのは星夜の夜ではなく、もっと早まってしまう可能性だってゼロじゃない。
何よりもニコの命を気にかけるリサ。
だが、そんなリサを窘めるようにニコが続けた。
「それに、辺境伯の居城から消えた『メレフェンの懐中時計』の行方がどうしても気になる。あまり考えたくはないが、トマソンかブランタさんのどちらかがそれを持っているのであれば、1分でも早く取り戻すべきだと思う」
懐中時計を悪用し、被害者が増える前に。
どこか懐かしいニコのまっすぐな瞳を見たリサは、その瞳に微笑みに似た優しい光を携えながらも、折れざるを得なかった。
「……そうね。これ以上誰一人として不幸にすることはできないもんね」
「ああ。不幸になるのはあの懐中時計に触れてしまった僕と……リサだけで十分だ」
と、パラミシアへ向かう馬車の中で、メレフェンの懐中時計に触れてしまった事を思い起こすニコ。
これはもう運命だったのかもしれない。あの場所でリサを見つけ、そして助けたことも。あの懐中時計に触れてしまったことも。
だが、そう考える一方で、ニコの心にはまだ引っかかっている事があった。
辺境伯の居城へ足を踏み入れる事はそうそうないはずのトマソンとブランタさんがどうやってあの懐中時計の存在を知り、盗んだのか。
殺人鬼事件の犯人も彼ら、もしくはどちらかなのであればその動機は何なのか。
そして何よりも、何故、僕の命を狙っているのか──
これまでニコとリサが発見して来た「点」は無数にあるものの、その点は1つの真相へと繋がってはいなかった。
何か重要な事を見落としているのではないか。
ニコがふとそんな事を考えた、その時だった。
「ニコ」
「……ッ!」
ニコの耳に届いたのは、優しく叩かれる部屋の扉のノック音と、聞き覚えのある声で放たれた自身の名だった。
あの声は、ウェイド──
その声にびくりと一瞬身を竦ませたニコは直ぐ様リサを窓際へと促す。
「今のは……ウェイド?」
「リサ、君はブランタを頼む」
「判ったわ」
リサを部屋から追い出すような真似をしなくてはならない事に自責の念を感じながらも、急いで窓を開け放つニコ。
まどろんでしまう位に暖かかった部屋の空気は舞い込んできた外気に一瞬で凍りつき、ニコとリサの吐息が白く濁る。
「……気をつけろよ、リサ」
「貴方も。また来るわ」
そういってリサは躊躇すること無く、くるりと身を翻すと、いつの間にかパラミシアの街に降り注いでいた闇夜の中へと消えていく。
「……ニコ、居ないのか?」
「ちょっと待て」
再度放たれたウェイドの声に、ニコはリサが消えた事をもう一度確認した後にゆっくりと扉へと足を進めた。
着ていた服を軽く着崩し、寝ていたという言い訳を作りながら。
そして扉のノブを回したその時だった。
まるでその時を待っていたと言わんばかりに、ニコが引く前にその扉が勢い良く開かれると、薄暗い部屋に数名の男たちが飛び込んできた。
「なっ!?」
咄嗟の出来事に一瞬呆気に取られてしまったニコは、飛び込んできた彼らが何者なのかを理解するまでにしばしの時間を要してしまった。
開襟型の青い制服に身を包み、細長い槍、パイクを持つ屈強な男達。
彼らはこの街を守る衛兵達だ──
「……ウェイド、これは一体何だ!?」
突然降りかかった訳が判らない状況に、説明しろとウェイドを問い詰めるニコ。
だが、その質問に答えたのは目の前のウェイドではなく、何故かニコの部屋を調べ始めたひとりの衛兵だった。
「突然申し訳ありません、この部屋に先日医務室で暴れた女が侵入したという知らせを受けまして」
「……なんだって?」
知らせを受けた? 誰に?
訝しげな表情を浮かべるニコがウェイドに再度問いただそうとしたその時──
「……ッ! 奴は窓から外に逃げたぞ!」
「クソッ! 追え!」
微かに開いた窓を見て、衛兵の1人が叫ぶと同時に、別の数名の衛兵が慌ただしくニコ達の横を通りぬけ、部屋を飛び出していく。
彼らの目的はもちろん、リサだ。
「待てッ! 彼女は──」
「やめろ、ニコ……ッ!」
思わず衛兵を止める為に、その制服をつかもうとしたニコをウェイドが静かに制止した。
その目には怒りとも哀しみとも取れる色が浮かんでいる。
「落ち着けニコ。お前の立場まで悪くなるぞ」
「……何?」
僕の立場が悪くなるとはどういう意味だ。
周りの衛兵に気づかれないように、そう囁くウェイドにニコは怪訝な空気を放った。
「……いくら見捨てることができなかったとはいえ、まさか犯罪者を匿うとは。衛兵にはあの女がお前の部屋に侵入して襲ったと話した」
だからこれ以上事を荒立てるな。
ニコにそっとそう耳打ちしたウェイドは、衛兵達に逃げた女性を追うように指示を出すと、じっと睨みつけるニコに溜息をひとつついた。
「……何か言いたげだな?」
「どういう事だ。彼女は犯罪者じゃない」
そう言いながらも、ニコは彼女が未来から来たリサであるとは言わなかった。
その秘密を知るのは自分だけでいい。その事実が広がる事で起きる問題は全く想像できないほど大きく、危険だと感じたからだ。
だが、ニコのその言葉を聞いたウェイドは落胆した表情を滲ませた。
「先日、パラミシアの南部で商人が殺され、着ていた黒いコートと剣を奪われた。犯人は薄汚れたブリオーを着た女性だったらしい」
「……ッ!?」
落ち着いた口調で放つウェイドの言葉に、ニコは驚きを隠せなかった。
リサが商人を襲い、殺めた──?
そんなはずがあるわけないと心の中で叫びつつも、先日自分の元に現れたリサの姿をニコは思い返し、息を呑んでしまった。
確かにリサは見慣れない黒いコートを着ていた。そして自分がリサだと証明するために携えていたのは、一振りの剣。
「衛兵にばれないように手は回した。お前はあの女に襲われた1人の被害者として立ち振る舞え」
「……余計な事を」
時間はもう無い。このまま犯人の姿が判らないまま明日を迎えれば、神に背く事を覚悟してまで10年後の未来から来たリサの努力は無駄になり、僕は死ぬ。
だが、その一言に、事情を知らないウェイドの顔色が瞬時に変わった。
「……余計な事? 余計な事だと!? もし俺ではなく別の誰かにお前が犯罪者を匿っているという事がばれていたらどうなった!? 噂が広まり、被害を受けるのは誰だ!? 父とテムジン商会、そしてそんなお前を想っているリサだろう!」
「……ッ!」
喧嘩することは星の数ほどあったが、それはニコがこれまで見たこともないほどに激昂したウェイドの姿だった。
物静かなウェイドが放ったその声に、ニコは言葉を失ってしまった。
そして、その剣幕の根幹に流れているのは、自ら継いだ商会への責任感と、リサへの気遣いだということが、ニコには感じ取れた。
確かにウェイドの言っている事は最もだ。
成功を続けるテムジン商会を妬み、隙あらばその足を掬おうとする輩は少なからず居る。真実がどうであれ、彼らは燻るその噂を持ち上げ、巨大な炎へと変貌させようとする可能性は高い。
そして、リサ。僕達の未来とは言え、彼女に迷惑をかけてしまうことに成りかねない。
「お前の悪い癖だ。いつも考える前に行動に移してしまう」
「しかし、ウェイド、彼女は──」
「いい加減に頭を冷やせニコ。あの女は犯罪者だ。すぐに衛兵に捕らえられ罰を受ける事になるだろう」
それがあの女の運命だ。
冷ややかにそう言い放つウェイド。
だが、ニコはその言葉を頭で理解しつつも心では理解するわけには行かなかった。
リサが商人を殺めるなんて、そんな事あるはずがない。
リサはパラミシアの街を愛する辺境伯の令嬢だ。そんなリサが、自身のためとはいえ市民に手を出す事は考えにくい。もし万が一そういう状況になったとしたら、何かしら重大な理由があるはずだ。
踵を返し、部屋を後にするウェイドの後ろ姿を見つめながら、そう考えるニコ。
時間がないこの状況で、横槍を刺された形になってしまったニコはベッドへと腰を降ろし、頭を抱えてしまった。
僕は選択する必要がある。
10年後の未来から来たリサを助けるべきか。それともテムジン商会と、この世界のリサを優先するべきか──
ウェイドが去った静かな部屋、時間だけが無情に流れていった。
暖炉の火はいつの間にか消え、キンと冷たい空気が包み込んでいる事も気がつかない程に、ニコは悩み、考え、そして1つの答えがニコの中に生まれた。
どちらを優先すれば未来がどうなるかなんて僕にわかるわけがない。
だが、今まさに、リサの身に危機が降りかかろうとしているのならば、僕は──
決心したように顔を上げるニコ。
そのまま厚手のコートをクローゼットからかすめ取ると、そのコートに付いたフードを頭にかぶり、窓を開け放ち夜のパラミシアの街へと飛び出した。
考えるより先に行動に移す愚かな男だとウェイドに言われようとも、時間はまってはくれない。
トマソンとブランタさんを探る以前に。
明日の夜、星夜を生き抜く以前に。
リサに本当に商人を殺めたのか、その真意を問う以前に。
僕は、今危機に瀕しているリサを、助ける。




