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episode-6 デュアルランプ

登場人物  ■男子 ◇女子  名前…役職,所属スコード/係,前歴,寝るときの服装


かげ…警士,一応外周,平凡私立高等部1年,パジャマ+カーディガン スーピマコットンの上下は勿体なくてまだ一度も袖を通していない

ほのか…警士,外周/書記,国立高等音楽院鍵盤学科1年,水色かピンクか白のネグリジェ


あがた…警士,中心/篁警尉の秘書,名門私立高等科2年,品格重視で選び抜いた濃色無地のパジャマ 最近は冴えない色の病衣

さら…警士,中心/救援,名門私立高等科2年,縣が着古したシャツ、レースのスリップ、長いTシャツ等、いろいろ楽しんでいる



つい…警士,外周,中等部2年理数科,ロンT+ジャージ

くるみ…警士,中心/広報・問題を起こして謹慎中,私大付属中等部3年,ポップカラーのルームウェア+お揃いのソックス


タカムラ…警尉,所属スコードなし/講師,大学院卒,深夜早朝も基本的に制服


 百貨店の最上階。密談向きの展望フロア。ここから、シティの街並みを一望できる。

 敵隊の集会場所と思われる大学について、市警団への報告は無事済んだようだ。

 書式が頭に入っているらしく、「少し待ってて」から「お待たせ。送信したわ」までが驚くほど早い。ほのかに同行を頼んでよかった。

 発見者は自己中心的な事情で秘密だ。

 ――これでいいよね。絶対目立ちたくないし。もし、打ち合わせて襲撃したのに敵の姿がないなんてことになったら……。

 解雇の二文字がちらつく。

 仄は高所が苦手なのか、それとも隠れ望遠鏡フォビアなのか、中央のテーブルから動こうとしない。「かげ。落ちそうで怖いわ。こっちに来て」を、先ほどから何度か繰り返している。

 透明に見えるガラスの壁は、薄い割に頑丈だ。出来心で寄りかかってみたけれど、砕け散って地面に墜落するというグロテスクは起こりそうにない。

 ――突然『本日の最高気温』と同じ数値のマグニチュードに襲われて、過疎り気味の百貨店に取り残される主人公と異性。……この場合は俺と書記か。

 ふたりで力を合わせ、半壊したデパートから脱出するという展開は起こるかもしれないが、できればゲームでやりたい。

 ――大きい建物は悪い夢の宝庫だね。

 言われた通りにガラス壁を離れ、彼女の向かいに座る。

「市警団の制服着てるとさ、私服のときよりウェルカムな空気だよね。レストランで頼んでないデザートくれたりとか。サービス良すぎて会員カードからポイントが溢れ出しそうだよ」

 有り難いけれど、これといった活躍もしていないので申し訳ない気分だ。

 仄は、炭酸を上手く飲み込めなかった子どものような笑い顔で何か言いかけたが、すぐに手元の端末へ視線を戻した。

タカムラさんから、さっきの報告書の返信。……調査課の人に伝えてくれたって。これで安心ね」


 負傷した腕が痛むのか、仄がポケットから処方薬のケースを取り出した。そのラベルが目に触れた瞬間、ピンク色の衝撃が走る。

「それ、『オーバーワーク』じゃん!」

 正式な名称は忘れてしまったが、間違いない。一錠飲めば、痛みや苦しみ、気怠い眠気からも解放されて、疲労由来の落ち込みや虚脱感にも効果覿面。フレッシュに生まれ変わって勤務や任務に没頭できるという、水と同じくらい需要のある薬だ。ただし、依存性が高いので、そう簡単には処方して貰えない。

 ちなみに、『オーバーワーク』の上位モデルにあたる『ワーカホリック』は、存在のすべてがヴェールに包まれている。

「これ、ピアノ教室時代にほしかったわ」

 彼女は切なげに微笑んでいたけれど、それでも、人に知られたときの感触はましだ。

 ――俺が通わされそうになった笑顔教室よりはね。


「影もどこか痛むの?」

「ん、大丈夫だよ。寝てないから変な感じになっただけ。アクシデントに弱いんだ。補強材入れ忘れちゃった」

 テーブルに伏せると死んだみたいに力が抜けた。残滓レベルのポジティブが活動を諦めて、ネガティブな色に染まっていく。よくない記憶がガラス片のように体内を巡って、もうすぐ指先まで届きそうだ。

 泣いてもどうにもならない孤独の中で、自分が掠れた人間だと気づかされる。そしていつも、怯えも不安もなく誰かを頼れる心の持ち主が羨ましくて堪らない。

 仄を信じて、胸の奥深くに隠した過去のページを渡せば、彼女はきっと、細い腕でやさしく抱き締めてくれるだろう。

 けれど、何から切り出してよいかわからず、自分の話をするのがとても怖かった。

「消滅しそうなんだ。……ごめん」

「そういう人、好きよ」

 悲しげな眉はそのままに、口元をほんの少し綻ばせていて、流れなかった涙が滲み出しているような表情だった。



 ついは、重みで下がってくる紙袋を肩に掛け直した。

 朝から義姉の果てしないショッピングにつき合わされ、拷問レベルの疲労感だ。

統己もとき! 聞いてる?」

 彼女は、ドクターストップでサークルの旅行に行けなかったことに激怒し、猛烈に機嫌が悪い。

「何で私だけいつもこうなの!? 普段暇してるんだから、少しくらい楽しんだっていいじゃない! そう思うでしょ?」

 本人の希望で皆スーザンと呼んでいるけれど、名はスザナだ。

「あの医者さえ始末しておけば、今頃ビーチでトロピカルな気分になれたのに! 悔しくて弾けそう! ……ねぇ、黙ってないで何とか言いなさいよ!」

「旅行なんて興味ねえよ。疲れるだけだろ、そういうの」

「冗談でしょ? 不健全だわ」

 スザナは嘲笑うように言い、ようやく見えて来た浜辺へ向かって駆け出した。派手な色柄のワンピースが遠ざかっていく。年上の男にアプローチされたいらしく、前髪を色っぽく横に流し、化粧にも気合いが入っている。あれが病人だと言っても誰も信じないだろう。

「頼むから大人しくしてくれ……」女の行動力を甘く見ていた。こちらはもう、走る気力も残っていない。


「統己はどうなの? 市警団って女子もいるのよね?」

 波音と潮風に触れ、自分を形成する屈折した何かを、戦衣と一緒に置いてきてしまったように感じる。

「たぶんいたと思うけど。オレは今のところ、豆乳好きな謎の生きものとしか接触してない」

 スザナは目を輝かせた。

「相手がナゾの豆乳好きでも全然いいのよ。青春って恋の連続だもの。本当はスリリングな駆け引きにはまってるんでしょ? ……最高! 私も命懸けで守られてみたい!」

「そんなこと誰もやってねえよ」

 話題がまったく合わず、身を置いている環境の違いを思い知らされる。

 ――恋とか愛とか、よくそんなものに夢中になれるよな。依存症かよ。

 スザナは、愛されて幸せになりたいらしい。

 上手く想像できない感情だ。

 けれど、彼女は義弟(自分)にも、誰かを愛して喜びを得てほしいと願っている。そのことは、何となく伝わってきた。

「豆乳がピンチのときは、仲間を犠牲にしてでも助けに行くのよ。女の子が求めてるのは、強大な敵から守ってくれるような頼もしい男らしさだってこと、わかるでしょ?」

 自分が男なので、少しもわかれそうにない。

「糖分高い話は女同士でやってくれ。頭が溶ける……」


 しばらく砂浜に座っていた愛の指導者が、再び波と戯れ始めた。

「せっかく来たんだから、統己も海に入って。このまま海岸沿いのSSバーガーまで歩きましょう」

 また食べるつもりなのか。

「あ、荷物忘れないでちょうだいね。持ってくれたお礼にご馳走するわ」

「いや、オレが」特に趣味もないので、市警団の給与が遣い切れずに余っている。そうでなくても、女性に払わせるのは義家族のルールで禁止だ。

「ねえ、人を殺すってどんな感じ?」

 コミックやドラマによくある『初めてのキスってどんな感じ?』と同じ訊き方だ。

「別に……」

「何も思わないの? それなら、いざというときは統己に任せるわね。うちに強盗押し入ってきたりとか、実際ありそうじゃない? 戦闘向きな義弟おとうとがいてくれて助かるわ。私もジョニーも、パパとママも頼りにしてるから」

 義家庭では、市警団で習得したことを生かし、SPのような存在を目指すべきなのか。

 用済みになったら捨てられるだろうと穿っているこちらの卑屈さに、スザナは少しも気づいていない。

「残念だけどオレの方が先に死にそうだ。……血はできるだけ多く貯めておくから」

「そんな面倒なことしなくていいのに。貰われた自分に引け目感じて遠慮してるでしょ? 一応家族なんだし、変な気遣いはしなくて大丈夫! とにかく、あなたは自由に生きて」

「死にたいのかよ」

 スザナは、とんでもないと言いたげに首を振った。

「私だけ棺の中で恋愛禁止なんてありえない!」


 少し先の砂浜に、奇妙な細長いものが打ち上げられている。

「何だ、あれ」

「きゃっ!」気づかず側を通ったスザナが短く悲鳴を上げた。一度飛び退き、ゆっくりと近づいて身を屈める。「これ、ソックスじゃない? ウミヘビかと思った……!」

 既視感と同時に嫌な予感がした。間近で確かめると、やはりあの日流されていった楜の靴下と同じものだ。

「どうかした?」

「これ、市警団の知り合いのだと思う」

 ただの偶然だ。なのになぜか、意味深なSOSを感じる。

 濡れていて不気味だが、とりあえず持ち帰って本人に渡すべきだろう。

 楜の熱意に押され、休暇をとって帰省したけれど、来週には戻る予定だ。

「ファンシーなソックスね。片方だからソックかしら。……もしかして豆乳が履いてたの? 違うタイプ想像してたから意外かも」

 すぶ濡れになった楜の姿が脳裏を過ぎる。刹那、腰に回された腕の感触を乱暴に振り払いたくなった。女の扱いが本当に苦手だ。

「何も訊かないでくれ。今は思い出したくない……」

 あの後、自分を見送ってから、シャワーを浴びて寝たのだろうか。

 スザナが小さな貝殻を拾い上げて言った。

「ねぇ。モトキってちょっと言いにくいから、あだ名は『もっくん』? ……あ、そういえば市警団の人たちって、別の名前使ってるのよね。その子から何て呼ばれてるの?」

 たとえ今が世界消滅の間際だとしても、絶対に口にしたくない。


 SSバーガーのテラス席で紙コップにストローを突っ込んでいると、ビル壁面の大型モニタがニュースに切り替わった。

 先日の深夜、パトロール艦が受信した救難信号は間違いであり、発信者の市警団警士と思われる人物も、無事が確認されたとのことだ。

 ――げっ、……クルミ! だよな……。

 さっと血の気が引いた。

 幸いにも名前は出ていなかったが、犯人に心当たりがありすぎて目を逸らせない。

 ――説教ムードだけど大丈夫なのか?

 ペンライトを渡すべきではなかった。一度きりでも、未来を予測できる能力があればと切実に思う。

 スザナもポテトを口に押し込みながら、振り返って巨大な液晶モニタを見た。

「市警団って面白い子がいるのね! 夜中に何してたのかしら」

 みなしごのヒトデを探していたなどと言えるはずがない。

 冷静さを取り戻すため、どこかで頭を冷やそうと思った。

「オレ、外の風に」

 驚いたようにスザナが言う。「ここ、外よ? テラス席だもの。……具合が悪いの? 何か発症したとか? まさか、また吐くの? うちに来てすぐの頃みたいに」

「ああ、いや、ごめん」不審な動きをせずに、大人しく座っていることにした。

 あらゆる内面的なものを台形型に保てば何も怖くない。底辺が長いと揺れに強くて安心だ。

「ほら、統己も早く食べて」

 報道の衝撃で食欲が著しく低下している。

 ――あいつ今頃、篁に監禁されて……。

 早めに戻った方がよさそうだ。責任の一端がこちらにないとは言い切れない。

 それを伝えようとスザナの顔を見た瞬間、思わず目を見開いた。鼻から流れた血が線になって、胸元にまで到達している。

「うぁ、また。もういや」彼女はうんざりした様子でハンカチを当てた。「そろそろだめかも、私」

「変なタイミングで弱気になるなよ。血が必要ならいくらでもやるから」

 スザナは何も言わずに微笑んだ。

「統己が無事に帰ってきてよかった。……英語のテキストにスーザンが出てきたら、私のこと、思い出してね」



 不意にセルラが振動した。市警団からの集合命令だ。

 影は軽く唇を噛む。

 向かいで同じ動きをしている仄も面持ちが険しい。

「挑撥状来たのかな」

「ええ、たぶん。緊急招集のときはいつもそうよ」冷静な抑揚だが、心のどこかで安堵しているようなニュアンスを感じ取った。必要とされたがっている人間の、悲しい陽性反応だ。「急ぎましょう。あまり時間がないわ」

 変身の速度で使える警士に戻らなければ。

 メディカルセンターに寄って、目覚めているはずの更と話をする予定だったが、このまま市警団へ向かうしかない。縣のことは彼女に任せようと思った。

 久しぶりの進攻戦議だ。鉄槌の会の話を聞きたくなさすぎて、ついに待望のP発作が起こるかもしれない。

 下りのエスカレータで、ふと隣を見る。仄が端末を使い、ここから市警団までの移動ルートを調べていた。画面を覗く横顔に、潤いを閉じ込めた髪が添えられていて、自分にはない繊細さに興味を引かれる。

 ――書記最高! 武器なくても品位と知性で敵倒せそうだし。……意外に強いのかな? やっぱ戦ってるとこ見たいかも。


 市警団の本館に入ると、いつになく張り詰めた空気を感じた。

 会議室は満員に近く、睡眠聴講にうってつけの窓際後列席が占拠されている。

 仄は前へ出て、慣れた様子で筆記の準備を始めた。彼女が手元のタブレットに文字を書くと、正面の大型スクリーンに反映される。

 時刻通りに、篁ではない警尉が入室し、進攻戦議が始まった。

 ――タカムーどこ行ったんだろう。病欠? ありえないね。……でも本当にそうなら復讐のチャンス! なんてね。


 挑撥状の内容が繙かれると、会議室内に静かなざわめきが拡がった。

 次の舞台はシティ最大規模のメディカルセンターだ。

 前回の鉄槌の会で、負傷した警士の半数以上がそこに運び込まれている。

 約束通り一般市民を標的にはしないが、誤って殺してしまった場合の責任はとらないという一文が追記されていた。

 あちらの破壊衝動を満たす下劣な会のために、数百名の入院患者を別の施設へ移動させるのは不可能に近い。それが上手くいったとしても、内部の医療機器やベッドは悲惨な状態になるだろう。被害が大きすぎる。

 より昂る刺激を。そして、より惨い快楽を。

 ぶっ壊は、市警団との戦いを楽しみにしているのだろう。

 幸い、開催日までは余裕がある。

 調査課から報告が上がり、敵の集会場所は、あの大学でほぼ間違いないとのことだ。

 想定外の犠牲者を出したばかりのせいか、全体の士気が高まっていた。

 ここで止められなければ、このシティの命運は敵の手の中だ。

 市警団は、新たな惨劇が塗り重なる前に『すべてをぶっ壊し隊』を壊滅させる。

 もう後には退けない。



 ――あー、どうしてもガーターの部屋で寝たい……。俺はあの、最高になめらかなベッドを諦めたくないです。

 日付が変わった頃、寝つけずに扉の前まで行ってみた。けれど、当然のように本人不在のまま施錠されていて泣きたくなった。

「期待してスーピマコットンのパジャマ下ろしたのに全然眠れないし」

 仕方なくロビーへ下りて長椅子に横たわった。ホラーテイストでとても静かだ。

 仄とは、朝の時刻にここで待ち合わせている。

 ――永遠に夜明けなんて来なかったりして。……笑えないね。

 こういうときに限ってくるみの姿もなく、ひとりの寂しさが重く打ち寄せてくる。

 あまりに可哀想なので、忘れずにゲームを持ってきた自分を褒めてみようかと思った。

 毛布の中でパワーオン。

「……あれ? 画面点かない……」

 翻身が鮮やかすぎるけれど、褒める要素が皆無になったので、充電を忘れて放置していた自分を滅茶苦茶に虐げてやりたくなった。

 ――もういいや。諦めて寝よう。


 疲れて気が遠くなった頃、うっすらと無感情な靴音が聴こえた。通路の奥から、真っ直ぐこちらへ近づいてくる。

 確かめるのも面倒で、動かずやり過ごすことにした。

「おい、ここで何をしている」

 一番聞きたくなかった篁の声だ。心を捨てた分、余裕ができたのか、無駄に索敵能力が高い。思い返せば、初日に殴られて以来の対話ではないか。

「ロビーの警備だよ」

 先刻の進攻戦議には不参加だったのに、どういった理由でここにいるのだろう。

 パトロール艦のニュースに関係があるとしたら、いたぶられた楜が星になりかけているかもしれない。

「……何? 用事は」毛布から半分だけ顔を出すと、不機嫌な面持ちでこちらを見下ろしている篁と目が合った。敢えて戦場へは赴かず、高みの見物を決め込むような人物だ。

 ――笑わない弁護士が市警団に所属替えしたらこんな感じだよね。……何で俺のこと嫌ってるのに自発的に話しかけてくるのか知らないけど、タカムー全然好きじゃないから上手く躱そう。

 相性が最悪なのはあちらも承知しているはずだ。

 彼は冷ややかな声で言った。

「一緒に来い」

「は?」

 突然の誘いだ。

警邏けいらに欠員が出た」

 悪夢のような展開だが、縣の救命に手を貸してくれた恩があるので、今回だけは応じるしかない。

「いいよ、寝れなくて暇だし。……着替えてくるから待ってて」


 夜に沈んだストリートを歩いていると、熱の失せた外気が服の隙間から入り込んで、冷たい余韻を残していく。

 遠く聴こえる木立のざわめき。風の悪意が次第に近づいてくる。

 やはり誘いを断って、ロビーで大人しく眠るべきだったと後悔した。

「何度か探したが、おまえの調書が見当たらない。おそらく、ファイルが非公開文書の扱いで別に管理されている。なぜだ」

 それを問い詰めたくて、同行を命じたのか。

 足元から真っ黒な不安が這い上がってくる。

「……さあ。自分に興味ないし」

 残念だが手遅れだ。きっと篁は、こちらの背景を暴ききるまで簡単には諦めない。

 頭が痛み、嫌な汗が滲んだ。

 偽りの平和を保つことに失敗したのか、おそらくもう、体内の血が青く変化している。

「知られて困るようなことをやったのだろう」

 否定すると怪しまれそうだ。変に動揺して、彼の興味をかき立ててはいけない。

「まあね、G.O.S」

 彼は忌々しげに眉の根元を歪ませた。「何だそれは」

「ご想像にお任せしますの略」

「いかれた死神みたいな奴だ。縣に何かあれば、おまえを前の市警団に返品してやるからな。そのつもりで覚悟しておけ」

 敵は必ず、最も脆く弱いところを攻撃してくる。精神の核が壊れそうだ。以前のシティに戻る場所はない。

「確かに、ガーターがあんなことになったのは俺のせいだからね」

 どうせ何も変わらない。無理して明るく振る舞ってみても救いはなく、辿り着く結末は残酷だ。

 ここにもいられないとなると、自分で不用品処理センターへ行くしかない。

 ――俺、何のために生きてるんだろう。

 いつもそうだ。やっと見つけた居場所や仲間とも隔たれて、またひとりになる。

 砂漠に植えられた花と同じだ。すぐに枯れて、ひとつの場所に長く咲くことができない。

「レシート忘れないようにね。……不良品だからいいのか。保証期間確認してみて」

「ふざけた口を利いていられるのも今のうちだ」

「そうかもね……」


 心臓が不規則に早鐘を打っている。

 もう、致死的な胸の痛みに耐え切れない。

 完全に制御を失い、側のレンガ壁に手をついて身体を支えた。

 頭の中から過去の出来事を振り払えない。

 なぜ今になって。

 一体何に怯えているのだろう。

 自分の死。

 ――違う。

 罪の意識。

 ――そうじゃない。

 支配される恐怖。

「う、……」

 操られる屈辱。

 逃げ場のない封鎖フロア。

 無慈悲なルールへの服従。

 窓を染める血飛沫。

 足首に絡む仲間の指。

 再び支配され、操られ、それでも、自らの手で取引を終わらせることは絶対に許されない報復の羅針盤。

 脳はよく憶えている。鮮烈な刺激を求めて再生したがっている。


 シャツの襟元を握ると、不自然な感触があった。

自由人じゆうじん』のペンダントの先が取れて、今にも地面に落ちそうだ。危ういところで受け止め、手の中に握り込む。縣に修理して貰ってからは、一度も不具合は起きなかったはずなのに。

 悪い予感が、狂おしく鼓動する胸に血だらけのバールを振り下ろす。

 ――まさか、ガーター……。死んだ、の、かな。

 全身の力が抜けた。冷たい汗とともに、目の前の景色が暗く病んでいく。

「おい、どうした!」苛ついた篁の声も、距離感が掴めず宙に浮いている。

 上着のポケットに隠していたナイフを握った。今ならきっと自分を殺せる。

 けれど、あと少しのところで、指先が痺れて上手く刃が出せない。

「貴様、やめろ!」

 篁の輪郭が霞んでいる。

 感覚が消え去り、不意に身体が軽くなった。

 意識が途切れる間際。無価値な存在として雑に扱ってきたけれど、死ぬことを怖れずに生きた自分を受け入れたいと思った。



 更は、小さなマカロンを口に突っ込んだ。

 今朝、花瓶の水を換えていたら、「よければ一緒に食事でも」と白衣姿の男に声を掛けられた。しかも、銘菓のプレゼントつきで。

 誘いは断ったが、素敵な洋菓子が手に入った。

「これ、美味しいわ。当たりね」

 縣は額の片側をガーゼで覆われたまま目を閉じていて、変わり映えのしない情景だ。

「いいじゃない。ずっと生きてると疲れるものね」


 昏睡状態の縣を見ていると、幼い頃の自分を思い出す。

 風邪を引かないようにと毛布を重ねられ、暑くて、重くて、眠れない苦しさ。

 部屋の外側につけられていた鍵の本性。

 ひとりで外に出てはいけない。知らない人に名前を教えてはいけない。ママの手料理以外は食べてはいけない。パパを心配させてはいけない。何が起こるかわからないから、目の届かないところへ行かないで。

 初等科の課外授業でポニーの飼育を手伝っていたとき、ほんの少し指を噛まれて家に連絡が行った。次の日、厩舎から馬がいなくなっていた。

 どうせもうしばらくは起きないだろうと思い、歪んだ家族愛のミステリーを語りかけてみる。

「私ね、」悪いウイルスが流行した時期に、無菌室で隔離生活を余儀なくされていた。父親が知人の医療関係者に頼み込み、特別に部屋を空けて貰ったらしい。見舞いに来てくれたクラスメイトは保菌者扱いされ、街が健やかなムードを取り戻すまで誰にも会えなかった。

「放任主義って言葉、最高に好きよ」

 支配的な愛は毒と同じだ。

 暇を持て余し、何かを学ぶ以外に時間の使い道がない日々。なので、試験の結果と順位に不安を抱いたことは一度もなかった。高等科で縣と出会うまでは。

 あの頃は、人当たりのよい笑顔の裏で、どこか斜に構えているような男子生徒だった。よく教師の話し相手を務めていて、卒のない受け答えと、余裕ありげな落ち着き方が、見ていて気に障った。

 崩さずに着ていた学生服姿を今も覚えている。

 学期末考査で、一度勝って、二度負けた。


「そういえば。行事の旅行、私たちふたりだけだったわね。欠席したの」

 閑散とした図書棟で一緒になったとき、衝撃でノートを落としかけたが、当然気づかないふりをした。

「行かなかった理由は確か、『騒がしいの苦手だから』だったわよね」

 宿敵に遭遇したことで勉強は捗ったけれど、昼頃、彼の方から話し掛けてきた。

 異性を意識して緊張している風でもなく、警戒心を抱かせないよう計算し尽くした、穏やかでやさしげな微笑み。

 台詞は『君も行かなかったんだね。よければ何か食べに行かない? カフェテリア開いてないから外に』。

 流されて、つい頷いてしまった。どこか知らない場所へ連れて行ってくれる気がして。

 ビルの裏で殺されても構わないと思った。

 食事の後はすみやかに解散し、その日を境に、ふたりで会うようになった。

「あなたが変な遊びに誘うから成績下がったのよ」

 7位と10位は酷過ぎる。

 ――だけど……。

 萎れそうなほど毎日が退屈で、少しだけ悪いことがしてみたかった。たとえば誰かとボートを無断で借りて、深夜の湖を漂うような、ほんのり甘く刺激的なことを。


 ベッドに伏せ、縣の腕に額を押しつけた。病衣越しの体温が遠く感じる。

 ゆったりとした白い時間。この平和な温度と同化してしまったら、警士に戻れなくなりそうだ。鉄槌の会で敵の隊員と戦いながら、負傷者救助の指示を出していた自分が別人格のようだ。

 ふと視線を遣ると、彼の手首に、カッターナイフで切ったような古い傷跡が。

 高いところから、いろいろなものを見下ろしている優等生にも、自分の血を見たいと思うくらい、やるせない日があるらしい。

 思いがけない発見に口元が緩んだ。人間らしい欠陥を見つけて安心したのかもしれない。

「……でも、その傷、曲作りには生かされてると思うの。よかったわね」

 素朴に生きるのは、明るく死ぬことと同じくらい難しい。

「影をとても気に入ってるでしょ? なぜあなたから近づいたのか、やっとわかったわ。私も影、好きよ」


 風に当たりに屋上へでも行こうかと立ち上がりかけた瞬間。

 彼の指先が微かに動いた。

 あ、と声が漏れる。言葉にできない何かが込み上げてきて、目の前が淡く震えた。

「……、せきっ……!」



 ――こんなに誰かを見つめるの、初めてかもしれない。

 住宅街に佇む診療所。

 その通路から、少し扉を開けて影の様子を窺っている。非常口に灯るEXITの眩しさで、室内の暗闇に目が慣れない。

 先ほど、ここの外国人医師に影との関係を問われた。

 ――『友人です』って答えたのに……。

 含みありげに微笑まれて頬が熱くなった。距離感を変に意識してしまって、側に行きにくい。

 ふと、耳が階下の靴音を拾った。こちらに近づいてくる。

 ジュテームの国から現れた医師に、現状を見られるのはまずい。からかわれるのは間違いないので、諦めてそっと部屋に入った。


 すべてのものが夜の色に染まる中、点滴の薬液だけが溶かした水晶のように透き通っていた。爪先立って、ラベルに顔を寄せる。見覚えのある成分表示。自分のものと同じ薬だ。実際にオーバーワークで疲れていたはずの影は、きっと喜ぶだろう。

 眠っているのか、彼はこちらの気配を感じていないようだった。

 スイッチの在処に心当たりがあって、ひと束だけ短い前髪に触ってみる。けれど、反応がない。軽く引っ張ってみてもだめだ。

「影……」

 間近で寝顔を見て安心した。

 気が緩んで「篁さんが影を、」と迂闊に口にしてしまったが、その先を呑み込んだ。

 同行していた篁が、動けなくなった影を、不用品処理センターの前に置き去ろうとしていたというのは本当だろうか。篁が楜に適当なことを言ったのだとしても、後味の悪いジョークだ。

 そして、事情を伝えに来た楜から、『タカにぃがひどいことしてごめんね』と伝言を預かっている。

 篁の言動については、真偽が明らかになるまで黙っていようと思った。深夜に影を連れ出した理由も知りたい。

 とりあえず今は、この部屋で少し休んで朝を待つことにした。

 上着を脱いで肩に掛け、ベッドの端に顔を伏せる。

 針の刺さった腕が目の前にある。傷ついてばかりで、何だか寂しそうだ。

 そのセンチメンタルに引き寄せられて、手の平を重ねたくなる。

 けれど影は、誰にも触ってほしくないと思っている気がした。

 だからいつもの、どこか恥ずかしがっていて、涙が透けて見えそうな笑顔で何か言ってくれるまで、怖くて彼の手を握ることができない。


 ――影があのとき声を掛けてくれなかったら、わたし……。

 市警団にも居場所を見つけられず、きっとすぐに逃げ出していた。

 偶然が今に繋がっていて、信じていないはずの運命を感じる。

 いつの間にか、意思を持たず、控えめに振る舞うことが自分らしさになっていた。

 いろいろなものと距離を置いて、疲労も苦痛も抱えないよう、楽な方に流されていただけかもしれない。痛みのない時間の代わりに、乾いた空しさが残った。

「わたし、空のボトルみたいね」虚ろに傷口が開いたままピアノをやめてしまって、することが見つけられなかった。

 いつもの日常を取り戻せば、影はまた新しい遊びを教えてくれるだろう。

 自分だけが楽しみを手に入れて、救い出してくれた彼がいなくなるのは悲しすぎる。

 過去に何があったのか。

 血塗れの記憶を覆うフィルターは決して透き通ることがない。

 秘密を抱えた影は、危うい存在感があってとても綺麗だ。心を覗けないから余計にそう感じる。

 今まで気づかなかったが、痛みの隠し方が自分と少し似ていた。

 ――興味を持ったのは、わたしが泣いていたから……?

 あの日の会話が今も耳に残っていて、影の声が聞きたかった。

 なので、朝まで待っても目を覚まさなければ、起きるまで足の裏をくすぐってみようと思う。

 死にたがっていた影も、その夢が叶うのと引き換えに、仲間が深手を負うという喪失的な結末を重く胸に留めているだろう。

 生と死、どちらを選んでも満たされない。

 葛藤が、目の前で微かに上下している彼の胸を突き破って、いつか溢れ出してくる気がした。

「涙が詰まってるの、わたしだけじゃないみたいね」

 穏やかな寝顔だ。頬に手をやって、涙袋の辺りを指で何度かなぞってみたが、透明な滴が零れ落ちる気配はなかった。

 目覚めても、影は何も打ち明けてはこないだろう。

 自分が必要とされているか自信がない。

 それでも、イエスかノーかを訊かなければ、誰かを抱き締めることができないような、怖がりな人になりたくなかった。



 影は、真っ直ぐに見つめてくる仄から視線を外しつつ、差し出されたスプーンを受け入れた。

 アパルトマンを改装したらしい、アットホームな診療所。

『オーバーワーク』を贅沢に使用した処置のお蔭で、昨夜の致死的な苦痛は、少しの疲労感を残してすっかり和らいでいる。

 自分の中に、なりゆきに任せる強さがあればと思った。そうすれば、少しは生きやすくなるはずなのに、わかっていてもそれができない。

 仄は絵本室で好きな作品を見つけたらしく、心なしか表情も明るい。

「ごめんね。書記もケガしてるのに。俺のメンタルが怪奇骨折したせいで」

 彼女のカップを覗くと、手作り感のある苺ミルクにコーンフレークが入っている。フードショップが開くのを待って、材料を調達してきてくれたらしい。

「どうしたの、楽しそうよ」

「基本的に被虐体質だけど、たまにはいいことあるなと思って。やさしくして貰いたい気分だったから」

 部屋にはクリアな朝の陽が射している。

「やさしい顔ね。もしかして聖職者になるの?」

 これはジョークの言い方だ。

「もうすぐまた鉄槌の会で敵を殺すのに」

 しかも、衝撃的にブラック。

 仄は手を止め、何かを決意したように口を開いた。

「影。わたしも自由スコードに入れてほしいの。定員はひとりだけ?」

「今、募集中だよ」

 闇っぽい笑い方をしてからかうと、彼女も程よく脱力した感じに微笑んだ。

 何かあれば手を貸すと約束したではないか。右手で敵に武器を向け、左手のナイフを自分の首に押し当てるような真似はやめようと思った。

 だから、過去の出来事など思い返す隙もないくらいに全力で戦う。

 仄を置き去りにはできない。


 話の途中、ふたりのセルラが同時に鳴った。

 発信者は更。文字を受信している。

 内容を読んで、つい笑ってしまった。

 意識を取り戻した縣が、『光が眩しい』とバンパイアのようなことを言っているらしい。

 懐かしい日常の感覚が身体の中に注ぎ込まれていく。


 きっとそのうちまた死にたくなるだろうけれど、それでも今、生きていてよかったと思った。



                                   ep,6 end.

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