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episode-5 無影灯


 薄暗い通路に、EXITの微灯が頼りなく反射している。

 あれからどれくらい経っただろう。

 かげは長椅子に身を預けたまま、重ね合わせていた指を組み替えた。

 感覚で今が何時かわからないのはきっと、日頃あまり時間を大切にしていないせいだ。


 小父はあがたを救ってくれるだろうか。ポリスに連れられて来たところを出迎え、短く言葉を交わしただけで、懐かしさを感じる余裕もなかった。

 こちらは何もできないので信じて待つしかない。

 夜間閉鎖エリアを開放し、ベテランのスタッフを補佐につけてくれたメディカルセンターの力添えにも感謝しなければ。

 血塗れのナースが自動ドアから現れ、足早に消えていくのを見送るたび、自分の命が鋭く削り取られるのを感じた。

 ――ガーター死んだりしないよね……?

 纏わりつく不安を振り払うのに疲れたので、未来が確定するまで麻酔で眠らせてくれたらと思った。

 ――麻酔薬の治験募集してませんか、なんて訊きに行ったら電気メスで八つ裂きにされそうな空気だね。余計なこと言わないように気をつけないと。


 襲撃され、腕が折れていたほのかの身柄は、親切なナースが引き受けてくれた。深夜にも関わらず、患者クランケの「大丈夫です」を笑顔で説き伏せる技が冴えている。

「サララも座りなよ」

 向かいで壁に寄りかかっていたさらは、力なく笑って首を横に振った。

 仲間の危機に申し訳ないけれど、やわらかく揺れる後れ毛に惑わされそうだ。

「いいのよ。気を遣わなくて。……ほのちゃん、怒ってるでしょうね。私のこと。余裕がないだめな人間なのよ」

 窓から見える木葉のざわめきと同調するように、更の落ち着き方にも不活性な気配があった。目元に輝きがなく、夜食のパフェを求めて縣の部屋を訪ねてきた少女と同一人物とは思えない様相だ。

「ちょっとすれ違っただけじゃん。書記はサララのこと恨んだりしないよ」

「そうかしら……」

「うん。まだかかりそうだし、俺でよければ何か食料とか調達してくるけど」

「大丈夫よ。こんなときにあなたまで事故に遭ったりしたら困るわ。そこで大人しくしていてちょうだい。絶対に動かないで」

 自分のことだというのに、最悪のタイミングで車に轢かれそうな後輩キャラの演出が不明すぎる。

 メディカル側から見ると、ひとりめの処置が上手くいったと思ったところで突然の受入要請に見舞われ、より難易度の高いうっかり者の受傷体が運ばれてくるというストレス120%のシナリオだ。

 ――おじさんもさすがに引くよね……。

 内容があまりに酷すぎて、『スタッフクレジットの中から口が軽そうな奴を拉致して次週のあらすじを吐かせました』とか『待ちきれないのでボクも次の放送日まで意識不明になりたいです』といったメッセージが届くことは未来永劫ないだろう。

「本当に平気? いつ終わるかわからないし、今のうちに少し休んだ方がいいよ」

 彼女はからかうように、小さく唇の端を上げた。

「私、今座ったら二度と立ち上がれなくなりそう……」



 オペレーションエリアから現れたDr.二岡におかは何かを察したらしく、更だけを先に招き入れた。

 縣の救命に成功したことを仄にも伝えたかったけれど、どこにいるのだろう。

 あまり時間がないようなので、小父と連れ立って中庭へ出る。

 遠くの空がうっすらと光を帯びていた。

「おじさん、ありがとね」

 最後に会ったときと変わらず彼は、存在感の虚ろな医学生が、そのまま医師になったような出で立ちをしている。美少年の称号を手にしたいろりの叔父だけれど、ふたりはまったく似ていない。

「こんなふうに再会するとはね。元気そうじゃないか」小父は旭光から身を隠すようにして、葉の茂る樹木の元へ歩いて行った。

「うん、まあね。……俺は影になったよ」

「影?」

「そう。市警団の」上着の胸元に縫いつけられているネームプレートを指差す。

「大きくなったな。少し前まで子どもだったのに」

「今も子どもだし、これから先も市警団に入ったときの注射インジェクトでたぶん大人にはならないけど、背は伸びたかな。……俺が無口で暗い少年だった話はやめてね。外装剥がれるとまずいから」

 冗談めかして言うと、彼はしばらく声を殺して笑っていた。

 人を死なせたりしなければ、小父は現在もどこかで医師を続けていたのだろうか。報道では安楽死クリニックと非難めいた呼び名が使われていたけれど、人間の切実な願いや希望は綺麗なものばかりではない。それを知っていたからきっと、逮捕の間際まで託された望みを叶えようとしていた。

「急にごめんね。頼れそうな人おじさんしか思い浮かばなくて……」

「いいよ、君には借りがあるからね」

 神妙な口振りだ。

「炉のことならいいのに。見殺しにはできなかったよ。あれ俺のせいだし」

 幼い頃、ふたりで乗り捨てられた車をいたずらしていて崖下に転落した。

 動かなくなった炉を背負って住宅街まで戻ったが、その後の展開が思い出せない。

「あのときの傷、これしか残ってないよ。聞いた話では78%くらい死んだはずなのに。奇跡だね」

 手首の絆創膏を半分剥がすと、素っ気ない肌に薄赤い線が刻まれている。

「おじさん確か、医師免許持ってから3日しか経ってなかったよね。ドラマとかでは無免許の方がワイルドでもてそうだけど。……懐かしいね」

 小父は寂しい目をして頷いた。

真帆まほは身体を病んで、炉は精神をやられた。どちらも救えなかった」

 決して両親から愛されることのなかった姪と甥を、彼なりに支えようとしていたのを憶えている。

 真帆は炉の妹だ。ベッドの上で楽しそうにしていて、新しい人形に名前をつけてと頼まれたことがあった。

「真帆の可愛らしい死に顔が忘れられないよ。……何かの罰だろうか」

 今ならわかる。彼はおそらく、自分の姪を手に掛けたのだ。苦しんでいたから、可哀想になって、真帆の細く弱りきった腕に針を刺し、命を溶かす透明な薬を。

「その逆だと思うけど。まほちゃんおじさんのこと好きだって言ってたよ。幸せになりたいから、性格重視で顔は妥協だって。……最高にいい女だったね」

 間近で見聞きしたはずの出来事があまりに遠く、色褪せた写真のようだ。


 悲しい風が吹き抜けた後、「おいで」と小父は言った。

「?」

 いつもの癖で、靴音を立てずに側へ行く。

 彼はこちらの手を取って、しばらく古い傷跡を眺めていたが、やがて手首を解放し、労わるように髪に触れた。

「最近はそういう前髪が流行っているのかい?」

「いや、全然。アクシデントで一部だけ短くなっちゃった。……そういえばマリサさん元気?」

 溌剌としたショートヘアの彼女が脳裡に浮かぶ。マリサは小父の、医科大学時代の友人だ。ときおり彼の自宅にふらりと現れ、素朴な食事と、子ども向けの面白い医療ネタで楽しませてくれた。

「ああ。少し前に手紙が来たよ。会いたかったら遠慮せずに言いなさい」

「さすがに久しぶりすぎて緊張するよ。元気ならよかった。アグレッシブな人だから、危ない国に行ったりしてないか心配だったけど安心したよ。……またみんなで会えたらいいな」

 小父は寂しさの滲む声で呟いた。

「思い出を大切にするよ」

 別れを惜しむように抱きすくめられ、不意に寂しさが込み上げてくる。

 何かあれば、きっとまた駆けつけてくれるはずなのに、もう会えないと感じるのはなぜなのか。

「疲れているだろう。コインもどこかで少し休ませて貰いなさい」

「大丈夫。起動時間長いんだ」

 彼は窘めるように眉を寄せ、館内への扉に視線を遣った。

「そろそろ行かないと……」

「待って。ガーター助けたんだし、俺も協力するから恩赦狙ってみたら?」

 小父はやさしい目をして首を横に振った。

「運命に抗うのは、選ばれた人間だけで充分だ。やめておくよ」



 親愛なる囚人医師を見送った後、影は通路からそっと縣の状態を確認した。

 安堵感で肩の力が抜ける。

 ――普通に生きてるじゃん。重傷っぽいけどねっ。

 死体になりかかっていた縣も、右の額を分厚いガーゼに覆われているだけで、血だらけのシャツが首筋に貼りついていた負傷時とは別人のようだ。

 更が心配を掛けられた腹いせに点滴のチューブを引き千切ったりしなければ、縣もそのうち目を覚ますだろう。

 失いかけた反動なのか、あの感傷的なギターの旋律を心が求めている。

 いつも終わりを探すことをやめられない見下げた自分にも、日常の尊さがそっと沁みた。

 このメディカルセンターと、縣を救ってくれた小父にありがとうと伝えたい。一応、市警団の警尉として、各所と交渉してくれたらしいタカムラにも。


 館内を徘徊している途中、通りかかったナースに仄の居場所を訊ねた。

 案内された病室は、未だ夜が明けきれておらず、カーテンの隙間から微弱な朝日が射し込んでいる。

 仄はベッドに横たわっていた。毛布を掛けていないので、制服の薄いブラウスとスカートだけで寒そうだ。

「……書記」

 あまりに無防備すぎる。ナースの話を聞かなくても、対混乱患者用の薬で鎮静化されているのがわかった。

 腕の補修は上手くいったらしく、今はしっかりとギプス包帯に守られている。

 仄は傷ついた面持ちで遠くを見ていた。叱られるのを覚悟するように、瞳が微かに震えている。

 もう一度呼びかけると、ゆっくりとこちらに視線を移した。

「書記。ガーター無事だよ。だからもう、責任感じて思い詰めたりしないで」

「…………」

「歩ける? 今から一緒に見に行こうよ。サララもいろいろ気にしてるみたいだし」

 ごめんなさい、とほとんど聞き取れない声で言い、彼女は手の甲で目元をこすり始めた。酷く衰弱していて、存在ごと消えてしまいそうだ。

「涙が、詰まったみたいで……」

 最初は片手だったけれど、ギプスの方も参加し、左右どちらも目の下が赤く傷んでいるように見えた。治療の際に、公にできない何かが行われたのではと疑いたくなる。

 人体実験だとしたら、抵抗する仄を選ばなくても、最も被験体にふさわしい寄贈者ドナーがここにいるというのに。


「……俺、ジュース機で何か買ってくるよ。ミントココアでいい?」

 戸惑いながら踵を返したのと同時だった。

「影」と呼び止める声がする。

「ん? 何?」

 仄は悲しく眉を寄せ、あどけない少女の顔でこちらを見ていた。

 悪い予感が迫り、すっと身体の熱が引く。

「影、お願い」

 項垂れたまま肩を落とし、彼女は何かに怯えるように目を伏せた。

「痛めつけてほしいの。わたしを。……もう一度泣けるように」


 怖くて、どうしても頷くことができなかった。

 誰かの願いや望みを叶えて、好かれる人になりたかったはずなのに。

 躊躇わずに何度も敵を殺してきた手が指先まで凍てついている。

 ――言われた通りにしなかったら、書記は俺のこときらいになるのかな……。



 備えつけのベッドテーブルを挟んで寝台に座り、先ほどから仄の腕の特殊包帯にピアノの絵を描いている。薬で変わってしまった仲間からの、懲罰的なリクエストだ。

 鍵盤の配置を忘れたので、黒と白を交互にしてみた。

 借りた水色のマーカーは上手く色が載らず、すでに薄く掠れている。

 ベッドの背を起こして上体を預けていた仄は、捨てられた人形のように、いつの間にか喋らなくなっていた。疲れて眠ってしまったのかもしれない。

 ギプスの先へ何気なく目を遣ると、細くひたむきな指をしていて、この手が音楽に殺されるところが見たいと思った。

 仄は口を閉ざしているが、生身の身体を削られるほどの痛みと苦しみを抱えて、選考や試験を戦い抜いてきたのだろう。

 けれど、どこにも傷はなく、純正品のように綺麗な指だった。


「影?」

 気がつくと、テーブルの端に伏せて中途半端に眠り込んでいた。

 いくらか胸の痛みが和らいだのか、仄は普段のように可愛く目を開けていて、心の傷に汚染水を流し込む病魔からも解放されたらしかった。

 あたたかかった手が元の温度に戻っていくのを感じ、そのときになってようやく、仄がこちらの手を握っていたのを知った。

「側にあったから、つい。何だか心細くなってしまって」

 彼女は赤くなった頬に無事な方の手の平を押し当て、視線を漂わせている。

「おかげで怖い夢見なかったよ。ありがと」こちらも何だか照れてしまい、この話は早々に切り上げることになった。「……充電は? 大丈夫そう?」

 彼女は曖昧に微笑んでいる。イエスなのか、ノーなのか不明だ。解釈は任せるという意味か。


 仄を連れて縣の様子を見に行くことになった。

 やはり責任を感じていて、酷く気後れした様子だったが、彼女も仲間とのリンクを大切に思っていることが伝わってきて安心した。ひとりでも離脱してしまうと、空席ができて寂しくなる。


 朝の明るい通路を歩きながら、長く迷っていた言葉を口に出した。

「書記。いやじゃなければ、一緒に来てくれない? あの倉庫に……。調べたいことがあるんだ。力を貸して貰えたら嬉しい」

 なぜ、鉄槌の会の後に、敵の隊員が集まってきたのか。現場に戻れば、何か手掛かりが得られるかもしれない。

 報復が市民へ向くのを怖れて、ポリスは今回も頑なに協力を辞退するだろう。これは、シティ・キアサを巡る市警団とぶっ壊の戦いだ。

 一瞬、躊躇うような面持ちで沈黙していたが、仄の返事は有り難いものだった。

「いいわよ。影についていくわ。わたしでよければいつでも使って」

 何だか妙に男心をくすぐる言い方だ。鎮静剤の初回特典かもしれない。



 やはり縣は目を覚ましておらず、更も眠っていたので、仄が書き置きを残した。

 文面は見ていないが、彼女の穏やかな表情から、内容は何となく察しがつく。

 倉庫へ向かうため、メディカルセンターを後にした。


 途中、立ち寄ったカフェが空調不良で異様に寒く、カーディガンの袖を伸ばして指先をあたためてみた。前のシティで入手した、患者用のあいつだ。

 それを向かいの席で見ていた仄は、ふと思いついたようにいたずらな笑みを浮かべる。上着のカフからカーディガンの袖口を引っ張り出し、同じく手首の先を包んだ。先端から少しだけ爪が覗いている。メディカルセンターで借してくれたものを着て来たのだろう。普段のコーディネートに取り入れやすく、やさしさと労りを秘めた最高のピンクだ。彼女にもぜひ愛用してほしい。

 仄は少し照れた様子で、カップの中の苺ミルクをストローでかき混ぜている。

「ガーターいつ目覚めるのか楽しみだね」

「…………」仄は急速に明るさを失い、「わたし、謝らなきゃ」と俯いてしまった。

 誰かが側で深手を負ったりすると、責任を感じずにはいられないのだろう。

 身についた思考の癖が簡単に治せないことをよく知っている。なので、傷を抉ってしまった場合に備え、絆創膏は多めに携帯しなければ。

 先日、“このままでは死んでしまう……!”に続く新しいデザインを入手したばかりだ。どこかの国の言葉で“罪と罰をホームクリーニング”と“貴様のせいで毎日が暗褐色!”だけれど大丈夫だろうか。

「さっき思ったんだけどさ、メディカルセンターにいるとナースの人たちとか親切にしてくれるじゃん」

「ええ、そうね」

「今はまだ眠ってるからいいけど、覚醒した後、自分が親切にしたいタイプのガーターを入院させておくのはまずいんじゃないかなって。……行き場を失くした親切がどこに向かうのか心配になってきた」

 仄もその点を不安に感じ始めたらしい。

「心を病んで、夜中セルラに『死にたい』とか送ってくるようになるかもね」

「そんな……。せっかく助かったのに」彼女は架空の物語に同調しようとしている。

 言わなくても気づいていると思うが、ここで重要なのは、いかにも生命の大切さを押しつけてきそうな優等生が、救われたばかりの命に対して驚くほど投げ遣りになるという変わり身の早さだ。

 やがて明晰な頭脳を生かした神技的な自傷が、ネットを介して世界中に漏れ拡がる。

 そのうち『 ag 』と打ち込んだだけで、検索候補に『縣 リスカ迷路 最新』、『回転飛び降り 軽傷 縣警士』などが光の速さで表示されるだろう。

「ガーターまで自虐的な快楽を覚えたらまずいね。ある日セルラに届いたレター、アドレス登録してるのにどうしてガーターの名前出ないんだろうって注意深く確認したら、@の後が“solitude.comソリチュードドットコム”に変更されてたりとかねっ」



 澄んだ外気が肌に心地よく、歩く速度に合わせて草花の香りが通り過ぎていく。

 穢れた生き様もまっさらになりそうだ。

 ただ、あまり寝ていないせいか、普段は気にならない風の音が怖ろしく耳に響いて不安をかき立てる。終わったものとして処理したはずの血腥い出来事が、加速度をつけて浮上してくる。なぜだろう。今更になって。

 足元がふらつくのを感じながら、市街地の端へ向かうサブウェーに乗った。

「どうかした?」

 長く黙っていたのが不自然だったらしく、仄の方から遠慮がちに窺ってきた。

「いや、大丈夫。軟弱なメンタルによくある情動発作だと思う。周りの人が励ましてくれたらすぐに治る可愛い病気だよ。短所は想像にお任せ」

「影、病気なの……?」

「イエスアイアム。たぶんね。だけど仮病と紛らわしいのが難点かな。疑惑が濃厚なときは多数決で……」

 冗談めかしている場合ではなかった。身体が面白がって、かつて目を背けて封印した記憶を逆再生しようとしている。きっと内側から、赤く鮮やかに破壊される。

 鼓動が極限まで速まり、今にも張り裂けそうだ。

「本当に平気?」

 この場合はもう、とりあえず頷くしかない。

「だから今、落ち着いてworry(ウォーリー<不安の種>)を探してるとこ。なかなか所在が掴めなくて……。あいつはいつも複雑な場所に隠れてるから」

「ペンが必要?」仄が笑いながら、胸ポケットの万年筆を抜き取る。そしてそれを、こちらの上着の同じ位置にそっと挿し込んだ。

 萎れた花に水を遣るような、やさしい仕草だった。



 交戦の場となった港風の倉庫は、当時のまま捨て置かれている。事件現場によく登場する“ Off Limits! ”の立入禁止テープもない。

 敵隊の仲間が回収したのか、死体はすべて消えていた。

 けれどコンテナの木目は、今も刷毛ではいたように血の色を浮かべていて気味が悪い。

 床も同様の悲惨な光景だ。

「書記。きつかったら別のところで待ってていいよ」

 彼女は首を横に振った。

 知りたかったことはふたつある。鉄槌の会の後、ここに『すべてをぶっ壊し隊』のメンバーが集まってきた理由と、その目的。

 座る椅子も何もない倉庫だからこそ不自然に感じる。集会には向かない場所だ。

 仄があのとき追跡しなければ、永遠にこの謎めいた空間に気がつかなかっただろう。

『すべてをぶっ壊し隊』の日中の活動は過去に一度も報告が上がっていないらしいが、非常事態を警戒し、偵察が現れるかもしれない。

「この辺りの地図を描いてみたけど……。何かわかるかしら」

 開かれたノートを覗き込む。歩きながら線を引いたとは思えない完成度だ。

 ――何だろう。この既視感。

 上手く思い出せず首に手を遣った瞬間、かつて頼ったマップつき攻略サイトの残像が押し寄せてきた。

 ――ああ、あれだ……!

 忘れかけていたのが申し訳なく感じる。作り手から、同じ敵と戦い、同じ物語を進む者たちへの無償の愛を、いつも享受していたはずなのに。

「開始地点はここだよね」と、サブウェーの出口を指差す。

 仄は細かくペンを動かし、『start』と書いた文字を丸で囲った。「この倉庫にアイテムと新しい銃がありそうね。一度試し撃ちをして威力を確かめたら、残りは後半のボス戦まで取っておきましょう」

 真面目な面白さが好きだけれど悪乗りしすぎだ。



 探偵みたいだと笑いながら、二手に分かれて歩き出した直後。

 ふと、靴の先に何かが当たった。硬い金属音が庫内に反響する。

 コンテナの陰になっていて気づかなかった。

「……あ、」

 暗がりの中に倒れているものを見て、衝撃で意識が死んだ。

 鉄槌の会で敵の隊員を殺したバールだった。


 復讐と報復が螺旋のように闇の中へ延びていく。

 ――全部俺のせいじゃん……。

 仄から借りたハンカチで目元を覆い、倉庫の外壁に寄りかかって、しばらく息をするのをやめてみた。

 何の因果だろう。草叢に捨てた武器が敵に渡り、縣の命を脅かしている。血だらけのバールが今、戦場での罪を知らしめるように、自分の手の中へ戻ろうとしていた。

 衝撃の余韻が冷めやらず、身体の軸が震えている。眩暈がして吐きそうだ。

 縣だって、まだ助かると決まったわけではない。先ほどは安堵していたのに、考えが悪い方にばかり傾いていく。これから起こる出来事のすべてが凶器だ。



 複雑な心境で調査に徹しているはずの仄も、そろそろ退屈しているだろう。

 中へ戻ろうと、目の上のハンカチを取り去った。自分の存在が不運と悪夢を引き寄せるのだから仕方がない。次の非常階段を踏み外す前に、誰か予告なしで撃ち殺してくれたらと思った。

 生きたくても生きられなかった人にはやさしいのに、上手く生きられなくて死にたくなってしまった人に、社会はとても冷たい。朝も昼も夜も、時には夢の中でさえも、脆くなった胸の裡に、悲しいことばかりが刻まれていく。

 それでも、必要とされている限りは最後まで戦いたい。

 この身に科せられたひとつきりの目的であり、使命だ。


「…………?」

 開かれた視界に、異様な景色が映った。

 入ってきた表通りとは別の、奥側にある扉から庫外へ出たので、目の前には森に近いニュアンスの丘陵が続いている。

 僅かだがその間に、草の折れが左右に拡がり、誰かが道を作ったような痕跡があった。

 目線で辿っていくと、小高くなった土地に、近代的な色形の建築物がいくつか纏まっている。

 ――大学のキャンパス……。

 予想でしかない悪夢の情景が、あたかも現実のように像を結ぶ。

 裏道を通れば見つからずに行き来でき、学生が帰宅した後の深夜から早朝にかけては閑散としている。スペアキーさえ手に入れれば、人目を気にせず、大勢の隊員でエキサイトした集会を楽しめそうだ。


 確信的な何かを感じずにはいられなかった。

 この倉庫はただの通過点で、目的の場所は丘の上にあったのではないか、と。




                                   ep,5 end.

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