episode-4 サイリウム
数日離れていただけなのに、寄宿舎代わりに使っているホテルのロビーから、郷愁に似た懐かしさを感じた。
暗がりの中、迷い人を導くように、オレンジ色の小さな明かりが灯っている。
どうか追手が来ませんようにと願った。
メディカルセンターとはしばらく距離を置きたい。
ふと目を遣ると、頼りにしていたエスカレータが停まっているではないか。
――現実が無慈悲すぎる……。
朝になったら起動するはずなので、ここで待つべきか迷った。特長。動かなくてよい。難点。寒くて死にそう。
何かを迷うとき、古ぼけた天秤が頭に浮かぶ。右の皿が苦難で、左の皿が悪夢だ。
――もうどっちでもOK!
影は自室を目指し、痛む身体を励ましながら階段へと歩を進めた。
その途中。壁際のソファの陰に動くものを見つけた。
――人? 何でこんな時間に?
興味を引かれ、そっと近づいてみる。目標まであと4歩というところまで接近すると、動いていた怪しい何かは少女の背中だった。ファンシーな部屋着姿で、床に並べた紙に不思議なペンで文字を書いている。
――この子、もしかして……。
縣の言っていた、『くるみちゃん』という生きものではないだろうか。
「あの」と声を掛けてみる。
「ひゃッ」
集中していて、こちらの存在にまったく気づいていなかったらしい。身を竦ませ、怯えきった目をしている。
「もぅ、びっくりさせないでください!」
楜は頬を膨らませているが、怒っているわけではなさそうだ。もしかすると生まれつきのびっくり人で、否定的な物言いとは裏腹に、心と身体は予期せぬ驚きに満たされているのかもしれない。
「ごめん。誰かいるのかなと思って」
「ワタシは広報係の活動をしているのです! 寄付をくださった方へのお礼状や、市警団宛にいただいた手紙のお返事を書いています。謹慎中ですけどねっ」
互いに身分を明かした後、着衣と状況により、メディカルセンターからの脱走を言い当てられた。意外と鋭い。
「知らない人ばっかで落ち着かなくて。やさしくして貰えて有り難かったけどね。……全然眠れないし、ケガもだいぶよくなったから勝手に戻って来ちゃった。ゲームがないとたちまち廃人だ」
「ふうん。そうですか。無事に帰って来られておめでとう。よかったですね!」
縣の言った通り、あの篁を相手にしているだけあって、精神医学博士並のポテンシャルを秘めているのだろう。幼げな透明感のある声と、丸いシルエットのボブが華奢な身体に似合っていて、初等部の高学年くらいに見えなくもない。
「俺の制服とか、ポケットに入ってたものって市警団に返却されてる? 私物のペンダントはすぐ返されたんだけど……。血だらけだから捨てられたかな」
楜はノーコメントで通すつもりのようだが、先ほどから、一部だけ短い変な前髪だと言いたげな視線が痛い。
「あるとしたら管理部ですね。でも今は誰もいないでしょう。もうおやすみの時間なので」
最悪なことに気がついた。「ルームキーもない」
「それは大変! おケガさん、ワタシのお部屋でよければ貸しますよ? 安心してください。目が覚めてふと隣を見たらパジャマ姿の少女が……、みたいなことはありません。シティ・キアサのみなさんに1日も早く返信レターをお届けするため、広報係の活動は朝まで続くのです……!」
「いや、ガーターのとこに行くよ。さすがに女の子の部屋は借りられない」篁が訪ねてきたら殺される。「でも、ありがとね」
それじゃあ、と立ち去りかけた瞬間、「あ」と呼び止められた。
「ポスター貼るの、手伝ってくださらないですか。ワタシ、小さくて届かないのです。身長を生かして高いところにお願いします」
気軽に応じて、掲示板の前まで移動する。「この辺でいいかな?」
「OK! 助かりました」
貼り終えたポスターを見てみると、何だか色合いが謎すぎる少年の顔が描かれていた。
「口、緑だね」
「本当にその色だったのです。このあいだ、少し些細な問題がちょっと起こってしまって、そのとき自転車に乗せてくれた人なのですが、お名前訊くのを忘れて話せないままで……。もし見つけたら、楜が探してたってお伝えよろしく!」
・
縣の部屋の前に立ってみると、襲撃後の廃村のように無音で、決心してドアを叩くまでの数分に引き返そうか何度も迷った。
間もなく応答があり、扉が開く。「助かった、生存者だ」
「影……」まだ起きていたらしく、縣は上着だけ脱いだ制服姿のままだ。何だか疲れた顔をしている。「こんな時間にどうしたんだ」
「ごめん。ルームキーなくて部屋に戻れない。人類ふたりきりっていう設定だから迎え入れてくれたら嬉しいな」
入室してすぐに縣のベッドへ直行。期待通り、洗い立てのシーツ。洒落た間接照明。快適な空調が揃っている。くつろぎの空間でよく眠れそうだ。
彼は何か言いたげに眉を寄せていたが、言葉にはせずにクロゼットから毛布を出してきた。
「僕は今から、君が迷惑を掛けたメディカルセンターに連絡する。しばらく黙っていてくれ」
「はい。すみませーん……」5日もまともに寝ていないので限界だ。引きずられるように目を閉じる。
そして、まさに眠りのエレベータが動き出したというところで縣が戻って来た。
――やばい、緊急停止ボタンが……。
やはり縣は顔色が冴えず、もはやゴーストと見分けがつかないレベルだ。
「大丈夫? あの後、ポリス署の人に何か言われたの? だとしたら俺のせいだと思うけど……。ガーター悪くないじゃん」
「そんなことは。……水を持って来たから置いておくよ」彼はベッド脇のテーブルからアラーム時計を取り上げた。
「疲れてるならガーターも少し寝た方がいいよ」
「僕のベッドは君が占領してるじゃないか」
「毛布貸してくれたらリビングのソファに移動します」
「いや、いいんだ。悪かった。今夜だけは怪我人にこの部屋を貸すよ。好きに使ってくれ」
縣が立ち去ってから間もなく、更が訪ねてきた。
夜食のシェフがリビングのソファで寝ていることに驚いたのか、こちらの寝室を覗き、「影? どうしたの?」と目を丸くしている。
彼女は丈の短いワンピース型の部屋着で現れた。元はメンズのパーカだろうか。縣の私服を奪い取ったのかもしれない。材料は持参したのか、食料らしき袋を手にしている。
「5日めも寝れなかったら自主的に退院しようと思って。お見舞いのお花ありがとね」
「新鮮できれいだったでしょ? 自然公園で朝早くに気合入れて摘んだのよ。元気そうで安心したわ」
笑顔を残し、彼女はリビングへ向かった。
「ねぇ、縣。パフェが食べたい気分なの。作って!」早速オーダーが入った。
「悪いけど明日にしてくれないか」と疲弊した声色の縣。
「いや。死んじゃう」更は命の期限が迫っているようだ。
「それじゃあ自分で作ってくれ。キッチン使っていいから」
「無理よ。せっかくバナナ持ってきたのに。お願い私のために頑張って。保安学のノート写させてあげたじゃない」
「僕は動きたくない」
もう、更が何を言っても起動させるのは難しそうだ。『代わりにどこかで買って来ようか?』と申し出るか迷っているうちに、縣が声を荒げた。
「うるさい! いい加減にしてくれ!」
「わかったわ。夜食は諦める。……ポリス署でのことを気に病んでるならそう言って。復讐に手を貸すわ。それでいいでしょ?」
眠いなどと口にして、ぼんやり横たわっている状況ではなくなった。やはりあの日、縣は会議室でポリスに囲まれ、尋問のようなことをされたに違いない。優等生としての存在価値が大きく減点される結果になり、心身ともに深手を負ったのだろう。
あの流れに乗って本当に死ぬつもりだったので、後のことを考えずに先走ってしまい、申し訳なく思った。
足音を忍ばせてリビングまで行くと、縣はソファ、更はキッチンに立っていて、ふたりの間に入った亀裂そのもののような際どい距離感だ。
「サララ、よければ手伝うよ」
彼女は苺とミルクをジューサーに入れようとしている。
更からは、「あとはスイッチ押すだけ」と微笑みが返ってきた。縣の棘のある態度は取り沙汰されずに許されたらしい。「それより影。ほのちゃんも誘って」
メンバーが4人になった。仄は更とショッピングへ行ったときに調達したのか、薄い青色のネグリジェにカーディガンという出で立ちで訪ねてきた。
――まずい服装だ。空を飛べるあいつにさらわれたりしないといいけど……。
気になるナイトウェアだが、あの市警団の不人気ジャージでなくて安堵したのは自分だけではないはずだ。
一時は自我が崩壊しかけていた縣も眠るのを諦めたらしく、何も言わずに人数分のパフェを作り始めた。
「部屋寒くない? 夜中だから外の気温下がってるのかな。毛布あったらよさそう。……ねえ、ガーター。予備ない?」
「クロゼットにあと2枚あったと思う」
「どうしよう。足りないね。このままじゃ擬態できない人が出てしまうよ」
「わたし、自分の部屋から取って来る」
「ほのちゃん。トランプ持ってたらそれも」
「わかりました。確かひと箱あったと思います。少し待っててください。持って来ます!」
6枚のカードが手の中にある。
このまま、夢のように楽しい時間が続いて、永遠に夜が明けない気がした。
――こういうときだけ生きててよかったって思うの、都合よすぎだよね。どうせまた些細なことで死にたくなるのに……。
頭から毛布を被ると視界が塞がれて、ひとりきりになった。そして、その孤独が作り出す闇の中で、正体を失くした自分は消えるべき人間だと思った。
どこで、何を間違えたのか。
きっと、しばらく寝ていないせいでセンチメンタルの症状が出ているのだろう。ジョーカーが仕掛けた一過性の中毒だ。
「どうしたの、影。……泣いてるの?」仄が隣から覗き込んでくる。
「全然。ちょっと眠いだけ」
影は手札を晒す。
「ゲームは俺の負けだね。コントローラの方は自信あるんだけど。……だめだな。現実厳しすぎて最悪なカードしか残らなかった」
・
翌朝。一緒に救護室のベッドをジャックしようと誘ったが、縣と更は長講へ出席すると言って別館へ向かった。元の秀才成分に脳を支配されて、講義や講演会のような『講』の字のつくものに惹き寄せられてしまうのだろう。どうせ大した内容ではないのに、何か学べると期待して席に着ける純粋さが羨ましい。
仄は記録の整理をしていたが、徹夜がきつかったのか、ペンを持ったままテーブルに伏せて動かなくなった。
平穏な午後を引き裂く、突然の館内アナウンス。
――うっ。眠、すぎて、動、けな、い……。
行かなければならないと頭ではわかっている。
けれど叶うなら、時間を巻き戻してもう一度寝たかった。
「影、起きてっ」
「今、自分なりに努力してるんだけど、緊急停止ボタンが……。引っ込んだまま戻らない」
「何を停止するの? 生命?」
このところ何度も押し過ぎて、いたずらだと思われているのか。もう眠りのエレベータを停める術がない。
万策尽きたと諦めかけたそのとき、脳裏を過ぎるメディカルセンターの記憶。
「……エスプレッソショットを500ml、静注でお願いします……!」
・
途中、何度も意識が途絶えかけたが、何とか進攻戦議を切り抜けることができた。
今宵の舞台は、製菓会社エバーグリーン・オークの工場。『ビスケットファクトリー』の名で、観光や見学に開かれているらしい。
『すべてをぶっ壊し隊』と市警団、どちらかが撤退するまで戦わなければならない。
普段通り、時刻までに現地集合だ。
爆破の標的にされるなどの危険性を考慮し、市警団の専用車で移動するようなことは基本的にない。ネームプレートがパスの役目をしていて、自動検知器のついた交通機関のゲートは何もせずに通過できる。使用者名さえ伏せてくれれば悪用し放題なのだけれど。
モノトーンのカフェに、洒落た異国の歌が流れている。談笑しながら軽食を口にしていると、驚くほど速く時間が過ぎていった。
縣と更から、暇なので4人でお茶をしようという発案があり、海辺を漂っていたところをボートに拾われた気分だ。
「ガーター、この曲気に入ったの? 不自然に押し黙って、明らかに耳コピ目論んでる顔だよね」
「レパートリーが増えるんですか? すごいですね!」仄は彼のギターにさほど興味を示していなかったはずだが、妙に嬉しそうだ。きっと今回も、『僕がご馳走するよ』と笑いかけてくれるナイスな先輩への配慮だろう。そのさりげなさを高く評価したい。
「いや、楽譜がないと完璧には無理かな」縣は控えめに言う。仄の前では紳士ぶるという傾向を掴んだ。
「縣警士はね、みんなに内緒で曲作りをしているのよ。彼の荒廃した創造世界に浸りたい人はぜひ聴いてあげて」
更は肉体ではなく、精神分野のサディズムを専攻しているらしい。
「頼むからやめてくれ。……それより何で知ってるんだよ」
「目につくところに五線譜ノート置くからでしょ。あれはいつ完成するの? 夜食のパンケーキが焼けるまでの数分でよければ聴いてあげてもいいわよ」
鉄槌の会が天候不良で流れ、このカフェでいつまでも話をしながら笑っていられたらと思った。
・
遠くの空が藍色に霞み始めた頃、地下を巡るサブウェーで、エバーグリーン・オークの製菓工場へ向かった。
街外れの茫洋とした土地に、巨大なレンガ造りの建造物を発見。
「時間ぎりぎりになっちゃったね」カフェに長居しすぎた。
「それじゃあ僕たちはここで」
縣と更は、中心スコードの集合地へと足を向けた。こちらも外周の集まりへ加わらなければ。
「影、大丈夫なの? まだ痛むなら、戦わずにわたしと記録をやらない?」口元は微笑んでいたが、仄は不安げに眉を下げ、頷いてほしそうにしていた。
この先、4人のうち誰かひとりでも欠けてしまったら、もう昼間のような時間は過ごせない。彼女の憂いと同じものが自分の中にも存在していた。
「ケガは慣れてるから平気。俺は勝手に自由スコードの専任になったからね。適当に動いて敵の数減らしてくるよ。……でも、負傷したら戻って来て書記の仲間になる。そのバッジかっこいいよね。臨時だけど俺も貰えるのかな」
「つけてみたいなら貸してもいいわよ?」からかうように笑い、彼女は左胸の徽章帯に手を遣った。
「いや、気持ちだけで。俺には<自由人>があるのを忘れてたよ」
・
鉄槌の会の開始時刻だ。
もう闇が深く、先行して建物に入った中心スコードの警士の中に、縣と更を見つけることができなかった。
こちらの外周スコードは、半数が屋外で待機。残りの半分は、館内の通路を警戒。敵を見つけ次第始末する。『すべてをぶっ壊し隊』をぶっ殺すのだ。
シティ・キアサの市衛警護団。ひとりの些末な人間である自分が、この緩いようでどことなく硬派な組織とひとつになる感覚が堪らなく好きだ。
あらゆる法を靴底で踏みにじる攻防の嵐。これにこそ命を懸けたい。
『ビスケットファクトリー』は、巨大なショッピングセンターによくある吹き抜けになっていた。2Fから6Fすべてのフロアから、地上階で動く製菓機や、梱包までの流れが見られる構造だ。外観で想像した以上に内部が広く、通路の終わりがわからない。
現在、6Fを警戒中。
中心スコードの伝令から早々に、敵がこれまでとは異なる武装をしており、攻撃が困難との情報が入った。
一度、最上階まで上がったので、ひと巡りして非常階段から下の階へと移動する。
――この辺りは誰もいないのかな。
6Fと5Fは深夜の病棟に似た静けさだ。敵がロッカーの中にでも隠れているのでは、と気になって開けてみたりもしたが、少し恥ずかしい思いをしただけで特に何も起こらなかった。
――アイテムの代わりにお菓子くらい置いてあってもいいのにね。
外周スコードが比較的退屈である理由を考えながら非常階段を下りると、4Fで不可解な血痕を見つけた。足元の常夜灯しか頼る明かりのない通路。その中央に掠れた血の線があり、奥の方へと続いている。
敵のものか、味方のものかはわからないが、その不気味な血痕を辿ってみることにした。
しばらく走ると、前方に敵の隊員らしき姿を捉えた。体格や歩き方から、男だろうと見当をつける。
影は気づかれる寸前まで接近し、柱の陰に身を隠した。
――あの人の仲間って殺られたのかな。ガーターとサララ無事だといいけど。
ぶっ壊のメンバーが引きずっているのは市警団の男性警士に間違いなく、手酷くいたぶられたのか、顔中血だらけで目を背けたくなる。
――まだ生きてる、……よね? ちょっと面倒だけど助けないと。
戦闘不能の警士を引きずり、どこへ連れていくつもりなのだろう。
息を詰めて様子を窺っていると、男は吹き抜けの大きな窓に近づき、階下の者と合図を送り合うような動作を何度か繰り返す。そして、ポケットから取り出した工具状の何かを振り上げた。
それが打ちつけられた瞬間、ガラスが白く煙ったように亀裂が走り、粉々に砕け散った。
フィルタを失くした窓から1Fの音が鮮明に届く。よくわからないが、振動とともにジューサーのような機械音が聴こえるのだけれど。
――まさか……!
柱から飛び出し、下を覗く。
業務用の巨大ミキサーが、蓋を開けたまま高速で回転している。
敵隊の男が動かない警士を抱え上げた。
少しの距離を置き、視線が交錯する。相手は愉快と上機嫌を飲み込んだように笑っていた。
「やめろ!」
銃を向けると同時に、男が後頭部に下ろしていた防具を前に戻す。胴体は別のアーマーに守られていて、これでもう、狙える部位は両手足だけになってしまった。
「トリガーを引いたらこいつを投げ落とす」優位に立ったつもりなのか、男は至極冷静だ。
影は銃を構えたまま唇の端を噛む。
――……挟み撃ちか。
すでに、背後から近づいてくる敵の気配を感じ取っていた。この状況下で、ふたりを相手に戦うのは避けたい。少しでも事態が傾けば、あの警士はミキサーの高速回転刃で木端微塵だ。
「…………っ」
窮地に追い込まれて焦っているふうを装い、背後の敵に意識を向けた。
――あと3歩、……2、……1。
振り返ると、今まさにナイフの切っ先で貫かれようとしていた自分の洞察力が心強い味方に思えた。
素早く躱し、武器で一撃を加えたが、装備に阻まれて無効化される。
「刺さんねえよバカ!」
「腕とか狙った方がよかった?」
敵の反撃が思いのほか鋭く、受け止めきれず壁際に追い詰められる。
「殺すなよ。突き落とすまでは大切に扱え」窓を割った男も参戦するつもりなのだろう、こちらへ歩いて来るのが見えた。
――ああ、俺がミキサーの第一候補に決まったってことね。……初体験怖すぎる。
「縛るものあります? こいつ仲間見捨てて逃げそう」男のナイフが、肩口にゆっくりと刺し込まれていく。「前髪おかしくね? 市警団のクズが!」
「もっと容赦なく刺せばいいじゃん。スローなのが趣味?」
熱さの後を追うように、突き上げてくる醜い痛み。この疎ましい痛覚を遮断できたらと何度も思った。市警団に入る前に打たれた謎の接種も、身体細胞を瑞々しく保つ機能と、多少の回復促進にしか効果がない。痛みはすべて受け入れろということか。
ふと、前のシティでの非行剞との戦いを思い出した。あちらでは市警団の人員が足りず、いつも波のように押し寄せてくる奴らを相手にしていたではないか。孤立無援だからといって諦めてはいけない。片方だけでも仕留めなければ。
短く息を吐き、傷の痛みを振り切るように力を込めた。上空へ向けた斬撃でナイフの男を昏倒させる。その隙に、もうひとりの隊員へ照準を定めて一気に間合いを詰めた。
――このまま貫くのはさすがに無理か。
アーマーに食い込んだハルバードの先を全力で押し、倒れた男に馬乗りになった。
頭部の防具を奪い取り、鼻の先に銃を向ける。引き金に指を掛けた直後、何者かにおぞましい力で蹴り飛ばされた。
「……ッ」
「こんなところに市警団。うざくて蹴っちゃった。おまえの仲間たちさぁ、中庭で戦ってるけど敗戦ムードだよ。みんな死んだね」
3人めのエネミーが現れた。
悪くなるばかりで、打開できるか危うい展開だ。
負傷警士を助け出すのは絶望的かと悔しさが滲んだそのとき、非常階段の方向から予期せぬ声が届いた。
「外周スコードの人? オレ暇なんで参戦しましょうか?」猛烈に気怠い口調だ。内容の勇ましさと温度差がありすぎる。
影は痛む身体を起こし、救世主に微笑みかけた。「よろしく……!」
参入した警士が呟くように、「側面を狙うんですよ」と言った。足元の照明が暗く、目視ではわからなかったが、アーマーの継ぎ目が少し空いているらしい。
「さっき拾ったバールです。どうぞ。……ケガして血が減るとまずいので離れてていいですか? 他人の命に関わる家庭の事情で。……あ、残弾譲ってくれたら嬉しいです」
「了解」影はバールと交換で、素早く弾倉を抜いて渡した。
「一応言っときますけどオレ、外周の対です。……戦略はそちらに合わせますので気を遣わないでください。ほら、早く動かないと殺られますよ?」
・
使えるものはすべて武器。
――バール最高!
限られた面積を狙うには、ハルバードは大きすぎた。対の判断は的確で、小さな的を攻撃する場合、細く先の尖った武器が圧倒的に有利だ。
敵隊の男たちの脇腹に埋めたバールの先。濃く黒ずんだ血が、暗がりの中で呪わしく艶めいている。
他の警士は無事だろうか。あのアーマーのせいで難航している予感があった。
今夜あたり、縣のような優等生から、次戦へ向けた武器や装備の改新案が上がるはずだ。このままでは不安要素ばかりが積み重なっていく。
「助かったよ。ありがとね」非常階段を下りながら、傍らの救世主に感謝した。
「別に。暇だったんで」
非行少年を思わせる投げ遣りな物言いだ。目元の表情が暗く、彼もまた、生きることに疲れきっているような気がした。きっと何か、人に言えない心の事故があったのだろう。
「俺のことは影でいいから」
「キアサの市警団で中等部2年ってたぶんオレだけなんで、こっちが年下ですよ」対は素っ気なく言い捨て、ポケットから小さな紙箱を取り出した。「ほしかったらあげますけど、着色料の過剰添加で販売禁止になったチューイングキャンディなんでやめといた方がいいと思います」
彼は中身を口に放り込み、何も喋らなくなった。
隣にいた対とほぼ同時に、セルラが警告を発する。短い電子音とともに、激しく明滅する赤いランプ。
「うわ、撤退とか……」嫌な汗が滲んだ。主戦エリアは、おそらく相当まずいことになっている。
「派手にやられたみたいですね」
そう言ってこちらを向いた対の顔が、窓からの月明かりではっきりと見えた。
「口、緑色……? ポスターの人じゃん! くるみちゃんが君のこと探してたよ!」
・
仄は噴水の縁に腰を下ろし、他の3人を待った。
縣から連絡があり、この公園広場で落ち合うことになっている。
たとえ深夜まで誰も来なかったとしても待ち続けるだろう。
大きな犠牲を出した戦いの後に、ひとりで帰途に就く寂しさを和らげたかった。
今夜の敗戦の痛みが消えず、心は少しも晴れなかったが、自分の仲間が無事だったことだけは喜びたい。
本当は、次の鉄槌の会で誰かを失うのではないかと怯えていて、このままいつまで持ち堪えられるのか不安になる。思いきり仲間の死を悲しんで、すぐに日常へ戻れるような強い人間ではないことを自分が一番よく知っている。
俯けていた顔を上げ、夜空の星を数えた。
身の周りには結局、運命だからとか、仕方がないからと諦めきれない大切なものばかりが残った。
多くを持たず、大事な人や絆だけをいつも側に。目指していたシンプルな生き方への第一歩。
上着のポケットにそっと指を触れてみる。中には今も、ルナの遺書が。
今生きている自分は決して死ぬことはなく、いつかひとりだけ取り残されるような気がするのはなぜだろう。
きっと、生きて苦しむことは死ぬよりも切ない。
――わたし、早く来すぎたかしら……。
閑散とした夜の広場を吹き抜ける細い風。
仄はしっかりと両の手の平を握り合わせた。感情の揺れに振り回されて、充電を減らすわけにはいかない。Fullになる頃、何かの、あるいは誰かのために役立てられるような巡り合わせがあると信じたい。
ふと近くの通りに声が咲き、大学生くらいのグループがはしゃぎながら歩いて行くのが見えた。
アミューズメントパークを楽しんだ帰りなのだろう。異なる色のケミカルライトが暗闇に映えてとても綺麗だ。
尊い時間を過ごしている人々も、今泣きそうなのを我慢している自分も、等しく皆、黒い夜の中。
彼らが過ぎ去った後、仄はそっと目を伏せた。
胸の奥に、数日前の記憶が蘇る。
あの日、俺を殺してくれと言った彼の孤独を抱き締めたいと思った。
望まずに生まれ、傷ついている、可哀想な影を。
・
「……今の、」
不意に視界を過った人物。その靴に見憶えがあった。
少し前に、自らの手で書き込んだ敵の装備。アーマーを外しているが、オリーブ色のブーツはそのままだ。どこへ行くのだろう。単独で広場内の遊歩道を進み、市街地から遠ざかっていく。
比較的距離があったので、こちらの存在には気づいていない様子だ。
――見過ごすわけには……。
セルラで文字を送る余裕がない。書き置き代わりにハンカチを残して立ち上がる。
仄は敵隊のメンバーと思われる男の後を追った。
――どこへ消えたのかしら。
距離を空け過ぎたのか、不覚にも敵を見失ってしまい、公園広場からそう遠くない場所に佇む巨大な廃倉庫に迷い込んだ。
しかし、壁際に大量のコンテナが積み上げられているだけで、内部は暗く、湿った空気が停滞している。出入口はふたつ。港にあるような、天井が高い長方形の倉庫だ。
何か手掛かりが得られるかもしれないと希望を持って臨んだが、追尾のセンスがないことを思い知らされる結果になった。
待ち合わせた公園広場へ戻ろうと踵を返したそのとき、背後から微かな物音が聴こえた。
全身に緊張が走る。急速に鼓動が高まり、銃を握る手に力が入った。
誰かいるのかもしれない。確かめなければ。
危機を感じて後ろを向いた刹那、今まさに鉄パイプを振り下ろそうとしている男が近距離に迫っていた。
「更ッ! 危ないッ!」
「えっ? きゃっ」
自分が突き飛ばされて倒れたことを理解するのに数秒掛かった。手の平と膝が痛い。
顔を上げると、鋭い目をした縣が敵隊の男を武器の先端で穿ち絶命させていた。
鉄パイプが床に転がり、硬い金属の音が倉庫内に響き渡る。
「……縣さん。あの、わたし……」震えて上手く声が出ない。
続く謝罪をかき消すように、扉から駆け込んで来る不穏な靴音。
再び現れた敵の数に戦慄した。この倉庫は、密会か何かの目的で使われていたのだろう。迂闊に踏み込むべきではなかった。
「君は戦わなくていい。できれば早急に影を呼んでくれ。動けるうちにここから逃げろ。……早く行けッ!!」
縣は6人を相手にひとりで戦うと決めたらしい。一度もこちらを見ることなく、凶器を手にした敵の集団に斬り込んでいく。
その隙のない攻略を目の当たりにし、中心スコードの警士が市警団の主戦力であることを思い知らされた。
闇に浮かぶ切っ先の残像。入り乱れる鉄パイプの打撃音。積まれたコンテナにまで生々しい血痕が散っている。
敵の悲鳴が耳に刺さり、はっと我に返った。
いつの間にか手から離れていた銃を拾う。無事にここから出られるよう尽くしてくれた縣には申し訳ないが、何もせずに逃げるわけにはいかない。できることを探して少しでも役に立たなければ。
とにかく影に助けを求めようと、焦る指でセルラの発信ボタンを押す。
冷静な判断を欠いて、暗がりの中で明かりを灯してしまった。
敵の足がこちらを向く。
一瞬、セルラから影の声が聴こえた気がした。
半ば無意識に発砲した弾が、男の胸部に命中した。手の平に残る虚ろな痺れ。男は膝を着いて呻いている。このまま時間を掛けて死んでいくのだろうか。
気が抜けて頽れそうになった瞬間、新たな鉄パイプが視界の端を掠めた。咄嗟に顔を庇った腕に直撃し、身体ごと床に叩きつけられた。何かが折れた嫌な感触とともに、おぞましい痛みが走る。
「おまえみたいな使えねえ女は箱に入って出荷されんの待ってろ役立たず!」
殴りつけてきた敵の隊員もまた、駆けつけた縣に斬り裂かれていく。
「大丈夫か!? ……仄ちゃん?」縣は、更と見間違えたことに驚いたようだが、すぐに手を差し出してきた。「立てる? 無理そうなら僕が」
「すみません。……本当に」伸ばした手が空を切った。
異変を察知したのか、縣は戦闘態勢で立ち上がり、振り返る。何かが鋭く降下し、その身体が不自然に傾いた。
「えっ……」
敵が、もうひとりいた。先の尖った凶器を手にし、感情の読めない面持ちでこちらを見下ろしている。
縣は足音を殺して近づいて来る気配を捉えたが、相手の攻撃の方が素早かった。
――もういや! いつもわたしのせいで……。どうして……?
床に座り込んだまま片手で敵に銃口を向けている自分が、滑稽で、憐れで、このまま内側から崩れ落ちてしまいそうだ。
何の前触れもなく、扉付近から声が響く。「武器を捨てて!」
「……更さん!」
彼女はひと目で状況を理解したらしく、怒りを滲ませて敵を挑発した。「私が相手になるわ」
「女のくせに」吐き捨てるように言い、男が更を標的に定めた。雑な靴音を立てて間合いを詰めていく。
更は余裕の表情だ。纏う空気が冷ややかで鋭く、柄を短く細工したハルバードを握っている。
二度攻撃を受け流した彼女は、敵が鉄の棒を振り上げたのを見計らい、その胴を横薙ぎにして小さく微笑んだ。孤を描いて床に鮮血が散る。
敵の隊員は、女だからと蔑んだ更に敢えなく斬り捨てられた。
駆け寄って来た彼女は縣の側に膝を着く。「何なのよっ。しっかりして。縣!」
仄は恐る恐る彼の顔を覗き込んだ。「あ……」と声が漏れる。
深く目を閉じた縣の、右の額に黒い穴が開いていた。髪の生え際と額の境界あたりから、不透明な血が溢れ出している。命が少しずつ、音を立てずに流れていく。
深い傷だ。戦場で同じ程度の受傷体を見つけたら、もう助からないと救わずに通り過ぎるような。
「わたしの、せいで……」氷のようになった手を握り合わせ、嗚咽が漏れる口元に押し当てた。「っ。すみません、……更さん。わたしを庇って、縣さんが……。助けなくてよかったのに。わたしが、殺されて、存在しなければ、こんなことには……」
言い終える前に、思いきり頬を叩かれた。
「ほのちゃんに死んでほしいなんて誰も思ってない! 私が縣の立場だったら同じように庇ったはずよ。影だって……」
目の前で、更も泣いていた。
――縣さんは、更さんのことが……。
縣は、更を傷つけられたくなかったのだ。あのとき、はっきりとそう感じた。けれど縣の命が危うい今、不安に声を囚われ、そのことをどうしても彼女に伝えられなかった。
・
影は倉庫の扉を開け放った。内部には、積まれたコンテナと、倒れている敵隊のメンバーらしき数名の男。泣いている、同じ髪型の女子がふたり。そして、額から血を流している縣。
それらを目にしたと同時に、もっと早く着いていればと後悔せずにはいられなかった。
中途半端に傷が疼き、ドラッグショップで購入したファストエイドキットの中身を貼っていてサブウェーに乗り遅れた。
仄が縋るような瞳でこちらを見ている。抱えきれないことがあって、虚無の洞へ身を投げたくなったのだろう。暗がりの中でも酷く泣いているのがわかった。
更はセルラを握ったまま、縣の傍らに力なく座り込んでいる。
「……どうしよう、ガーターやられたの……? そんな……」
駆け寄って間近で見ると、想像以上に事態が深刻だった。縣は生命体としての存在感が薄れていて、額から流れた生血が耳の横を伝い、頭と肩の間に不穏な血溜まりができている。その気になれば、この銃創に似た穴から、彼の持ついろいろな記憶や秘密を引きずり出せそうだ。
倉庫内には毛布も何もなく、体温で生ぬるくなった上着を縣に掛ける。
「助けは呼んだんだけど」更は気力が尽きたのか、項垂れたまま小雨のような声で言った。
レスQの到着時刻が読めない。先ほどの鉄槌の会の重傷者が近郊のメディカルセンターに振り分けられ、どこも受け入れの余裕がないはずだ。
――何でこんなことに……。
皆無事だったのだから、次の挑撥状が届くまでは誰も死んだりはしないだろうという、短絡的な思考の罠。束の間の平和に片足を突っ込んだ緩さを嘲笑うように、予期せぬ出来事が暗闇からこちらをつけ狙っている。
これは、市警団の警士として敵を手に掛け、命懸けで自由になろうとした自分たちへの罰なのか。
けれど縣は、ここで殺されなければならないようなことは何ひとつしていない。
「影……。ごめんなさい。わたしのせいなの……」仄は弱りきっていて、今にも意識を失いそうだ。
こちらも相当揺れていて、励ましの言葉が出てこない。
縣は助かりたいと思っているのだろうか。答えがイエスであっても、ノーであっても、それが本心かどうかを知る術がなかった。すぐ側にいても、他人の心を暴くことはできない。
――助ける方向でいいのかな。……いいよね?
いつ来るかわからない救助を待っていては、取り返しのつかないことになる。
閃きのように、ひとり、手を貸してくれそうな人物が浮かんだ。
顔と声が、記憶の中で少し古びている。
――おじさん、どうか……。
影は幼馴染のいる病棟に電話を掛け、緊急だと告げて彼を呼び出して貰った。
「炉、突然で申し訳ないけど頼みがある」
「コインじゃん。久しぶりだね、どうしたの?」薬が効いているのだろう。炉は、やわらかく熱に浮かされたように問いかけてきた。長いこと会っていないが、おそらく今も変わらず、異国の遺伝子と混ざり合った儚げな少年の姿をしている。「ぼくはね、朝からずっとベッドで死亡診断書を書いてたよ。仲よくしてたお花が天国に行っちゃったんだ」
「おじさんに、手を貸してほしいと伝えてくれないか。……仲間が死にかけてる」
「それは大変だ! コインも苦労してるんだね」
「炉、急いでるんだ。親族以外は連絡できない。今すぐに電話して、おじさんに事情を伝えてくれ」
「待って。メモを取るノートがお部屋にあるんだ。待つのは少しだけだからね。大丈夫だよ」
電話口に戻って来た彼に、必要と思われるすべての情報を渡した。
「了解。あの人ブランクあるからちょっと心配だね。……ぼくだけじゃ不安だろうから、市警団の責任者の人からも連絡入れて貰うといいよ。念のためにね」
「そうするよ。ありがとう」
「よくおじさんと3人でかくれんぼしたよね。コイン全然笑わなくて暗かったから、もしかすると自殺しちゃったんじゃないかなって、ときどき空を見てたんだ」
「残念ながら飛び立てなくて地上にいるよ」
電話の向こうで、炉が楽しげに笑っている。どこか知らない世界へ遊びに行くのかもしれない。
「えくすきゅーず、薬の時間だ。これを切ったらすぐに、ぼくがおじさんに伝えるよ。心配しないで。……またね!」
ep,4 end.