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episode-3 ロービーム

後半、出血のパーセンテージが高めです。


 ――この消毒された静けさがいいよね。開放前のプールみたいな。

 救護室は昨日と同じかそれ以上にしんとしていて、窓際のベッドに半分だけカーテンが引かれていた。他には誰もいない。

 かげは口元を綻ばせ、声を出さずに空きベッドに横たわる。

 何かあればほのかが起こしてくれるだろう。目を閉じると、薬を盛られたような眠気に襲われた。

 睡眠時間はゲームに捧げ、予定のない昼間や退屈な進攻戦議の最中に、短く寝て体力の回復を図る。

 

 不意にポケットのセルラが震えた。画面を見るとあがたからで、『昼食がまだだったら、仄ちゃんを誘って僕の部屋においで。君たちの分も用意するよ』とのこと。

 仕方がないので、緊急停止ボタンを押して眠りのエレベータを下り、仄を呼んだ。

 彼女は返事をしてすぐに、水色のハンカチを手にしたままベッドを離れてこちらへ来た。

 瑞々しいストレートヘアに窓からの陽が当たっている。

「おはよう。その髪、真っ直ぐまとまるように教育してるの?」

「洗って乾かすだけよ?」仄が不思議そうに首を傾げる。

 彼女は今日もひとりで泣いていたようだが、すっきりとした明るい笑顔で、こちらも自然と笑みが零れた。

「ガーターが何かご馳走してくれるって。書記も行く?」

「縣さんが? もちろん!」



 訪ねて行ったB館の820号室にはすでにさらがいて、パスタか何かのよい香りが漂っている。縣はキッチンで調理に夢中のようだ。

「どうぞ、上がって」と制服姿の更。彼女は先日の巻き髪ポニーテールではなく、ティアラを載せる前の王女のような髪型をしていて、露わになった首からやわらかい色気が感じられた。

「サララ、その救援係のバッジ最高。慈悲と慈愛の女神に見えるね」

「嬉しいけど期待しないでね、影。負傷した男子は甘やかさない主義なの」更は冗談ぽく笑う。

 手土産を彼女に渡した後、リビングのソファに腰を下ろした。

 インテリアへの情熱と、室内の片づき方が予想を上回っていて緊張が走る。カーペットに嘔吐などしようものなら、その場で絞殺されそうだ。

 ――それより、どうしてガーターの部屋だけ広いんだろう。謎すぎる。


「そういえば、わたし昨日、影が貸してくれたゲーム少しやってみたの。面白いのね!」

「よかった。それより充電はどう?」

 仄が手の平を眺めて言う。「今、21%くらいかしら。楽しみね。人類が滅亡するまでもう少しよ」

「!?」

「やだ、冗談に決まってるじゃない」仄はさりげなく、こちらの左手首に視線を向けた。「影、それまだ治らないの……? 言いにくかったら黙ってていいの。影の秘密は影のものだから。でも、もし、辛いことがあるなら、」

 何となく気恥ずかしくなり、制服の袖を引っ張って絆創膏を隠した。

「書記。その遠回しかつ遠慮がちな訊き方は、リストカットを疑っているね?」

「えっ、違っ……。ごめんなさい、そんなつもりはっ」

 絶妙なタイミングで、縣がキッチンから現れた。白いシャツの袖を折り上げ、休日にホームパーティで料理を振る舞うシェフのような出で立ちだ。表情も自信ありげで、相当入れ込んでいるのが見て取れた。「ようこそ。今持ってくるから、ダイニングテーブルで待ってて」

「わたしでよければお手伝いします」と仄。

 縣は当たり前のように辞退し、彼女を優雅にテーブルへ導いた。

 間もなく料理が運ばれてくる。

「すごい何これ、初めて見た」

 洋風の皿に白いソースのかかった魚が載っている。

「白身魚のムニエルだよ。クリームソースにワインのコレクションを使いたくてね」

 皆で席に着き、料理を口に運んだ。味と食器のセンスは評価したい。けれど、何だか火の通りが控えめな気がした。

「ガーター、この魚ちょっと生じゃない?」

「いや、そんなはずは」

 全員が手を止め、一斉にこちらの皿を覗き込んだ。

「『迫り来るアニサキスの恐怖! 次号、悪夢の集団食中毒……!!』なんてね」



 午睡にうってつけのあたたかいリビングで、縣のギターを聴きながら目を閉じた。

 出掛けて行った仄と更も、そのうちショッピングセンターのカラフルな紙袋を手にして戻って来るだろう。

「サララってさ、ケーキとかマカロンしか食べなさそうなイメージだったよ。いたずらな目で笑いながら指についたクリームをペロリ、みたいな」

「あいつ、見た感じ痩せてるけど食べ過ぎ。深夜起こされて『フレンチトースト食べたい』って……」

「ガーターちょっと真面目系だから陽気なサララと相性いいじゃん。試験前とか頼りにされなかった?」

「いや、」と縣は口籠った。「更の方が、……。学期末考査が2勝2敗で……」

「うわ、サララも秀才か。書記もかなりスペックいいはず。何だろう、この疎外感」

 一応この市衛警護団というのも、難易度高めの職種として認知されているらしいけれど、中にいる分には特に何も感じない。

「別に大したことないよ。僕も更も俗世の遊びを覚えた途端に成績落ち始めて、謝恩推薦狙いでここに来たんだ。任期終わるまで生きてたら彼女と大学に進むよ」

 彼らの進路より、覚えたという俗世の遊びの方が気になったが、黙っていることにした。


 頭の中は少し退屈で、けれど心はいつになく穏やかだった。

 ――本当にいいのかな。

 こういう日常が常習化すると、平和慣れしすぎて思わぬところで深手を負いそうだ。

 ――明日楽しいことありそうだし、今は何となく死にたくないな。

 心地よい場所が永遠に在り続けるはずはないとわかっているけれど、とりあえず今と次の瞬間くらいまでは大丈夫だと信じたい。


 演奏を終え、縣がケースにギターを仕舞う。先日より、胸の傷を写真の角で引っ掻くような痛ましい音色が強化されていた。

「ここ、いい部屋だね。インテリアも最高。妙に広いし」

「ああ。僕、篁さんの秘書だから優遇して貰えたんだ」

「げっ。タカムーと通じてたのか。不覚だった……」

「秘書っていっても、領収書の整理とか事務みたいなことしかやってないけどね。あの人、楜ちゃんのことでいろいろ気が立ってるからそっとしておいてあげて」

「くるみちゃん? って誰?」

「篁さんの幼馴染。学年でいうと中等部3年くらいだったかな。あまり見かけないけど独創的で可愛い子だよ」

「あのタカムーと幼馴染やってられるんだったらメンタル相当大人だね」

「すぐ問題起こすけどね」と縣が笑う。「真夜中にロビーにうずくまって、市警団に届いた手紙に返事書いてるときあるから、踏まないように気をつけて」

「了解。その夜型少女のくるみちゃんがタカムーをキレさせる起爆装置ってことね」



 縣の部屋で仄と更を待つつもりだったが、ポリス署からの救援要請がセルラに配信されてきたので、有志の市警団員たちと各々現場に向かった。

 要約すると『刑務官の不手際で囚人逃げちゃった! ヘルプ!!』とのことだが、人気アミューズメントパークの爆破予告と重複してしまい、人手が足りないようだ。

 戦闘装衣でシティ・キアサ巡行の新型路面電車に乗り込むと、乗客の視線で串刺しになった。普段制服として着ているものだが、やはり異質に映るのだろうか。

 橙色に呑まれかけている街のビル。見慣れない景色だ。

 このシティには知らない場所がまだ多くあって、近々服でも探しに足を運んでみようと思った。何かしていないと、とにかく暇だ。

 縣の部屋の一室がワインの巣窟になっていた件について先ほど聴取を行ってみたが、「料理に使うんだよ。……表向きはね」と毒っぽく微笑まれて終了した。

「行先変更したい。脱獄犯狩るよりパレード警備の方が夢あっていいじゃん」

 縣は露骨に引いた表情を改め、「それじゃあ今度更と仄ちゃんも誘って行こう。チケットは僕が用意するから」と保護者風の口振りで言った。

「ガーター、先輩として順調にレベル上げてるね。……でも、そんなによく出来た人間目指さなくてもいいのに。元の性格が多少悪くても気にすることないじゃん。大丈夫。みんなガーターのことが大好きだよ」


 不意の急ブレーキに車内が騒然となる。引き攣った悲鳴が上がり、空気が凍りつく。

「おい、貴様ッ! 誰が停まれって言ったんだよ! 走れ! 早く!」と苛立った男の罵声。

 無言で示し合せ、そっと席を立って、隣の先頭車両C1を覗く。

「うわ、スペシャルゲストのお出ましだ」

 再び車体が加速を始める。

「現場まで行く必要はなかったみたいだ。脱走犯が、……4人か」縣は戦闘モードに切り替わったようで、難しい顔をしながら動向を窺っている。

「4人いたらバンドやれそうだね」

 薄い泥色の作業着を着た、成人か未成年かよくわからないボーダーラインの男2人が鉄パイプで乗客を牽制し、もうひとりが幼稚舎の制服を着た男児を人質にとっている。残るひとりが運転手を恫喝。走行し続けていれば捕まらないと計算したのか、この状況を楽しんでいるようにも見える。

「完璧にジャクられてるよ。どうする?」

 乗客が通報している会話の断片が聞こえたので、間もなく脱獄犯の所在がポリス署に伝わるだろう。

「捕まったら刑が重くなるからね。向こうも簡単には退かないと思う。あいつらが市民に手を出すようなことになる前に、僕たちで何とかしたい。人質の子も早く助けないと。……C1の乗客をこっちに移せないかな。奇襲するにしても、囚人だけになってくれた方がやりやすい」

「だよね。……ゾンビみたいにいきなり飛び出していくわけにもいかないから何か考えないとね」

 車内は緊迫した震えに包まれ、先頭車両の怒号に怯えている。

「ふたりで守りきれるか不安だけど、C2からC6までの乗客を1カ所に集めよう。きっともうすぐ、ここにも見回りが来る」


 事情を話し、乗り合わせた市民を後方車両に移動させた。まだ巡回は来ていない。

 手持ちの銃は弾を抜き、折り畳んだハルバードと一緒に乗客のボストンバッグに入れて荷物棚に置いた。

「あー、こんなとき閃光手榴弾があれば隙作って銃撃できるのに。ゲームの中では無駄に落ちてたりするんだよ。ボス戦前に、縋るような思いで壊した木箱にアレ入ってたときのがっかり感半端ないけどね。……俺ちょっと奥の座席とか見て来ようかな。1個くらい転がってるかも」

「そんな空想の産物ひとつで制圧できるなんて考えないでくれ。これはゲームじゃないんだ。……あいつらはたぶん、街に向かうつもりだと思う」

「雑踏に紛れるってこと? まずいね。その前に何とかしないと」

 靴音を察知して振り返った刹那、背後の自動ドアが開く。

 身体にすっと冷たい血が流れた。

 狡猾な顔つきの男が姿を現す。鉄パイプの他に、どこかで盗んだらしい大型ナイフを携帯していた。

「そこで何をしている」囚人は鉄パイプの先で縣の肩を突いた。「市警団か」

「乗客を解放してくれ」

「はいそうしますなんて言うわけねーだろ! バカだなおまえ!」

 縣は大人しく黙っていたが、静かに燃える怒りが伝わってきた。

「おまえらも他の市民と同じ扱いだ。席に着け!」

 このままではふたりとも身動きがとれなくなる。縣をここに残してC1へ行けないだろうか。成功すれば乗客をすべてこちらへ移し、先頭車両を脱獄犯4人と自分だけにできるかもしれない。

「あのさ、」

「何だよ」

「俺、人質希望なんだけど」

「は?」

「冷静に考えてみてよ。まったく脅威にならない子ども捕まえておくより、市警団のメンバー拘束しといた方がそっちも都合いいんじゃない? 今日はヘルプだけど、俺たち普段ぶっ壊の隊員と戦ってるんだよね」

 無表情だが、明らかに迷っている様子だ。

「……そこで待ってろ。動くなよ」

 囚人仲間に相談するらしく、男が踵を返して戻っていく。

「あの感じだと、たぶんイエスだね」<自由人じゆうじん>のペンダントを、見えないよう襟の中に入れる。

「影、どういうつもりだ」

「交渉成立だったら俺が人質になる。ガーターはここに残って。計画通りに乗客移せたら、ポリス署に連絡して先頭車両爆破するよう伝えて」

 縣は驚いたようだが、すぐに続けた。

「それなら僕が行く。年長者として君を行かせるわけには」

「ちょっと落ち着いて。……こういう場合は知能高い方が生き残るべきだと思う。それに俺、この街の地理も何も知らないからガーター捕まったら困るじゃん」

 中心スコードの縣が死ぬようなことがあれば、市警団にとってもかなりの痛手になる。

「待て。他に方法があるはずだ」

「ないよ。……あ、あいつ戻ってきた。とにかく頼んだよ。どんな展開になっても俺のこと助けようとしなくていいからね」


 再び自動ドアが開き、先ほどの囚人が近づいてきた。「あのガキと交換でおまえが人質だ」

「そう。よかった」

「その前に、」と男は下卑た笑いを浮かべ、ナイフを握り込んだ。

 身構える間もなく、左の上膊部に鋭い痛みが走る。一瞬遅れて流れ出した血が指先から滴った。乗客を救う前に卒倒しないか心配だ。油断していた自分が滑稽で、もう笑うしかない。「……罪の前に罰ってこと? 好戦的だね」

「くだらねえ反抗したら滅多刺しにして殺すからな。覚えとけよ」



 コーティングされた床に、円い血の痕が重なっている。

 縣は走行音の響く第5車両に立ち尽くしていた。

 一度振り返った影は、幼い頃に見かけた神学生のように、憂いのない穏やかな顔をしていた。

 ――このままでいいのか。

 少し前まで談笑していた後輩を差し出し、怪我を負わせてしまったという罪悪感で頭がどうにかなりそうだ。後悔しても遅いが、やはり何としても自分が行くべきだった。

 彼が人質になった時点で、ここを離れて強行突破するという選択肢は消えた。死ぬ覚悟で特攻すれば、4人を相手にして勝算は五分といったところだが、失敗して影を刺し傷だらけの死体にするわけにはいかない。爆破の案も当然却下。

 助けを求めたかったが、この走行している車内に、味方の部隊が突入する手段があるとは思えなかった。

 影を引き戻す策も浮かばず、八方塞がりだ。日頃の勉学が足りなかったのだろうか。


 頭を抱えていると、やがて前方に動きがあり、数名の乗客が床の血痕を避けながらこちらへ歩いて来るのが見えた。その中に運転手らしき姿もある。

 ――自動走行か。

 あの男たちを唆し、先頭車両から乗客を移動させるという計画は成功したようだ。おそらくこれで、C1は影と脱獄犯4人の貸切になった。

 列の最後に、影を斬りつけた男がいる。

 移ってきた乗客が座り、C5の空席がほぼ埋まった。

 この場でひとりだけでも仕留めるべきか迷ったが、寸でのところで思いとどまった。役目を終え、立ち去りかけた囚人を呼び止める。

「待ってくれ。次は僕が人質になる。先ほどの警士と交換してくれないか」

 男は嘲るような笑みを浮かべた。

「だめだ。替える場合は乗客とトレードだ。何を企んでるのか知らないが、インテリぶった色男はいらねえな。選ぶ権利はオレたちにある。次にウザいこと言ったらあの前髪変なクズ殺すぞ」

 縣は唇の裏を鋭く噛んで怒りに蓋をする。


 ふと窓の外へ目を遣ると、予期せぬショットが飛び込んできた。

 ――まずい、撃つつもりか……!

 進行方向のビルの屋上に狙撃部隊がいる。

 次の瞬間、轟音とともに車体が激しく上下した。乗客が一斉に悲鳴を上げる。

 衝撃から立ち直る間際に予測がついた。脱走した囚人を狙ったのではなく、走行にまつわる管理領域を狙撃して停車を試みたが失敗したのだ。現に今なお線路の上を走り続けている。

 ――状況を考えろ! あいつらを刺激しないでくれ!

 側にいた男が先頭車両に駆け戻っていく後ろ姿を見て嫌な予感がした。

 攻撃してしまった以上、何をされても不思議はない。

 乗客の緊張と疲労も限界に近いはずだ。

 本当にもう、爆破以外に手立てはないのだろうか。

 息を止め、縣はポケットの中のセルラに指を触れた。

 ――仲間を犠牲にするか否かを、僕に選べというのか……。



 手錠で手摺のパイプに繋がれたまま、足元の血溜まりを眺めていた。黒ずんだ赤い体液が、零れた飲みもののように拡がっていく。

 誰かが血液の入ったバケツを傾けているのかと思ったが、どうやら自分から流れ出た血で間違いなさそうだ。

 痺れるような痛みの感覚も遠くなり、しばらくは何も考えられそうにない。

 少し前の不自然な衝撃でフロントガラスが割れたのか、暴風レベルの風が絶え間なく吹き込んで身体の熱を奪っていく。

「ポリに入れ知恵したの、おまえの仲間だよな?」

 囚人4人は再逮捕を怖れているらしく、落ち着きがなくなり、機嫌の悪さが狂気化し始めた。

「……知らないけど。ずっとここにいたし」

「うるせえ! つーかさっきから気に入らねえんだよ! 余裕ぶりやがって! 痛いですとかやめてくださいとか泣きながら言え! おまえみたいなヤツ見てると無性にイラつくんだよ!」吐き捨てるように言い、男は歪んだ笑みを浮かべた。「だからさぁ、カタルシスっていうの? 痛めつけるとスカっとするぜ! ホントは看守ぶちのめしてやりたかったけどおまえでいいわ!」

 唐突に痛みが走り、側頭部を殴られたのがわかった。

「……不満とか、怒りなんて、……抱えてても疲れるだけだよ」

「何か言ったか?」

「一度ハズれたら、……死なない限り、新しい人生のカードは、……」


 休憩を挟まず、レーティング13の遊びが始まる。

 ルールは簡単。4人が交替で看守となり、10分間懲罰を与える。囚人役の警士を殺した者が負け。降参させた者の勝利。

「叫びたいくらい痛いだろ? 早く降参しろって」囚人が、生々しい腕の傷跡をなぞるように、何度もナイフを滑らせる。「ほら! 早く! まだ死ぬなよ! 次まで持ち堪えろ!」

 熱い血が袖の中を伝って、手錠で括られた手の平の窪みに溜まっていく。

 いつの間にか風が止んでいた。

「おい、聞いてんのかクズ!」

「…………」

「別の刺激を与えてみろ」

「おう、そうだな」

 胸に突き刺されたナイフは深く潜らず、すぐに引き抜かれた。

「骨が邪魔で刺さんねえ。脱がせるか」と囚人がおどけて笑う。

「おまえそういう趣味あんのかよ」別の囚人がふざけて笑う。

「うっせーな。ちげーよ。そろそろ降参するよな? クズ、ほら返事!」

 ナイフの刃で頬を叩かれ、現実に再着地。

「……無理」ポリシーの問題で、命乞いも降伏もするつもりはない。

 朦朧とする意識の中で、うっすらと縣の声が聞こえた。乗客へ向けて何か言っているようだ。おそらくかなり激怒している。

 ――ガーター市民にキレちゃったとか……。

 第一車両ではなく市警団が炎上しそうだ。

 爆破の件はどうなったのだろう。もう、だいぶ前から覚悟を決めて待っているのだけれど。

「無理とか言える立場じゃねえだろ! 何様だてめえ!」

「よし、交替。次はスタンガン攻めにしてやるぜ。電力MAX!」

 首に金属の先が触れたと同時に駆け巡る閃光と衝撃。3度めですべての感覚が途切れた。

「やりすぎたか。だめだめ、まだ死ぬなって。つまんねーじゃん。起きろ!」

 前後左右から殴る蹴るの暴行を受けている最中、薄く目を開けたまま、黒い海に沈む夢を見ていた。


「っ、うッ……」覚醒した瞬間、込み上げてくる自分の血で窒息しかけた。噎せて咳き込むと、体温と同じ温度の血液が漏れ出し、吹き荒れる風に乗って遠くの床に赤い飛沫が散った。

「汚ねえなッ! 生きてたらあとで掃除しとけよ!」

 呼吸を整え、影は小さく笑った。爆破されて粉々になる予定だからそのままにしておいて大丈夫だよ、と口にする気力が残っていない。

 縣は何を躊躇っているのだろう。少し先の線路に小型爆弾を設置するだけの簡単な作業だ。ポリス署が却下するとは思えない。もしかすると、先頭車両爆破計画が伝わっていないのではないか。

 ――ガーター、俺のことはいいから早く……。

 自分が死ねば、次の人質に再び乗客が選ばれる怖れがある。

 不安を抱きながら何気なく目線を上げると、ふたつ先の車両に縣の姿が見えた。焦りを帯びた様子でこちらに向かってくる彼を、学生服を着た女子生徒が必死に止めようとしている。

 偶然、縣と目が合った。

 何か言っている。

 ――逃げ、ろ……?

 平気だと言いかけた刹那。

 爆音と同時に車体が跳ね、背後からおぞましい圧力を持つ熱風に煽られた。

 身体ごと吹き飛ばされ、そのまま数秒、意識が断たれる。


 不自然に傾く第一車両。割れた窓に手を伸ばすと、鮮やかな夕暮れの空に触れられそうな気がした。

「……残念。……死んでないし」



 煙の上がるC1に駆け込んだ縣は、半壊した車内で影を捜した。さすがに手加減したのだろう、跡形もなく飛び散るほどの高威力爆弾の使用は見合わせたようだ。

 誰かを犠牲にしてでも解放されたかったのか、影との遣り取りを聞いていた乗客が内密に通報し、爆破案を告げ口した。

 別の方法で何とか無事に済ませられないかと考えを巡らせていたこちらとしては、怒りを感じずにはいられなかった。

 ――他人が痛い思いをして死んでもいいから自分は助かりたい、か……。図々しい思考回路だ。まさか、ぶっ壊の隊員じゃないだろうな。

 そうだとしたら、次の鉄槌の会での反撃を楽しみに待っていろと言ってやりたかった。


 窓際に倒れていた影を見つけたとき、もう死んでいるのではと頭の中が真っ蒼になった。

 自分と同じ制服を着た身体が、履き潰した靴のように傷みきっている。

 ワインと不透明な赤を煮詰めたような、惨い色の血溜まりに俯せていて、遠目には息をしているかわからなかった。

「……おい、大丈夫かっ」手錠の破片を一瞥し、縣は側に膝を着いた。「しっかりしろ」

 仰向けにして抱え起こすと、影が小さく咳き込む。

 口の端から白い首筋にかけて、歪んだ線を作る何本もの血の跡。鎖骨の窪みで、今にも溢れ出しそうな黒い水面が揺れている。

「すまない、僕が志願すべきだった」

「……いや、大丈夫」彼はほとんど目を開けず、掠れた声で言った。「ガーター途中怒ってたけどどうしたの……?」

「素行の悪い市民を注意しただけだ」

 影のシャツの胸元をそっと持ち上げてみる。〈自由人〉のペンダントも血塗れになって輝きを失っているが、死んではいない。


 影の足首と靴の間から血液が漏れているのに気がついた。撥水加工の布地の表面にはさほど滲み出していないが、おそらく中は相当酷いことになっている。

 あまり喋らせるのもよくないと思い、顔を上げて医療関係者を探している最中、突然背後が騒がしくなった。こちらへ向かおうとしていたらしい白衣姿の男を捕まえ、乗客が何やら訴えかけている。乗り物酔いで死にそうなので、最優先で搬送してくれと必死な様子だ。

「僕、話し合いに参加してくるね」あの残酷な人間を車内から引きずり降ろし、タクシー乗り場で待つよう脅しても許されるだろう。

「いいよ、譲ってあげようよ……」影はうっすらと口元を綻ばせた。「絶対死にたくない人だっているじゃん……。しあわせな人生だから、いつまでも生きていたいんだよ、きっと。……最高のカードだ。少し羨ましいね……」

 確かにそうだけれど、何か釈然としないものを感じた。あの図々しい市民を救うことに価値があるとは思えない。

「君を運んでくれるよう頼んでくるよ。……後で話がある」

「今言って」

 仕方ないな、と嘆息する。「僕は自己犠牲を前向きに受け止めるつもりはない。君は人の役に立ったという満足を得て穏やかな気分で死ねるかもしれないが、……」

 次に視線を遣ったとき、影は睫毛を伏せていて、それから何度呼びかけても応答はなかった。

「褒めて貰えるかわからないのに、君は本当によくやるね。……僕には無理だな」

 今、この瞬間。気の遠くなるような虚無感に胸を突かれ、よく出来た強い誰かに成り替われたらと心が軋んだ。



 止められない流れに乗って、身体がどこかへ運ばれていく。新設された不要物の処理センターだろうか。

「……俺、……廃棄ですか」と誰にともなく問いかける。

 寒気が酷く、暗い世界に閉じ込められているようで、自分が目を開けているのかさえわからない。

「いいえ。違いますよ。大丈夫ですからね」知らない誰かが、ここはキアサ市内のメディカルセンターだという。

「助けなくていいです。……そこら辺に放っておいてください」

 もう、誰の手を借りても起き上がれそうにない。何だかとても苦しくて、外の風に当たりたいと思った。覚醒と非覚醒の間で寄せては返す、波のような痛みがどこまでも追いかけてくる。これはきっと罰だ。殺人の対価。あるいは、行き過ぎた加虐の。


 叶うなら、自分の足で寄宿舎代わりのホテルへ帰って、静かな部屋で少し眠りたかった。



 目が覚めるのと同時に、猛烈な怠さと疼痛の余波を感じ、まだ自分の命が繋がっていることを知った。

「影?」と近くで声がする。草むらで寝ている恋人を揺り起すような、桜色のやさしい声。

 身体が辛く、スロー再生より緩慢に目線を動かす。「……書記」

 力が入らず、息が切れる。

 仄はいつからここにいたのだろう。

 室内は明かりが落ちていて、心の隙間から寂しさを引き出す夜の闇に包まれていた。

「わたし、スタッフの人を呼んで来るから」

「行かなくていい……。書記はここにいて」

 彼女は少し困った面持ちのまま浅く頷いた。

「心配したのよ。もう痛くない? 今、光のランプを点けるから」

「ありがと。……ちょっと怪我したけど平気」

 まさか、死ぬつもりだったが、血だらけのまま搬送されて患者クランケになりましたなどと言えるはずもなく、定型文のような返事をするしかなかった。

 遅れて点いたベッドサイドの照明に、一瞬目が眩む。

 改めて仄の顔を見ると、いつもと同じようで何かが違った。

 更と百貨店のコスメコーナーを巡って来たらしく、化粧の艶があったけれど、普段の肌や口元の透明感が懐かしかった。低い位置から見上げると、大人びた佇まいとは裏腹に、どこか幼げな顔をしていた。

「リップクリームを塗ってあげたのよ。ミントの香りがするでしょ?」

 仄は微笑みながら、ふと視線を外して目を伏せる。

 たぶん、化粧のせいではない。表情の曖昧さを上手く掴めず、悲しんでいるのか、それとも怒っているのかが判断できなかった。

「書記、ごめん……」

「いいの」と言ったきり、仄は言葉を切って口を閉ざした。しばらく窓辺に立って、カーテンの引かれていない窓から街並みを眺めていたが、やがて小さな声で続けた。「縣さんから連絡を貰ったとき、わたし、影が死んでしまったとしても受け入れて諦めなきゃって思った。……もちろん生きていてほしかったのに、泣いてパニックになったりしたらいけないってすごく緊張してる自分がもう、人間じゃなくなってる気がして……。……でも、わたしは……」

 俯いている様子が深刻に映り、今にも飛び降りそうな気配に不安が過った。

「心配かけてごめん。……ベッドの空いてるとこに座っていいよ。……こっち来なよ」

 仄は頷き、ベッドではなく、先ほどの椅子に掛けた。

「……そういえば、ガーターは?」

「ポリス署の人に呼ばれて更さんと一緒に……。まだ署にいると思う」


 縣はあの先頭車両で、存命していた脱獄犯4人を手に掛けた。その様子が映画の1シーンのように加工され、動画サイトに流れているらしい。厳罰覚悟であの男たちを絶命させた彼の心情が胸に刺さる。

 ――ガーター、ワインでODとか、しないといいけど……。


 話が一段落ついた後、仄がどこか残念そうに切り出した。

「言ってくれたら、わたしと更さんも参加したのに」

「ショッピングしてるなら邪魔したら悪いと思って」

「それじゃあ、ピンチのとき『影は忙しいかもしれないから』って呼ばない方がいい?」

「いや、是非呼んで……」

 仄は微笑み、首のあたりに残っていたらしい血の跡を、濡らしたハンカチで丁寧に拭いてくれた。「もっと素直になれたらいいのに。わたし、本当にだめなの」

 素の感情を見失って心の鍵を探す、迷子の国のアリスのような気配に惹かれたから、あのとき救護室で声を掛けたのだと言いたかった。

「苦手なんだ……。誰とでもすぐ友だちになれます、みたいな明るくて自分に自信ありそうな人。一緒にいると死にたくなる」冗談めかして笑うと、口の中の傷が開いた。

 不意に、強い風が窓に当たる。

「天気よくないのかな。雨になるかもね」

「雨じゃなくて、人が降ってきそう」不安を押し留めるように、仄が震える手をブラウスの胸元に遣った。「……ごめんなさい、何でもないの。気にしないで」


 血を流し過ぎたのか、頭がぼんやりとして、現実感が薄らいでいく。

「影。あなたはいつでも死ぬ覚悟があるのね」と仄の微かな声。花が斃れるようにベッドの端に伏せ、一度だけこちらを見て微笑んだ。「眠るまでここにいるから、安心してやすんで。……絵本持ってくればよかった」

 彼女の細い髪が手首に触れる。表面が淡く光っていて、噴水から流れる水のカーテンを連想させた。


「……俺を、殺してくれない……?」


 再び眠りに落ちるまでの短い間、仄の冷えた指を握りながら、世界を覆う生と死について考えていた。



ep, 3 end.


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