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episode-2 探海灯

後半に残酷描写があります。


 影は、困憊した身体を投げ出すようにして寝台に俯せた。

 市警団の宿舎として使われている、旧ホテルのB館605号室。帰ってすぐにシャワーを浴びる。

 張り切り過ぎたせいか、思っていたより早く気力が尽きてしまった。ドライヤーを持ったままベッドへ直行する。

 疲労の濃度が明らかにレッドだ。


 前のシティで犯罪集団『非行剞ひこうき』を墜としていた戦闘と同じノリで、自身初の『すべてをぶっ壊し隊』との戦いに加わったが、やはり敵が巧妙で、こちらを罠にかけていたぶろうとしているのがはっきりと感じられた。

 敵隊のユニフォームらしいTシャツには黒い布地に地図がプリントされていて、このシティ・キアサの位置にだけ血のような色がついていた。それを全員が着て、暗視ゴーグルで顔を隠しているという準備のよさ。鉄槌の会のイベント性を高めるため、回を重ねるうちに細部へのこだわりがエスカレートしていったのだろう。

 こちらでは挑撥状と呼んでいる案内にあった通り、敵はすでに待機していて、占拠状態の大型家具店で滅茶苦茶に撃ってきた。さすがにまともな銃は手に入らなかったのか、シューティングゲームに使われたのは実弾ではなく、手製と思われる毒薬のカプセルだ。朝までには調べがつくだろうが、劇薬を管理している薬品庫から盗み出したに違いない。あるいはこの企画のために、致死毒を持つ植物を秘密裏に栽培していたか。

 外周スコードの警士は建物の周囲で待機と言われ、退屈で中を覗きに行ったが、危うく初日で生死の境を彷徨うところだった。

 ――そんなことになったら、書記は悲しんでくれるかもしれないけどタカムー大喜びだね……。

 通路にいた敵隊を始末していて詳しいことはわからないが、激しく撃ち合っていた中心側の先鋒は何名か殺られたかもしれない。

 それでも、ときおり叫声が突き抜けるスリリングな空気の中、自ら死を引き寄せるほどの解放感に浸っていたのは事実だ。

 次は何が起こるのか。緊張と期待が掛け算状態で、あの純度の高い快楽は戦いの場でしか味わえない。

 近いうちに心に亀裂が入って正気を失うかもしれないが、不確定要素満載の毎日を面白くやり過ごせたら幸いだ。

 ――死んでもいいやと思う日と、明日が楽しみなときのコントラストがきつすぎる……。


 半乾きの髪から甘いハニーの香りがして、壺に入ったハチミツが食べたいな、と思いながら目を閉じていると、ドアを叩く音が聴こえた。

「……はい、……今開けます」

 明かりを点けていて気づかなかったが、窓の外は闇が濃く、深夜に近い時刻だ。

 いつものやり方で誰何は省略し、細く扉を開ける。

 見覚えのない男が立っていた。シティ・キアサに来て初日を終えたばかりなので、顔を合わせる人間のほとんどが初対面だが、私服姿の大人びた佇まいから、少し年上の人物だろうと見当をつけた。

「警士のあがただ。これ、……」

 差し出されたものを見て、影は目を丸くした。

 ほんの短い沈黙だったが、彼の瞳が一瞬翳ったように感じられた。

 ――今、『早く受け取らないと窓から捨てちゃうよ』みたいな顔したよね、この人。

 面倒なので気のせいということにしておいた。

「君のだよね? 素人で申し訳ないんだけど、一応直しておいたから」

 昼間、たかむらに殴られた衝撃でどこかに吹っ飛んだ〈自由人じゆうじん〉のペンダントの先が、縣と名乗った男の手の平で光っている。

 思いがけない再会だ。受け取ると、自分の一部が戻ってきたような心地がした。

「ありがとう、ございます」

 最後に控えめな笑顔を添え、「つけてみてダメそうなら修理に出してくれ」と縣警士。周囲によい印象を与えることが生き甲斐らしく、話し方も穏やかだ。「ごめんね。人を待たせてるんだ。それじゃあ」


 縣が立ち去ってすぐに、受け取ったものを鎖に通す。

 勝手な解釈だが、彼は親切が趣味で、病みつきになっているのだろう。優等生という言葉をそのまま人間に造り替えたような印象が後に残った。けれど、どこか引っかかる。

 好奇心に刺激され、すっかり眠気も醒めていた。

 ふと、縣本人が、誰かとどこかへ行くようなニュアンスの話をしていたのを思い出す。

 後をつけてみようか。

 早々に決め、一度部屋を出たが、慌てて引き返した。

 ――忘れてた。書記も誘わないと。

 年上ぶった親切主義者、縣警士の追跡劇に彼女も招待だ。

 セルラで電話を掛けながら、空いた手で新品の携帯ゲーム機とその他を袋に詰める。


「影、お待たせ!」

 約束通り、男女で別れたA館、B館のあいだに位置するロビーで待っていると、エスカレータを下りたほのかがこちらへ駆けてくるのが見えた。笑顔が溌剌としていて、彼女も相当乗り気のようだ。

 側まで来ると軽く息を整え、顔を上げる。「寝ようかなって思ってたけど、わたしも起きててよかった!」

 上は女らしく襟の広く開いたTシャツにカーディガンを重ねていて、視覚的な好感度が高い。問題は下だ。制服とともに支給されたジャージ。全シティ共通のデザインらしいが、葡萄色の渋さが野暮ったいと大変不評で忌み嫌われている。

「わたし、こんな格好でごめんね。私物、少ししか持って来てなくて……」

 仄は膝の辺りまで折り上げて短くしていたが、市警団の者が見れば、ひと目であの不人気ジャージだとわかる。相当な勇気を要する捨て身のコーディネートだ。

「家出した人みたいだね」

「うっ……」気恥ずかしそうに、思い切り視線を逸らせた仄の頬がうっすらと赤くなる。それから人差し指を唇に当て、「内緒にしてね」と消え入りそうな声で言った。


 ふたりで市警団の敷地外へ出る。夜が深まり、街灯の明かりに照らされた遊歩道からは何の音も響いてこない。

 仄は渡したゲームの礼を述べ、歩く道すがら何度も口元を綻ばせて袋の中を覗いている。

「そういえばこれ、見つかったよ」パーカの中に隠れていたペンダントを引っ張り出して見せる。「今捜索してる縣警士が部屋まで届けに来たんだ。しかも修理済み」

 探し物が戻ってきたことを仄も喜んでくれた。今は笑っていて別人のようだけれど、横顔をよく見ると、救護室のベッドで泣いていたのと同じ女の子だった。

 ――何かあったのですか、とか紳士っぽく訊いた方がいいのかな。……でも、誰にも触らせたくないことってあるよね。

 たとえばいつも側にいて、どれほど熱心に見つめても、相手の心を覗けない。秘密は鍵の掛かったスリガラスの扉に守られていて、その秘めやかさこそが、人間の持つ美しさの核だと思っていた。



「それで、どうして君たちは僕の跡をつけていたのかな」

 ロビーに到着した時点で縣を見失って諦めかけていたが、風に乗って聴こえてきたギターの音を辿ると、驚いたことに探していた人物が弾いていた。彼の隣には魅力的な巻き髪ポニーテールの女子がいて、よくふたりでこの真新しい臨海公園へ足を運んでいるような馴染み方だった。

 その後、接近に失敗。仄とともに見つかってしまい、現在、欄干の側で問いただされている。

「暇だったからでーす。来訪者が現れて、寝かけてた俺を起こしたので」

「まさかとは思うけど、それ僕のこと?」

「イエス。でも<自由人>はありがとう。早速つけました」

 縣はギターを持ったまま、感情の読めない面持ちでこちらを見ている。

「すみませんでした。わたし、外周スコードの記録係の仄です。書記を任せていただいてるのに、責任感のない格好ですみません……。こんな変な色のジャージ穿くくらいなら、パジャマの方がまだましですよね……?」仄は縣が美形だとは思っていなかったらしく、恥ずかしさに支配されて正常な判断力を失っている。

 プリンセス見習いのような女子はこちらの遣り取りにさほど興味がない様子で、欄干に腕を載せ、鼻歌を唄いながら海面を覗いていた。縣と女子。共通点のなさそうなふたりがなぜ一緒にいるのか謎だ。

 色恋沙汰ではなく、音楽の趣味が合ったとか、そのあたりだろう。

「もういいよ、理由は不明ということで片づけよう」縣はひとつ息を吐き、妙に余裕ありげな顔をして言った。「彼女を紹介するよ」

「えっ、つき合ってるの!?」

 縣は口元を引き攣らせる。「恋人の意味ではなくて三人称の『彼女』だ」

「あの、……わたしも交際されてるのかなって思いました」と遠慮がちに書記。

 恋人疑惑をかけられている女子が欄干から離れ、一度寝起きのように身体を伸ばす仕草をして側へ来た。女らしい髪型に、カジュアルなTシャツとショートパンツを合わせていて、その捉えどころのないセンスが目を惹く。今の会話に笑いのポイントがあったらしく、何だか可笑しそうだ。「私たちがつき合うわけないじゃない。ね、縣?」

「悪いけど何も答えたくない」

さらよ。よろしく。私も警士なの」社交に慣れた様子で、人好きのする笑顔だ。「私ね、彼と同じ高等部に」

 縣は弾かれたように口を開く。「更、余計なことを言うな」

「夜食、ご馳走してくださるなら考えてあげてもいいわ」彼女は演技じみた物言いをして、「ねえ、縣。どうする?」と首を傾げた。


 更と仄が連れ立って夜食を買いに行ってしまったので、縣とふたり、誰もいない臨海公園で彼女たちの帰りを待つことになった。

 ぬるい海風がふわりと舞って、紺碧の空へ吸い上げられていく。水面に映ろう月が何だか頼りない。

 地面のタイルに座り、欄干に背を預けると、首に触れた鉄柵の感触が冷たかった。

「ギター上手いね。いつもここで?」

「ああ、毎日ではないけど」

 傍らに、使い込まれた傷を持つ黒いケースが置いてある。それを見て、周囲の人間より楽器の方が、縣のいろいろなことを知っていそうだと思った。

「あれ直してくれたお礼に他の曲も聴いてあげましょう。ガーターの得意なやつをどうぞ」

「悪い予感しかしないけど敢えて訊ねてみるよ。……ガーターって何?」

「ご想像にお任せ! スペル違いでふたつあるよね、意味。……でも大丈夫。人多い場所とか、ガーターにスポット当たってる雰囲気のときは縣センパイって呼ぶから。いつもお世話になっております、くらいなら噛まないで言えるし」

「……勝手にしてくれ」

 彼は心底疲れた顔をして演奏を始めた。気品溢れる優等生を演じるのも大変なのだろう。隣から聴こえてくる物哀しい音の沈みに胸が締めつけられる。

 依存症のように親切を徹底し、印象操作に尽力する毎日。優雅に振る舞っているが、彼の心は鈍色の風が吹くスラム街だ。治安の悪化は人格の歪みに関わる。


「何も訊かないのか?」いつの間にか元の波音だけになり、演奏が終わっていた。

「サララとのことは遠慮しておく。だって質問攻めにしたら『うるさいヤツ認定』されて明日から露骨に避けられそうだし」

「よく心得てるね。僕は確かにうるさいやつが嫌いだ」

「騒がしい人が少し苦手で……、というソフトな表現をお勧めする。俺に、本当は見かけほどやさしくないってバレてもいいんだね? ……本当にいいの? 別に人間観察とか趣味じゃないし、適度に上手く演じてくれれば大丈夫だったのに」

「どういう意味だよ」

 こちらは残念ながら、縣に素の自分を見せるつもりはない。市警団の影として明るく爽やかに生きると決めたので、そのうち本当の名前さえも忘れてしまいそうだ。

「些細なことは気にしなくてOK。ガーターが多少性悪でも受け止められる自信あるから! <自由人>直して貰ったしね」それに関しては本当に感謝している。無事に見つかったとしても、店に修理を頼んだら、手元に戻るまでしばらく待たされたはずだ。魂の片割れが入院しているような寂しさを味わいたくない。

「別に大したことしてないよ。言っておくけど、手先が器用アピールでもないから忘れてくれて構わない。……それと、先に興味を持ったのは僕の方だ。だから直接渡そうと思って部屋を訪ねてみた」

「意外だね」縣は素直に心情を伝えることも優等生活動の一環だと考えているだろう。もしかすると、『長いあいだ本当によく頑張ったね。もう親切な秀才を演じなくていい。ありのままの、ちょっと性悪な君が大好きだよ』と言ってくれるような親友を求めていたのかもしれない。「あのとき、サララにギター預けて待たせてたんでしょ? 密会邪魔したならごめん」

「いや、連れ立って行くこともないと思って。……更とは同じ高等部だったんだ。あの頃は不整合が多くて仲が険悪だったけど、成り行きで一緒にいる。それだけ」


 やがて紙袋を抱えた仄と更が戻ってきた。彼女たちの初対面とは思えない親しげな様子から、女子同士で意気投合したことが察せられた。

「お待たせ、5番ストリートでベーグルとミントココア買ってきた」更は地面のタイルに紙袋を置き、中身を出し始める。

「わたしも手伝います」と仄。彼女が前屈みになって頭を動かすたび、乱れのない真っ直ぐな髪が肩を滑り落ち、胸のあたりできれいに纏まった。


 食べながら話をしていると、縣、更のふたりは高等部3年相当、自分たちはやはり年下で、学年でいうと高等部2年だ。市警団歴はさほど長くなく、多少時期は異なるが同じような頃合いだった。

 この、ミントココアというホットドリンク。シティ・キアサではカフェやレストランで人気のようだが、飲み慣れていないせいか味が謎すぎて思考が分散する。ココアとミントしか入っていないはずなのに、何かがおかしい。けれど香りはやわらかく、カップを両手で包むと、どこか懐かしいあたたかみがあった。これを好きになることで、仲間との連帯感も高まるのだろう。他の3人は日頃から愛飲しているようだ。


「あなたたち、スコードどっち?」千切ったベーグルを小さな口に突っ込みながら、ふと思いついたように更が問いかけてきた。「私と縣は中心」

「こっちは偶然ふたりとも外周。俺は退屈だから動き回ってるけど」

「そう。健闘を祈るわ。前髪も伸びるといいわね。右目の上だけ短くて変よ。カットモデルの失敗例みたい」

「更は救援の担当だけど、選択を間違えたね。血だらけで倒れてる僕に『立ちなさい、縣警士』はさすがに無理だった……。しかも仁王立ち。高慢な態度は普段の二割増し」

 本人たちが目の前にいるせいか、当初の遣り取りがかなりリアルに想像できる。

「一部の男子はサララの仕打ちに喜んでるだろうね」

「瀕死の重傷でなければね。僕は遠慮しとくけど」縣は唇の端を上げる。

「ひどい。あなたみたいな使えないギター弾きに声を掛けてあげたのよ。感謝してほしいわ」更は好戦的な瞳を縣に向けたまま続けた。「私、生きてるか死んでるか見分けるのが得意なの。一度も外したことなくて、『特技は?』って訊かれなくてもつい言っちゃうのよね」

「そんな特技いらないよ」と縣。

「だめ。救援引き受けたからにはしっかりやらないと。ミス市警団に選ばれるまでは、」そこで言葉を切り、更が笑い出した。「なんて冗談。言わなきゃよかった。本当は目立つことしたくないの。普通が一番自由で素敵。毎日を楽しまないとね!」


 朝日が昇る少し前に臨海公園を後にした。目立たぬようふたりずつ戻ることになり、仄を連れて先発した。

 彼女は、更が服をくれると言っていたことを喜んでいる。気後れしてしまい、ひとりでショッピングセンターまで行けなかったらしい。それで下が変な色の市警団ジャージだったというわけだ。

 仄の服装に視線が集まっていて、こちらの着ている羽織りものについては特にコメントがなかった。私服に取り入れるには難易度Sランクの、メディカルセンターで貸し出された患者用カーディガンなのだけれど。保温効果が抜群で、病棟の外でも大活躍だ。

「楽しかったね。わたし、全然眠くないの。いつも絵本読んですぐ寝ちゃうのに」

 仄が胸に手を当て、きらきらと輝く瞳で遠い星空を見上げる。

 ――ピュア天使め!

 魔が差すように、戦衣姿の彼女が敵に冷ややかな目を向け、命を斬り捨てるところが見たいと思った。

「また行こうよ。書記もこのあと寝られなかったらゲームやるしかないね。行き詰まったら検索してみて。いい攻略サイトとの出会いで前途が一気に明るくなる」

「それでもわからなかったら影が教えてくれる?」

「もちろん! そのうちガーターとサララも誘ってゲーム合宿やりたいな。一番片づいてそうだからガーターの部屋で。『ぶっ壊』鎮静化した後しばらくは結構みんな暇だしね」

「そうよね」不意に仄が立ち止まり、何か閃いたような笑顔を見せた。「朝まで遊べる!」


 今後も縣と更を加えた4人で上手くやれそうな楽しさが、余韻となって残っていた。彼らもきっと、本来何事にも踏み込めない性格のくせに全力で開き直った後輩警士と、夜遊びに胸を高鳴らせている無邪気な記録係を受け入れてくれるだろう。



仄は明かりを消し、ベッドに身を横たえた。シャワーを浴びているうちに、遠い空がほんのりと明るくなって、もう朝が迫っている。緊急招集がなければ、少しは眠れそうだ。


 幼い頃、自分の指はピアノを弾くために生えているのだと思っていた。

 命をヤスリで削り取るような過酷なレッスン。

 初等部時代から、授業が終わると直帰して、すぐにピアノの蓋を開ける毎日。疲れを癒す休憩などは一切なく、コップ1杯のスムージーを食事代わりに渡され、30秒以内に飲むよう命じられる。そしてすぐに練習を再開。発表会のために。コンクールのために。音楽科の受験のために。推薦で海外の音楽院へ行くために。

 何度新しい一日を迎えても、決して途切れることのない苦虐。

 あるとき譜面を眺めていて、自分はこの曲を弾き終える前に、気が触れて何もわからなくなるだろうと思った。奇跡は起こらず、新しい楽譜を開いて最初の一音に指を載せたとき、自分はこの曲を弾き切る前に力尽きて死ねるだろうかと考えた。

 家庭に愛などはなく、両親は子どもを調教し、如何に完璧な人間像に近づけるかということにしか興味がないようだった。

 中等部へ上がる少し前、更なる向上を目指してピアノ教室を変えた先で友人ができた。

 通学先は違ったが、同じ学年で、名前はルナ。奏でる音が鋭く清冽で、曲の合間に目を閉じると、彼女の作った美しい氷の世界を見ることができた。

 演奏も性格も、それぞれピンクと水色に喩えられるくらい異なるのに、一緒にいると顔の違う双子のようだと言われた。笑い方が少し似ていたのかもしれない。


 楽しい時間は予め期限が決められていたらしく、進学した高等部でのコンクールの勝敗がルナとの友情を引き裂いた。こちらがほしくもない銀のトロフィを授けられ、夢と希望を持って臨んだ彼女は選外。

 ルナはこの日から口を利いてくれなくなり、こちらから勇気を出して話しかけても、敵意を滲ませた態度で露骨に避けるようになった。

 いつも自信がなく、発表の場で蒼ざめていたのを、実力を隠すための演技だったと思われたのかもしれない。

 彼女のことを心に留めながら次のコンクールへ向けて準備を始めた頃、置き手紙で呼び出しがあった。差出人はルナ本人。どことなく神経質な感じのある、懐かしい手書きの字だった。

『今夜、誰もいない時間に音楽教室のレッスン室に来て そのピアノで私と一緒に<白と赤の戯れ>を最後まで弾いて』

 よくないものを感じながら、けれど指示通りに、生徒用のIDカードで深夜のピアノ教室へ向かった。常夜灯と非常口だけが鈍く光る薄暗い空間。

 人の気配がなく、彼女はまだ来ていないのだと思い、練習しながら待つつもりでピアノの蓋を開けてしまった。

 刹那、全身の血が凍りつく。「何、……これ」

 鍵盤の上に、根元から切断された細い指が散らばっていた。白鍵も血だらけで、斑にしか白い表面が見えない。

 一緒に、というのはこの指を載せたままという意味なのだろう。

 機械か何かで切断され、痛みの衝撃で失神した指を。

 ――……ルナ、今日でピアノをやめるのね……? ……それならわたしも誘ってよ。


 頭が痺れ、現実感が遠ざかっていく。先の手紙にあったように、時間の感覚さえ見失いそうになりながら、滑る鍵盤を叩いて<白と赤の戯れ>を全楽章弾き切った。血が深く浸みていて、このピアノはおそらくもう使えない。

 ルナはどこにいるのだろう。この、正常の真逆にある情景を、どこかから見ていたのだろうか。

 自分もルナも、逃げる場所などどこにもなかった。書き込みだらけのくたびれた楽譜。張り詰めた鍵盤楽科の人間関係。窓のないレッスン室。音楽だけが鳴り響く、退路を断たれた闇の中。そこで、顔のぼやけた人影が、救いを求めるように狂気の扉に凭れ掛かっている。

 いつも怯えていた。それは他の誰かかもしれないし、わたしかもしれない、と。


 ふと目を遣ると、指のいくつかは演奏のあいだに落ちて床を転がり、自分の膝の上にも一本、裏切り者を差すような向きで、硬直した長い指が載っていた。

「っ……!」

 弾かれたように立ち上がり、後ずさる。そのとき初めて、鍵盤の右端に紙が置かれているのが目に留まった。震える手でそれを開くと、何かに憑りつかれたとしか思えない引き攣れた筆跡で『許さない』と一行。その下に6つの文字。

 もしかすると、仲直りできるかもしれないと微かな希望を抱いていた自分の浅はかさに涙が零れた。けれどまだ、助けられる可能性はある。

 ルナを探さなければ。そう言い聞かせて通路への扉を開いた瞬間、窓の外から聴いてはいけない音が聴こえた。



 仄は寝台から降りてカーテンを開ける。

 ちょうど今くらいの時間だっただろうか。8階から飛び降りたルナは、何かで押し潰されたように、平たく地面に貼りついていた。斜めに崩れた顔。不可解に折れ曲がって関節の増えた手脚。そして、知らない国の広場まで飛び散っているのではと思えるほどの、夥しい血痕。

 もう二度と、氷点でこそ輝く彼女の演奏を聴くことができなくなった。

 ――わたしのせいで……。

 中等部時代、ルナがくれた絵本を今も手元に置いている。かつて、ふたりで憧れた古典童話のロマンスが、少しの懐かしさと、暗い痛みを伴って胸の中にあり続ける。

 些細な出来事だけれど、ルナとの忘れたくない大切な記憶があって、どれほど恨まれていて、酷い罰を与えられたとしても、彼女を嫌いになれない。

 心を開いて共に楽しい時間を過ごした人とは、できればずっと友達でいたい。


 だから、死んでしまったルナのことも諦めず、いつかわかり合えると信じて。



ep, 2 end.

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