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episode-7 夜光花

Sorry, 出血多めです。


 図書棟の内部は迷宮だった。

 広大なフロアに曲がりくねった書架が立ち並び、壁には謎のステンドグラス。

 ――やばい、見失った……。

 追っていた敵2名が姿を消した。

 追跡に気づかれたか。

 そうだとすると、邪魔者を片づけようとするのが自然な成り行きだ。薄闇の中で不意を衝かれるパーセンテージが急上昇。一瞬たりとも油断できない。

 案内プレートによれば、今3Fにいる。上階へ捜索範囲を拡げるか迷う状況だ。

 ほのかの行方も現在進行形で気に掛かっている。

 ――このまま書記を探す旅に路線変更とかね!

 当事者になって初めて、ゲームや映画の世界で、行方不明な誰かを捜索する人々の複雑な心模様に触れた気がした。

 ――作中歌は暗くても、主題歌は希望が持てるやつでお願いします……。


 かげは、窓の外に視線を遣った。

 ――ん? 何かあったのかな。

 本館前の広場がざわついている。

 武器を構えながら後ずさっているのは、外周スコードの警士たちか。

 様子がおかしい。

 眉を顰めるのと同時に、脅威のシルエットを捉えた。

 敵の隊員だ。

 巨大な体躯に鉄の仮面。

 ――すごい、でかい! 人造ホムン……、人造人間オートマンだったりして!

 薪割りの道具と思われる殺傷武器を手にしていて、他のぶっこわとはひと味違う不気味な風貌。殺しの趣味も悪そうだ。

 ――まずい、斧男じゃん……!

 すでに何人かが凶刃に斃れたらしく、惨い色をした斧の先が怪しく微笑んでいる。

 張り詰めた空気の中、颯爽と駆けつけたふたりの警士。

 遠目にも負傷しているのが見て取れるが、戦うつもりなのか、周囲の味方に後退の指示を出している。

 ――かっこいい男女現れたと思ったらガーターとサララだし!

 面白そうだ。これは参戦するしかない。



 屋外の冴えた空気が心地よく、夜の解放感に酔いそうだ。

 あがたさらが生きていてよかった。

 斧男が現れたことで場が沸き、『すべてをぶっ壊し隊』の手隙メンバーが広場に集結し始めている。

「やっと会えたね! 合流できて嬉しいよ」

「影。無事だったか」縣は痛みを堪えるように額を押さえていた。笑顔もいつになくビターだ。

「大丈夫? 患者クランケから警士に戻るの早すぎ。俺のせいでごめんね。……頑張り屋さんのガーターにこれあげる」仄から貰ったオーバーワークの錠剤を手渡す。

 一瞬訝るような視線を向けてきたが、縣はそれを口に入れた。

「今夜はヘアピンなの?」更が経緯を知りたがっている。ポニーテールも元気そうだ。「私は邪魔な隊員を仕留めてくるから。ふたりにここを任せるわ」

 踵を返した更の後ろ姿が酷く傷んでいて、流血する左脚半ばの肌が、歪な三角形に捲れていた。

 彼女が走り出して間もなく、少し離れた場所から敵の悲鳴が上がる。


 斧男がこちらを向いた。

 挑発するように口の端を上げると、微かにだが反応がある。

「ガーター動けそう?」そろそろ斬撃に備えなければ。

「ああ、薬が効いてくれて助かったよ」

 ぶっ壊が投入した新参の敵、斧男。近くで見ると想像以上の幅と長さだ。

 ほぼ余すところなく、硬質アーマーで完全防備。加えてラージサイズの斧。ふざけ方が半端ない。

 今も仮面の向こうからこちらを窺っていて、その仕草に生身の人間ぽさがちらついている。ゲームの中から飛び出してきたわけではなさそうだ。

「俺が犠牲になるからガーター特攻して。チャンスはあるはず」

「だめだ。何度か回避してパターンを見極めよう。ひとりの戦力では難しい。力を貸してくれ」

 周囲の目もあるので、ここは素直に従っておくべきだろう。「はい、縣先輩!」

 イレギュラーな敵を前にしてひっそりと緊張しているらしく、気がつくと剣を握り締めていた。

 縣は冷静さを欠くことなく、好戦的な面持ちで相手の出方を観察している。

 ――ガーター頼もしいじゃん。

 スコードが違うので、協力戦はこれが最初で最後かもしれない。


 斧男が走り出した。

 こちらに突進してくる。

 奴はその勢いに乗せ、弧を描くように斧を振るった。

 攻撃範囲が広く、回避が精一杯だ。

 ――ふたり同時に始末するつもりだったのか……!

 重い一撃。

 暴力的な風圧。

 斧の残像が闇に瞬く。

 集中しなければ、僅かな油断で身体ごと斬り飛ばされる。

 自分たちの体力が底を突く前に、攻略の糸口を掴まなければ。

 急いで周囲を見回す。

 敵を落とせるようなポイントもなく、支援してくれそうな大砲もない。

 確実に窮地。

 長さ約1.8mの警士ふたりが、殺意満載の大男に立ち向かうという危険度マックスの展開だ。

 再び対峙した斧男。奴が縣から照準を外し、こちらに狙いを定めたのがわかった。

 きらりと瞬く斧。斬殺された誰かの屈辱が、呪符のように纏わりついている。


 二者一殺は無理だと悟ったのか、今度はひとりずつ殺すつもりらしい。

 ――どうしよう。

 同じパターンで攻撃を避けると、動きを読まれて先手を打たれる。

 アーマーに弱点はないだろうか。銃は無効化されていた。それでも、剣が有効か否か、試してみる価値はある。

 咄嗟の閃きで木立の方へ走った。

 濃厚な草の匂い。

 上手く注意を引き、敵を樹木エリアに誘い込む。

 速度を緩めて振り返った瞬間、視界を占める斧の刃。

 その先端が樹の幹に埋まった。

 ――スリリングすぎる……!

 予定通り屈んで回避し、真下から敵の腕に向けて剣先を突き上げる。

 硬いシリコンのような感触。力を尽くしたが、10cmほどしか刺し込むことができない。

 ――だめか。

 繰り返し同じ場所を突いて削っていく以外に策が浮かばない。

 ――その前にこっちが戦闘不能になるよね! ピンチ!

 装甲が異様に厚く、アーマー越しに致命傷を与えるのは至難の業だ。

 敵から剣を抜き、斧の追撃より早く、身を翻して広場に引き返す。

 突然の発砲音。

 追ってきた斧男が、耳元を庇ってよろめいた。

 縣だ。うっかり石畳に躓きそうな後輩のために隙を作ってくれたのだろう。

 ――さすがだね。射撃の腕がスナイパーレベル!


 しばらく攻防を続けたが、斧男が衰弱している様子はなく、こちらはだいぶ困憊している。無意味な長期戦は避けた方がよさそうだ。

「影。僕に考えがある」縣はハルバードの先を外した。

「えっ、それ取れるの? 俺のも……」

「特殊仕様だ」左右の刃がなくなり、槍のような形状に変わる。「これで奴のアーマーに亀裂を作る。そこを君の剣で刺してくれ」

 率先して犠牲になるつもりだ。あの大男と渡り合って無事に済むはずがない。

「そんな……。ガーター無謀すぎる! 他に何か」

 言い終える前に一歩踏み出し、縣はこちらの意見を静かに遮った。

「死にたくないなら警士はやめておいた方がいい」

 彼は決意を呼び覚ますように、凛々しい目をして微笑んだ。

「だよね!」

 斧男が走り出すのと同時に、縣も素早く地面を蹴る。

 距離が一瞬にして縮まった。鋭く攻め入る迫撃のモーション。槍と化したハルバードが敵の胸に埋もれていく。

 その成功に懸けたのだろう。渾身の力で深く貫いたのがわかった。

 数秒の沈黙を破り、斧男が武器を振り上げる。

 絞られるように鼓動が跳ねた。

 託された役目を捨てていいのか。しかし、このままでは縣が斬られる。

 ――行くしかない!

 全力疾走で駆け込み、凶刃が叩きつけられる瞬間、敵に思い切り体当たりした。

 斧男が鈍い音を立てて横倒しになる。

 その側で、ハルバードに片手を掛けたまま蹲る縣。

 肩の辺りに深々とした溝ができ、砕けた骨の欠片が血の流れに乗って吐き出されている。

 喧騒が遠ざかり、自分が青ざめていくのを感じた。

「……ガーター」

「せ……。影、……刺せ! 早く!」

 酸素の供給を一旦停止する。縣の叫びに操られるようにして、横臥する斧男からハルバードを抜いた。

 その振動で仰向けになる巨大な形骸。

 ――死んだのかな。

 アーマーの胸に最高の穴が開いている。

 目標通り斧男を制圧したが、素直に喜べない。喜べるはずがない。代償が大きすぎる。

 剣先を下に向け、振り切れそうな感情を乗せて刺した。

 生き返ると困るのでもう一度。

 蘇ると面倒なのでもう一度。

 何度でも死んでくれと思った。

 けれど本当は、上手く犠牲になれなかった自分を死なせてほしいと思った。


「……影」

 名を呼ばれるまで、息をするのを忘れていた。

「僕は大丈夫だ」縣が怪我の具合を確かめようとしている。

「見ない方がいい。全然、大丈夫じゃ、ないよ。……ごめん。俺が、すぐ、動かなかったから……」嗚咽のような呼吸の波を抑えられない。

 壁を作っても、守りを固めても、悪い出来事が忍び寄って来る。

 自分だけでなく、身近な誰かを巻き込んで。

「ここで退くのは悔しいけど、これ以上は戦えそうにない。……薬が切れる前に離脱するよ。君がいてくれて助かった」血の気の失せた顔で言い、縣は口元を綻ばせた。


 異変を察知したのか、駆けつけた更が、怯えるように瞳を震わせている。

 彼女も苦戦したらしく、白い肌に数えきれないほどの生傷を作っていた。

「縣警士は重傷ね。私も限界よ」

 向かいに屈み込んだ更の胸に額をつけ、何が可笑しいのか、縣は小さく笑っている。

 状況を見ていた市警団の誰かがレスQを呼んでくれたらしい。

「影。あなたも一緒に来なさい。泣いていたら狙われるわ。もう充分よ。だから」

 はっとして、手の甲で頬を拭う。

「行きたいけどごめん。書記探さないと。はぐれちゃって……」

「そう。わかったわ」更がやさしい声で言う。「影、近くに来て」

 促されるまま傍らに膝を着くと、爪が血豆だらけになった細い指で髪を撫でられた。

「大丈夫よ。……私もせきも、これくらいで死んだりしないわ」

「セキ?」

「あ、やだ。間違えてときどき言っちゃうのよね。高等科の頃そう呼んでたから」

 縣が気恥ずかしそうに睫毛を伏せた。


 到着したレスQの扉が開く。

 慌ただしさの中、途切れがちに縣が言った。「僕のハルバードを、持って行くといい……」

 愛用の武器を貸してくれるらしい。途中で斃れることのないよう、予備を持って攻進しろという意味か。受け取ってしまったら立ち止まれない。

「ありがと。……ふたりとも無事でいてね。必ず書記も連れて帰るから、4人でまた」

 それだけ告げて広場を離れた。

 ほんのりと熱の残る髪。

 ひとつの意志のように研ぎ澄まされた改造ハルバード。

 ――ガーターとサララを信じよう。


 仄はどこにいるのか。

 本当に、無事なのだろうか。

 不穏な予感ばかりが頭の中を行き交っていて落ち着かない。

 彼女と離れてはいけなかった。過ちの中毒疹が胸の隙間を侵していく。

 最短距離にあった実験棟の内部を捜索しながら、セルラに返事が来ることを願った。



 仄はゆっくりと目を開けた。

 暗い室内。隅に並べられた楽譜立て。

 先刻の講義室ではない。

 ――わたし、どうしてこんなところに……?

 通路を走行中、不意に聞こえた救援要請。

 自分が助けに行くと言い置き、急いで駆けつけたが、誰の姿もなく血痕だけが残されていた。

 ――あれは何だったのかしら。

 記憶が抜け落ちていて、その後のことは思い出せそうにない。

 そして現在、手首を縛られ、床に倒れ込んでいる。

 意識の焦点が定まった途端、恐怖を感じて緊張が走った。

 不測の事態だ。とにかく、ここから脱出しなければ。

 しかし、動くと身体中が酷く痛い。殴られたり、蹴られたりしたのだろうか。石膏包帯で固められた左腕も鈍く疼いている。

 どうにか身をよじって起き上がり、手首の戒めを解こうと難儀している最中さなか、ひとつしかない扉が開いた。

 反射的に身が竦む。

 戦って死ぬのは仕方がないけれど、何をされるかわからないのは怖い。影と離れるべきではなかった。


 現れたのは、やはり敵だった。同世代の女の隊員だ。鎖骨辺りまでのウェーブヘア。上がり気味の冷めた瞳。他の者と同じ黒の衣服。

「あら、お目覚め? 向こうで待ってたのよ。遅くてイラつくから様子見に来たの」

 言動に、生贄を見つけ出したかのような、生々しい喜びが漲っている。

「久しぶりね」

 知り合いらしいニュアンスだ。いつかのコンクールで一緒になったのだろうか。けれど覚えがない。

「……誰?」

「そう言うと思った。……引地ひきち礼実れみよ。音楽院で隣のクラスだったのに」

 彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、丸めたパンフレットのようなもので顔を殴りつけてきた。

「あなたを見てると、落選者だったどん底の自分に引き戻されるわ」

 一瞬間を空けて、痺れに似た痛みが頬を支配する。

「無様ね。その腕どうしたの?」

「折れたのよ」

 素っ気なく答えると、わざとらしい笑声が上がった。

「平然と言うのね。ピアノはやめたってこと?」

「ええ」

さかきルナが死んだから?」

「それもあるわ」

「あなたが追い詰めて殺したんだものね。責任は取るべきよ。榊さんの方が上手かったのに、あんなことになるなんて」

 再び殴打に遭い、おもむろに腕を掴まれた。

 記憶にない、かつての同級生。言葉さえ交わしていない相手に私怨を持たれていた。そのことに、少なからず動揺している。


 引きずられて行った先はステージだった。

 明かりのない舞台。

 そして、中央に佇むグランドピアノ。

「やめて! 放して!」

 声と4つの靴音が、誰もいないホールに反響する。

「嫌。絶対に逃がさない。せっかくのチャンスなのよ? 何もしないなんて勿体ないじゃない」

 力の限りに抵抗したが、手首の自由を奪われていて、簡単には振り払えそうにない。

「さあ、座って」

「なぜ殺さないの……?」

「これから知ることになるわ。早く座って」

 何をされるか想像がついた。

 椅子に押しつけられ、逃走を防ぐためのロープが巻かれる。

 前を見ると、鍵盤の蓋が開いていた。

「学内でね、あなたのこと見かけるたびに妄想してたの」

 彼女は接着剤らしきチューブを手にしている。

 冷たい汗が背中を伝った。

「あたしが選んでいい? できるだけ長く優越感を味わいたいから、1本ずついくわね」

 右手の人差し指に粘ついた液体が塗られ、処刑台へいざなうような導きで鍵盤に貼りつけられた。

 その重みで音が鳴る。悲観的な心境だ。自分は無調律のピアノと同じ。少しずれていて、どこか間違っていて、正しくなれない。

「悪く思わないで。全部あなたのせいよ。……殺してやりたいくらい目障りだった。退屈そうにトロフィー抱えて突っ立ってるあんたが!」

 怒りとともに叩きつけられた鍵盤蓋。

「ッ!!」

 叫ぶ声さえ失われるほどの、覚悟を絶する痛み。

 拷問器具と化したピアノの蓋が再び開かれた。

「……あ、……っ」指の関節が増えている。凄まじい力で破壊され、手折られた小枝より惨めな形になっていた。

 脈打つように、杭を打つように、全身に響き渡る激痛。

 汗を流し、肩で息をしているこちらの苦境を、冷酷に見下ろす引地。その相貌が輝いていた。

「表情がリアルだわ。意外と普通の人間なのね。コンクールのとき、人殺しみたいな暗い目をして弾いてたじゃない? あなたの無慈悲な音楽が怖かったわ」

 指が痛いのか、それとも腕が痛いのか。黙っていると気を失いそうだ。

「楽譜の、命令に従って、弾くだけよ……。音の長短、強弱、テンポ。すべて決まっているじゃない。……曲想も、情感も、必要ないわ」

 言うべきではないと、わかりきっていることを声に出したのは、これが初めてだった。

「どうして……。どうしてこんな奴が選ばれるのよ! どうしてあたしじゃないの!? 何がだめなのよぉッ!」

 悲痛な問いかけが静寂を引き裂く。

 彼女も自分も兵士と同じだ。競い合い、傷つけ合う音楽の戦場で深手を負った。

「……ヒキチさん。なぜやめたの?」

「否定されることに疲れたからよ。次こそは……、次回は必ずって、食事も摂らずに練習しても勝ち残れない。あんたみたいな奴がいるせいでッ!」

 引地の怒りが燃え上がり、処刑候補に右手の中指が選出された。

「みんな思ってたわよ。最初の音を弾いた瞬間、素晴らしいタイミングでスポットライトが落ちてきて、あなたのこと潰してくれたらいいのにって」

「本番前に集中していなかったようね」

 気に障ったのか、彼女は妖しく笑った。

「してやりたかったのよ。大したことないくせに勘違いして、高嶺の花みたいに振る舞ってたあんたに、こういうことッ!」

 刹那、受け入れ難い痛みで視界が白く歪んだ。

 引地は荒々しく声を振り立てて何かを叫び始めた。

 鍵盤と密着し、毒に侵されたように変色した人差し指が、接着剤の角で殴打されている。

 直視できず顔を背けた。

「いい気味だわ! 踏み台にされた人たちの苦しみがわかるでしょ?」

 続けて中指の先を貼りつけ、引地が閉じた蓋に身軽く腰かけた。

「……うッ!!」

 骨を折られる無秩序な感触。狂気的な痛みが遅れてやって来る。

 消灯しかけた頭の中で、何かが激しく明滅していた。


「あれぇ? 今、何か光らなかった?」

 引地はブランコから飛び降りるように着地し、こちらのポケットを覗き込む。

 上着に収めていたセルラだ。

「誰かしらね。助けてって言ってみたら?」

 耐えがたい激痛に翻弄され、汗とも涙ともつかない滴が首筋を滑っていく。鼓動が苦しいほどに乱打していて、座っていることさえ辛い。気を抜いた途端に椅子から崩れ落ちそうだ。

「これ、捨ててくるわ」

 彼女がステージを離れて間もなく、窓ガラスの割れる音が耳に届いた。セルラを外に投げ捨てたのだろう。通信手段が断たれてしまった。

 ここですべての指を蓋打ちにされ、殺されるのを待つしかないのか。

 震えながらそっと持ち上げてみたが、接着された指は自力で剥がせそうにない。

 武器も、すでに奪われていて見当たらなかった。

 諦めと同時に思い出す。

 ――影から貰ったナイフは……。

 幸い胸のポケットに挿さったままだ。

 目を遣ると、両手首を締める拘束が僅かに緩んでいた。

 ――わたしにできるかしら。

 ふと励ますように、影の軽やかなレスポンスが脳裏を過ぎる。

 きっとイエスだ。やるしかない。


 顔を上げると、引地が間近に立っていた。

「待ったでしょ? 大事な指がこんなことになって気が触れた?」

 彼女は悪さに取りつかれたように笑いながら、再びこちらの持ち物を探る。

「他に何か持ってないの?」

 鋭い視線が胸元の万年筆に移った。

 けれどそちらには興味を示さず、携帯していた手帳を抜き出す。

 彼女は無遠慮に中を覗き、呆れたように肩を落とした。

「暇そうね。カレンダーの代わり?」そして案の定、カバーに挟んでいた紙片に目を留めた。「何これ」

「わたしに宛てたものよ。返して」

 開いた紙を見て、彼女は怯えたように息を呑んだ。

「……『生きて苦しめ』?」

 ルナからの最後の手紙だ。

「だから、まだ死ぬわけにはいかないのよ!」

 緩くなっていた手首の紐を解き、左手で万年筆を握る。素早くキャップを外した。

 現れた刃でロープを切り、鍵盤と指の接着面を断つ。

 椅子から立ち上がるのと同時に、彼女の顎の裏に刃先を突き刺した。

 驚愕に引き攣る瞳。「……ァ、……ッ。あんたに、……だけは」

「ごめんなさい。わたしも敗けられないわ」

 呪いのように軸を伝う、不気味な血の螺旋。

 やがてこちらの肌に絡み、袖の中へと吸い込まれていく。

 彼女が倒れ込む寸前に、ナイフを引き抜いて背を向けた。

「……ピア、ニストに、……なるのが、……夢じゃ、なかった、……の?」

 いいえ、と心の中で答える。

 なぜか今、泣きたくて堪らないのに、悪夢の舞台が閉じても涙を流すことができない。

 ステージを降り、客席の間を歩いて扉へ向かった。

 不意に、楽譜で椅子を叩くような音が響き、死の寒熱が身体を突き抜けていく。

 ――懐かしいわ、この音……。コンクールの前、よく叱られていたから……。


 見える景色が黒みを帯び、自分の存在が、生命線の上をふらついているのがわかった。

 頼りなく掠れた線。

 振り返ると、真っ暗なステージに細く硝煙が上がっていた。


「わたしが見たいのは……。明日も明後日も楽しみな何かがあって、わたしの好きな人が、わたしのことをずっと憶えていてくれる。……そういう夢よ」



 影は罅割れたセルラを拾う。

 周囲に飛び散るガラス片。

 端末は仄のもので間違いない。

 核心が迫って来るような、正体不明の緊迫感。

 投げ捨てられた窓の位置はすぐに判明した。

 ――この建物か……。

 おそらく、学内行事に使うホールだ。

 中へ入ろうと足を向けたそのとき。視線の先で、扉がゆっくりと押し開けられた。

 何だか不自然な緩慢さだ。

 僅かに覗く女子の戦衣。

 現れた姿を見て、ぞっとする眩暈に襲われた。

「……書記」

 夥しい流血。苦しげに喘ぎ、前屈みになって、そのまま糸が切れたように座り込んだ。

 想像を踏みにじる惨さに射抜かれ、思考が氷化する。

 駆け寄って支えると、仄が僅かに顔を上げた。

「遅くなってごめん」

「わたしの方こそ……」今にも消え入りそうな声だ。

 殴打の痕が酷く、紫色の斑になった右手の指が、あらぬ方向へ折れ曲がっていた。実弾で左腕の上部を撃たれている。

「更さんと縣さんは?」

「ふたりとも負傷したけど、大丈夫って言ってたからまた会えるよ」

 携帯していた白いあいつを出して腕の銃創を覆った。

 それも瞬く間に赤く蝕まれていく。

 仄はあまり痛みを感じていない様子で、そのことを奇妙に思った。

「……包帯、いつも持ってるの?」

 頷いて言う。「前のシティの配給品だけどね」

「わたしなんかに使わなくていいのよ。助ける価値なんてないもの」

 晴れ渡る空のような清々しい笑顔。身に覚えのある自己評価。

 冷たい夜気の中で、自分だけが素の彼女に触れた気がした。


 生と死を天秤に掛けたくなるのはきっと、孤独がもたらす雨露うろのせいだ。

 今も前髪に挿さるヘアピン。あのとき額に触れた華奢な指が、今はもう、廃棄品のように壊れ果てている。

「影……」

 血溜まりに成り済ました魔法陣に呑み込まれるわけにはいかない。

「書記。ここを離れよう」

 抱え上げようとしたが、あまりに痛々しく、躊躇せざるを得なかった。

「連れて行ってくれるの……?」

「もちろん。置いてくわけないじゃん」

 数秒の沈黙を挟み、仄が何かを閃いたらしく、少しだけ微笑んだ。

「ケガのことは気にしなくていいから……。今夜だけは、わたしの他に異性がいないと思って、特別な感じに扱って貰えたら……」

 最後の願いみたいな言い方だ。

 微炭酸な余韻が胸に刺さる。

 ――女子が何万人いても、書記は別枠だけどね。


 そっと抱き上げた身体が軽く、戦衣の裾から黒ずんだ血が滴り落ちた。

 もう、何もかもが寄る辺を失っている。

 ――書記、死んだりしないよね……?

 希望的観測は甘くまろやかで、本当の痛みから目を逸らそうとする。

「俺がもっと早く」

「……影のせいじゃないわ」

 吹きつける爆風の余波で、千切れかけた仄の徽章帯がふわりと浮き上がった。

「やばいね。死傷者出たかも。……書記が喋らなくなったら俺も死んだりして」

「でも、死ぬって、宿命とか運命に強制連行されたみたいじゃない……? わたしもそうなるのかしら」

 虚ろな瞳を煌めかせ、仄はからかうように笑った。

 彼女の銃創から湧き出した血が、こちらの靴底にまで溜まっている。浸み出した命の断片。追いかけてくる足跡。振り返らなくてもその気配がわかった。

「影。……泣いてるの?」

「暗いところ怖いんだ。……なんてね。冗談だよ」

 彼女は頬に血痕を残したまま、あたたかいベッドで眠りに就く少女のように目を閉じている。

 夜の下、その命さえ繊細に揺れていて、血の赤と白い肌のコントラストがとても綺麗だ。



 遠く果てのない星空。

 きっと、幻想的な惑星のどこかを旅している。

 童話のプリンセスよりも労り深く抱えられていて、奇跡のように幸せだ。

 感覚を失くした指先まで、心地よい温度に包まれていてあたたかい。

 ようやく充電が完了した。

 叶うなら、影を抱き締めたい。

 生きることの代償のように、明日もまた傷つこうとしている影を、壊れたこの手で。


 ――楽しくて、いつもわたしが時間を忘れたけれど、今度はわたしが時間に置いて行かれるの……?

 本当はもっと、みんなでシティを冒険したい。

 影をこの世界に繋ぎ留めたい。

 何だか急に、俯いていた時間が惜しくなってしまった。

 ――過去のことは仕方ないわね。

 諦めて進んだ先に、やさしい色の明かりが灯っていると信じたい。

 もしも次に目が覚めたとしたら、嬉しくなるくらい自分らしく生きられる気がした。


 だから今、男の人の強い腕に抱かれて永遠の夢を見る。



                                   ep,7 end.


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