第6話「ボスクラスの影」
八日目の朝、森の様子がいつもと違った。
鳥が鳴いていない。
毎朝、目が覚めると遠くから聞こえていた鳥の声が、今日は完全に消えていた。風もない。木々が静止している。森全体が息を潜めているような、そんな重たい静けさだった。
俺は焚き火を消して、荷物をまとめた。
何かがいる。
直感ではなく、レコードが告げていた。昨日までと空気の質が違う。草の踏み荒らされ方、地面の凹み方、折れた枝の角度——全部が、今まで見てきた魔物とは桁違いの何かを示していた。
慎重に、音を立てずに歩く。
* * *
それを見たのは、森の奥深く、木々が開けた場所だった。
大きかった。
肩の高さが俺の倍以上ある。全身が黒い鱗に覆われていて、尻尾が太く長い。四本の足はどれも岩のように太くて、一歩踏み出すたびに地面が微かに沈む。頭は横に平たくて、目が金色に光っていた。
トカゲに似ていた。でも、赤トカゲとは何もかもが違う。赤トカゲが雑魚なら、あれは別の生き物だ。
鱗一枚一枚が分厚くて、光を鈍く反射している。首の付け根には古い傷跡がいくつかあった。長い年月を生き抜いてきた証だろう。尻尾の先端が地面を叩くたびに、枯れ葉が舞い上がった。
俺は木の陰に身を潜めた。
レコードが勝手に動き始める。体の大きさ、鱗の厚み、筋肉の付き方、動きの重心——全部が記録されていく。同時に、頭の中で計算が走った。
勝てない。
感情ではなく、純粋な判断だった。今の俺の棍術と罠では、あの硬さと質量を相手にするのは無理だ。棍で鱗を打っても、痛みすら与えられないかもしれない。罠を仕掛けても、あの体重に耐えられる蔓草はない。
引くべきだ。
そう判断した瞬間、金色の目がこちらを向いた。
* * *
動くな、と本能が言った。
俺は木の陰で息を止めた。体が勝手に気配を殺す。レコードが記録した、森の中での身の隠し方——木の色と同化するように体を沿わせて、呼吸を浅くする。
金色の目がゆっくりと動いた。
こちらには向いていない。少し方向がずれている。俺の存在に気づいているのか、いないのか、判断がつかない。十秒、二十秒——体が固まったまま、時間だけが過ぎていく。
やがて、巨大なトカゲは興味を失ったように首を戻した。
のそりと動いて、森の奥へ消えていく。地面の振動が、足裏から伝わってきた。それが感じられなくなるまで、俺はその場から動かなかった。
「……強い」
木の幹に背中を預けて、息を吐いた。
手が少し震えていた。戦うつもりもなかったのに、体が勝手に緊張していたらしい。あの目に見られた瞬間、背中に冷たいものが走った。殺気、とでも言うのか。質量だけじゃない、純粋な強さのようなものを感じた。
「あれは今の俺には無理だ」
はっきりとそう思った。
* * *
その日は早めに拠点へ戻った。
巨大なトカゲのことを頭の中で整理する。鱗の厚み、筋肉量、移動速度——レコードに記録された情報を一つずつ確認した。あれを倒すには、今の棍術では話にならない。もっと威力のある攻撃手段が必要だ。それか、鱗の隙間を狙える精度。あるいは、体力を削り続けるための持久戦。
どれも、今すぐにはできない。
鱗の隙間を狙うなら、目・耳の後ろ・顎の下・鱗が薄い腹部——レコードが記録した映像を頭の中で再生しながら、弱点になりそうな箇所をピックアップした。腹部は地面に近いから狙いにくい。目は小さくて動く。顎の下が一番現実的だが、あの頭の高さでは届くかどうかも怪しい。
「時間をかけるしかないな」
焚き火を眺めながら、肉を焼いた。今日は赤トカゲが一体と、毛玉が二体。いつも通りの収穫だ。
石の上で肉が焼けていく匂いが漂う。腹が鳴った。
巨大なトカゲのことを考えながら食べた。あいつはどんな味がするんだろう、と思った。あれだけ大きければ、肉の量も相当なはずだ。鱗の下の筋肉は、赤トカゲとは全然違う質感に見えた。レコードが記録した外見の情報から、肉質をある程度推測できる。おそらく、硬くて旨味が凝縮されている。
長時間煮込めば、極上のスープになるかもしれない。あの巨体なら骨も大きい。骨から出汁を取れば、今まで味わったことのない濃さになるはずだ。想像しただけで腹が鳴った。
「倒したら食う」
一人で決めた。
それが、あの巨大なトカゲを倒す理由になった。強くなりたいとか、この森の主を制覇したいとか、そういう気持ちは薄い。ただ、あいつの肉を食ってみたい。骨から出汁を取って、長時間煮込んで、今まで食べたことのない一杯を作りたい。それだけが、明確な動機だった。
ステータスを開く。
【ステータス】
名前 :神崎ルイ
年齢 :17歳
レベル:5
経験値:190/500
称号 :転生者
【ユニークスキル】
記録
【スキル】
棍術:Lv.3
解体:Lv.2
採取:Lv.2
罠設置:Lv.2
野営:Lv.1
調理:Lv.1
隠密:Lv.1
隠密スキルがインストールされていた。
今日、木の陰で気配を消したときに定着したらしい。説明文を開く。
『気配・足音・体臭を抑え、対象に存在を悟られにくくする技術。レベルが上がるほど、格上の相手にも通用するようになる』
「使える」
即断した。
あの巨大なトカゲに近づくには、隠密が必要だ。まずはこのスキルを鍛える。それから攻撃手段を増やす。準備が整ったとき、もう一度あいつの前に立つ。
肉を一切れ食べた。旨い。
でも、まだ上がある。
そう思うと、明日も頑張れる気がした。




