第46話「ヴェルサを出る日」
出発の朝は、早かった。
夜明け前に目が覚めた。窓を開けると潮の匂いが来た。港に灯りが点いている。漁師たちが早朝の準備をしている。海洋魔物を仕留めた翌日から、漁が再開されていた。船が動いている。
いい景色だな、と思った。口には出さなかった。
荷物をまとめた。調味料、食材、道具類。発酵食品の壺を布でくるんで、荷物の中央に入れた。揺らしてはいけない。丁寧に固定した。
廊下に出ると、ライルがすでに起きていた。
「早いな」と俺は言った。
「お前が出発前日に珍しくそわそわしていたから、今日は早いと思っていた」とライルが言った。
「そわそわはしていない」
「してたぞ。夕飯のとき、汁を三回おかわりしていた」
「旨かったからだ」
「普段はそんなにしない」とライルが言った。笑いが混じっていた。「まあ、わかるけどな。ヴェルサはいい街だった」
俺は否定しなかった。
* * *
港に降りると、マリネがいた。
荷物を背負っていた。大きい。明らかに多い。
「何が入っているんだ」とライルが言った。
「乾燥させた貝と、香草と、塩漬けの魚と、あとこっちの小さい袋は──」
「待て」とライルが止めた。「全部食材か」
「食材と、着替えと、ナイフと」
「食材の割合が多すぎる。荷物の重さで動きが悪くなる」
「でも旅に出たら手に入らないものがたくさんあって」
「全部は持っていけない。半分にしろ」
「半分っすか」
「半分だ」
マリネが悩み始めた。「どれを残すか……」
「乾燥貝は日持ちするから持っていっていいと思う」と俺は言った。「塩漬けの魚も問題ない。香草は旅先でも調達できる。着替えは絶対に必要だ。あとは自分で判断してみろ」
「ルイさんに整理してもらうとわかりやすいっすね」とマリネが言った。「ありがとうっす」
「荷物の選び方も旅の技術のうちだ。慣れていけばいいんだよ」
「はいっす」
マリネが荷物を開けて仕分けを始めた。ライルが横で「なんでお前が言うと素直に聞くんだ」と言った。
「さあな」
「俺が同じことを言っても同じ反応だったと思うが」
「そうかもしれないな」と俺は言った。「ただ、ライルが最初に言ったからマリネが考え始めた。俺はそこに乗っかっただけだ」
「そういう見方をするか」
「役割が分かれているんだろう。悪くない分かれ方だと思うけどな」
ライルが少し間を置いた。「……まあ、そうだな」と言った。
* * *
マリネの父親が来た。
昨夜も食事会にいた男だ。大きな体で、腕を組んで立っている。マリネがその前に立った。
「行ってくる」とマリネが言った。
「ああ」と父親が言った。
しばらく沈黙があった。マリネが何か言おうとして、止めた。父親も何も言わなかった。でも表情は柔らかかった。
俺は少し離れた場所に立って海を見ていた。
「旨かった」と俺は言った。
父親が俺を見た。
「この街の食材は、全部旨かった。また来る」
父親が少し目を細めた。「そうか」と言った。それだけだった。でも嫌な声ではなかった。
マリネが「父さん、また来るっすよ、あたし」と言った。
「知ってる」と父親が言った。「飯くらい作って待ってる」
マリネが「っ」と声にならない声を出した。泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。唇を結んで、頷いた。
* * *
ヴェルサの北門を出た。
街道が北に伸びていた。王都方面だ。道は石畳から土になった。空が広くなった。
三人で歩き始めた。
「マリネ、後悔はないか」とライルが言った。
「ないっすよ」とマリネが言った。「泣きそうにはなりましたけど。後悔と泣きそうなのは別っすから」
「そうだな。それはそうだ」
「ライルさんは、旅に出るとき後悔しましたか」
「俺は……もともと一人で旅していたから、あまりそういう感覚はなかったな。こいつと一緒になってからは、後悔する暇がない」
「なんでっすか」
「いつも何か起きているから。飯のことか、魔物のことか、どこかに移動することか。立ち止まる前に次が来る」
「それはルイさんのペースってことっすか」
「俺のペースというより」と俺は言った。「旅がそういうものなんだと思っているけどな」
「どういうことっすか」
「立ち止まりたいときに立ち止まって、動きたいときに動く。後悔する間があったら、その間に次のことを考えた方がいい。旨いものはどこにでもある。一か所に固まっていない」
マリネがしばらく黙った。歩きながら考えているようだった。
「それって、ヴェルサが嫌いとかじゃなくて、次も楽しみだから動けるってことっすか」
「そういうことだな」
「じゃああたしも、そういうふうに考えるっすよ。父さんのとこには帰れる。だから次が楽しみだって思っていいんすよね」
「それでいいんだと思うぞ」
マリネが「よし」と小さく言った。気合を入れ直すような声だった。
* * *
一里ほど歩いた頃に、俺は荷物の中の壺を確認した。
蓋の隙間から匂いを嗅いだ。まだ発酵は始まっていない。仕込んでから日が浅い。
「まだだな」と俺は言った。
「その壺っすか」とマリネが言った。「ヴェルサで仕込んだやつ」
「ああ。完成まで時間がかかる」
「どのくらいっすか」
「早くて一月。ちゃんと仕上げるなら三月は見た方がいい」
「三月後には、どこにいるんすかね、あたしたち」とマリネが言った。
「さあな」と俺は言った。「王都に向かっているかもしれないし、どこかで寄り道しているかもしれない。そのときになってみないとわからないけどな」
「それって不安じゃないっすか」
「不安にはならないな。どこにいても、旨いものはある。それだけわかっていれば十分だ」
「ルイさんはそれで本当に十分なんすね」とマリネが言った。感心とも呆れとも、あるいはその両方ともつかない顔だった。
「十分だよ」
ライルが「俺も最初は信じられなかったが、今はなんとなくわかる気がする」と言った。「こいつの隣にいると、次に何があるかわからないことが、怖くなくなってくる」
「なんでっすか」
「何があっても飯を食うから。それだけで、続いていく感じがするんだろうな」
マリネが「なんか、いいっすね、それ」と言った。
俺は前を向いて歩いた。
街道の先に山が見えた。越えた先に何があるかはわからない。旨いものがあることだけは、なんとなく確信していた。
壺の中の発酵食品が、旅をしながら完成していく。
それくらいの速さで、ちょうどいい。




