第44話「海の上の本気」
朝、港を出た。
船は昨日と同じ中型のものだ。今回は船頭ではなく、マリネが操る。「任せてくださいっす」と言った顔に迷いはなかった。
海は穏やかだった。空が広い。雲が少ない。風は北から来ていた。
「いい条件だな」とライルが言った。甲板に立って空を見上げながら言った。
「波が低い。動きやすい」
「船酔いも出なそうだ。今日は大丈夫そうな気がする」
「気持ちの問題じゃないと思うが」
「そういうことにしておいてくれ」
マリネが舵を握りながら「目的地まであと少しっすよ」と言った。「昨日、漁師から聞いた場所っす。ちょうど海流が変わる境目で、大型の魔物が縄張りを作りやすい場所らしいっす」
「海流の境目か」とライルが言った。
「餌になる魚が集まりやすいんすよ。だから大型が居着く。漁師はそういう場所をよく知ってるっすけど、今は近づけないって言ってました」
「詳しいな」
「生まれてからずっと港にいるんで。知らない方がおかしいっす」
俺は船首に立って海面を見ていた。索敵を広げた。
水の中は陸と違う。気配の伝わり方が変わる。陸なら地面を通じて感じるものが、水の中では拡散する。輪郭が掴みにくい。
それでも、何かいる感覚があった。
「深い場所にいるな」と俺は言った。「まだ水面には来ていない」
「餌を使うのか」とライルが言った。
「ここで撒く」
マリネが船の速度を落とした。
俺は昨日集めた魚の内臓を取り出した。桶に入れてある。血の匂いが強い。これを海に流す。
「いくぞ」
桶を傾けた。赤黒い液体が海面に広がった。
待った。
波の音。風の音。三人分の息遣い。
何も起きなかった。一分が過ぎた。二分が過ぎた。
「反応しないか」とライルが言った。
「もう少し待つ」
五分が過ぎた頃だった。
索敵が動いた。
深い場所から、何かが上がってきた。ゆっくりと、でも確実に。
「来る」と俺は言った。「真下から上がってくる。舵を右に切れ」
「わかったっす」とマリネが即座に動いた。
船が右に動いた。
水面が盛り上がった。
* * *
大きかった。
背中だけで船の幅と同じくらいある。暗い青灰色の甲殻に覆われている。頭部が平たい。目が左右に張り出している。口が縦に裂けていた。
水面を割って出てきたとき、波が来た。船が揺れた。
「でかいな」とライルが言った。声が低かった。
「聞いてた通りっすね」とマリネが言った。でも手は舵を離していなかった。
魔物が船を見た。目が動いた。それだけで間合いが読めた。頭がいい。衝動で動く魔物じゃない。
「ライル、左側に火を見せてくれ。注意を引く」
「わかった」
ライルが左舷に向けて火球を放った。派手な音が鳴った。魔物の頭が左に向いた。
俺は右側から動いた。
甲板の端まで走った。船首に飛び移るように跳んだ。魔物の側面に回る。甲殻の継ぎ目を探した。首と胴体の間。鱗の薄い部分がある。
棒を叩き込んだ。
硬かった。通らなかった。
魔物が反応した。頭がこちらに向いた。
退いた。甲板に戻った。
「甲殻が厚い。継ぎ目でも通りにくい」
「どこを狙う」とライルが言った。
「目だ。目の周りだけ甲殻がない」
「小さいぞ、あの目」
「狙えるか」
「やってみる」
ライルが両手を上げた。水魔法だ。
海面から水が上がった。細い水の柱が二本、魔物の目に向かって飛んだ。水圧を使った攻撃だ。一本は外れた。一本が当たった。
魔物が動きを止めた。一瞬だけだが、確実に止まった。
「今だ」
俺は再び前に出た。
今度は魔法を使った。
右手と左手、両方から火を出した。それぞれ別の方向に、別の強さで。ライルから記録した動きをそのまま再現するのではなく、今自分に必要な動きに変えて出した。右の火は囮だ。左の火を目に向けた。
当たった。
魔物が上半身を水面から上げた。水しぶきが飛んだ。腹側が見えた。
「マリネ、今だ」と俺は言った。
マリネが舵を離した。腰のナイフを抜いた。船の端に走った。
投げた。
腹の中心に刺さった。
魔物が動きを止めた。
* * *
完全に仕留めるまで、さらに時間がかかった。
ライルの水魔法で動きを縛り、俺が目への攻撃を繰り返し、マリネが投擲で腹を削った。
最後は俺が目の奥まで棒を入れた。
魔物が沈んだ。
波が広がった。
しばらく誰も喋らなかった。
ライルが甲板に手をついた。「疲れた」と言った。
「魔力を使いすぎたか」
「そうでもないが、集中が切れた。緊張してたんだと思う」
「今更か」
「今更だ。終わってから来る。お前はそういうのないのか」
「特にない」
「羨ましいな、それは」とライルが言った。笑いが混じっていた。「こっちは倒した後も心臓がうるさい」
マリネが舵を戻しながら「あたしもっすよ」と言った。「手が震えてるっす。でも、やれましたね」
「やれたな」と俺は言った。
「ルイさんの魔法、前と全然違いましたよ」とマリネが言った。「両手で別々に出してたっすよね」
「そうだ」
「前はそんなことしてなかったっす」
「できるようになった」
ライルが顔を上げた。「片方ずつなら前の街でも見た。でも同時に別の動きをさせるのは初めてだな。いつからできる」
「今日確かめた」
「ぶっつけかよ」とライルが言った。「そういうところが普通じゃないんだよなあ」
「通じれば十分だろ」
「通じればいいって話でもないが……まあ通じたから文句は言わないよ」
魔物が水面に浮いていた。大きい。船の横に並ぶと改めてその大きさがわかった。
「引いて帰れるか」とマリネに聞いた。
「縄で括れば引けるっすよ。ゆっくり帰ることになるっすけど」
「帰りは時間がかかっていい。素材を持ち帰りたい」
「やっぱりそっちの話になるっすね」とマリネが言った。呆れていたが、嬉しそうでもあった。
「食える部位がある。確認したい」
「倒した直後でも、そこは揺るがないっすね、ルイさん」
「もちろんだ」
ライルが「それが強みだと思うよ、ある意味」と言った。「何があっても次のことを考えている。引きずらない」
「引きずっても変わらないだろ」
「そうなんだが、なかなかできないことだ」
俺はそれ以上言わなかった。
縄を出した。マリネと一緒に魔物を括った。船がゆっくりと港に向かって動き始めた。
空が明るかった。風が来ていた。
腹が減っていた。




