第40話「イカと夜と、三人分の飯」
イカが入ったのは夕方の直売だった。
胴体が長く、足が十本。透明感のある白い体に、細かい紋様が走っていた。生きているものは色が変わる。桶の中で、灰色と白の間を行き来していた。
「イカっす」とマリネが言った。また説明になっていなかった。
「わかってる」
「大きいっすよね、これ」
「沖の方から来たのか」
「そうっす。この大きさのイカは深い場所にいます。たまにしか取れない」
俺は一杯手に取った。透き通った体越しに、内側が見えた。新鮮だ。触手の吸盤がしっかり吸い付いてくる。
「今夜、これで飯を作ろうか」
「三人分っすか」とマリネが聞いた。
「三人分だ」
マリネが「やったっす」と言った。小声だった。でも聞こえた。
* * *
宿の厨房を借りた。
宿の親父に話をしたのはライルだ。交渉が得意な方がやればいい。結果、夕飯の時間帯に一刻だけ使わせてもらえることになった。代わりに宿の親父と女将にも食わせることになった。
「増えたな」とライルが言った。
「二人増えただけだ」
「食わせる人数が増えると手間が増えるだろ」
「素材が十分あれば変わらない」
マリネが「あたしも手伝いますよ」と言った。
「イカの下処理を頼む」
「どうやるんすか」
「胴体から足を引き抜く。そのとき内臓が一緒に出てくるから取り除く。軟骨も引き抜く。胴体の中を水で洗う。ここまでやったことはあるか」
「やったことはあります。見てたので」
「見てただけか」
「……すみません」
「今日やる。やりながら覚えろ」
「はいっ」
* * *
マリネが作業を始めた。
最初は手つきが怖ず怖ずとしていた。イカが動く。墨が出る。マリネが「わっ」と声を上げた。
「墨が飛ぶから気をつけろ」
「今さらっすよ」
「言わなかった俺の落ち度だ」
マリネが少し驚いた顔をした。謝ると思っていなかったのかもしれない。
「墨袋は別に取っておけ。後で使う」
「墨を使うんすか」
「ああ」
「どうやって」
「見ていろ」
マリネが作業を再開した。今度は慎重に、でも確実に動いていた。二杯目は手際がよくなった。三杯目はほとんど俺と変わらない速さになった。
「飲み込みが早いな」と俺は言った。
マリネが「褒めてっすか」と言った。
「褒めている」
「やったっ」
ライルが「さっきより素直に褒めるようになったな」と俺に言った。
「そうか」
「マリネのペースに慣れてきたんじゃないか」
「そうかもしれない」
ライルが「珍しいな」と言った。特に意味はない言い方だった。でも嫌な感じではなかった。
* * *
三種類の料理を作った。
一つ目は、胴体を輪切りにして油で炒めたものだ。強火で素早く仕上げる。加熱しすぎると硬くなる。香草と塩だけで調味した。シンプルにした。素材の旨みを直接出す。
二つ目は、足をまとめて焼いたものだ。直火で焼く。ライルに火の強さを任せた。焦げ目がつく手前で止める。外側が少し色づいて、中はしっとりした状態になる。焼いた香ばしさが出汁の甘みを引き立てる。
三つ目が墨だった。
鍋に少量の油を敷いた。墨袋から墨を出した。真っ黒い液体だ。油と合わせて、香草を加えた。軽く熱を入れてから水を足す。煮詰める。黒いソースになった。
「これを何に使うんすか」とマリネが言った。
「焼いたイカに添える」
「黒いっすよ」
「色と旨みは別だ」
「食べても大丈夫っすか」
「大丈夫だ。魚の墨は食える」
マリネが恐る恐るという顔をしていた。ライルも少し怪訝そうだった。
料理が揃った。
厨房から出て、宿の食堂に並べた。宿の親父と女将がすでに席に座っていた。
* * *
五人で食った。
まず炒め物から。
ライルが一口食った。「旨い。火の通し方がちょうどいいな。少し前に食ったイカより全然違う」
「食堂のやつは火が通りすぎていたんだ」
「気づいてたのか」
「食ったからな」
宿の女将が「これはどこで習ったんですか」と聞いた。
「習っていない」
「独学で」
「見て、食って、考えた」
女将が「すごいものですね」と言った。感心した声だった。
次に焼いたものを食った。
マリネが「こっちの方が好きっすかも」と言った。「焦げ目の香りがいいっす」
「どちらが好みかは人によるけどな」
「ルイさんはどっちっすか」
「どちらも好きだ。気分で変わる」
「今日はどっちっすか」
少し考えた。「焼いた方だ」
「一緒っすよ」とマリネが言った。嬉しそうだった。
最後に墨のソースを使ったものを出した。
全員が少し顔を見合わせた。
宿の親父が最初に食った。黙って噛んだ。少し間があった。「……旨い」と言った。
それを聞いて全員が食い始めた。
旨みが濃かった。墨自体に旨みがある。それが焼いたイカの旨みと合わさって、全体を押し上げた。黒い見た目の割に、味は丸かった。
「なんでこんなに旨いんすか」とマリネが言った。
「墨に旨みの成分が入っている。普通は捨てる部位だが、使い方がある」
「捨ててたっす。一生捨ててたっす」
「今日から変われば良い」
「そうっすね」
* * *
食い終わった後、宿の親父たちは引っ込んだ。食堂に三人だけになった。
ライルが「マリネはなんで冒険者になったんだ」と聞いた。唐突だったが、自然な流れだった。
「漁師じゃ行けない場所に行きたかったんすよ」とマリネが言った。
「海の外か」
「そうっす。ヴェルサって旨いものの街なんですけど、あたしが知ってるのってここの食材だけなんすよ。他の土地に何があるのか、全然知らなくて」
「それで冒険者に」
「食いに行くために戦えるようになろうと思ったんす。変っすかね」
「変じゃない」と俺は言った。
マリネが俺を見た。
「ルイさんも同じ理由っすか」
「似ている」
「旨いものを食うために旅してるんすか」
「そうだ」
「強くなりたいとか、有名になりたいとかじゃないんすか」
「食い物のために強さは必要だな」
「本当に食い物のためだけっすか」
「食いたい物だけだ」
マリネがしばらく黙っていた。
「なんでそんなに本気なんすか」
今度は俺が少し間を置いた。
「旨いものがあるから」
「それだけっすか」
「それだけだ」
マリネが何か言いかけた。止めた。また言いかけた。また止めた。
それから「わかったっす」と言った。
言葉にはならない何かを掴んだような顔をしていた。何かが腑に落ちたのか、それとも全然わからなかったのか、俺には判断できなかった。
どちらでもよかった。
ライルが「俺は最初に飯を食ったときに納得したよ」と言った。「こいつの飯を食ったら、なんとなくわかる気がした」
「あたしもっす」とマリネが言った。「今日の飯、食ってて理由はわからないけど、なんかわかった気がするっす」
俺は空になった皿を見ていた。
三人分の飯を作ったのは初めてだった。二人分より少し手間がかかった。でも悪くなかった。三人で食う飯は、二人分より何かが多い気がした。
それが何かは、うまく言えない。
言わなくていいと思った。




