第37話「タコの話」
翌朝、港でタコが上がった。
大きかった。広げると両腕より長い。足が八本、吸盤が並んでいる。暗褐色の体が、桶の中でゆっくりと動いていた。
「タコっす」とマリネが言った。説明になっていなかった。
「見ればわかる」
「この大きさのタコ、珍しいんすよ。沖の深いとこにいる種類なんで」
「いつもより旨みが濃いか」
「そうっす。深い場所のタコは身が締まってて、旨みが強いって漁師たちが言います」
俺はタコを触った。吸盤が腕に吸い付いた。身の張りがある。鮮度がいい。
「買う」
「競りで取れますよ、たぶん。あたしが声かけます」
マリネが競り人のほうへ走っていった。ライルが隣に来た。
「タコ、食えるのか」とライルが言った。
「旨いぞ」
「どうやって食うんだ」
「まず下処理が要るな」
「手間がかかるのか」
「かかる。だから価値がある」
ライルが「お前はそういう考え方をするよな」と言った。感心とも呆れともつかない声だった。
* * *
タコを買った。
マリネの顔で、競りの後に漁師から直接譲ってもらった。銀貨一枚だった。
港の作業場に戻った。三人で作業台を囲んだ。
「まず叩く」と俺は言った。
「叩く」とマリネが繰り返した。
「身を柔らかくするために、岩や台に何度も叩きつける。タコは叩かないと硬くて食えない」
「知ってます。漁師の親父がよくやってるの見てました」
「見てただけか」
「……やったことはないっす」
「やれ」
マリネがタコの足を掴んだ。持ち上げて、作業台に叩きつけた。
ぺた、と間の抜けた音がした。
「もっと力を入れる」
「こうすか」
今度はしっかり叩きつけた。ばん、と音が変わった。
「それを繰り返す。全体に均一に叩く」
「わかったっす」
マリネが叩き始めた。リズムよく叩いている。悪くない。
俺は並行して塩を用意した。タコを塩で揉む工程が要る。ぬめりを取るためだ。
「ルイさん、何してるんすか」とマリネが叩きながら聞いた。
「塩揉みの準備だ。叩いた後に塩で揉む。ぬめりが取れて、臭みも消える」
「そんな手順があるんすか」
「タコの処理はいくつか工程がある」
「全部覚えてるんすか」
「覚えている」
マリネが「すごいっすね」と言った。叩く手を止めずに言った。作業しながら感心する器用さがある。
ライルが作業台の横に寄りかかって見ていた。
「俺はやらなくていいのか」とライルが言った。
「水を出す準備をしてくれ。後で茹でる」
「茹でるのか」
「ああ、タコは茹でると旨みが引き出せる。生で食う方法もあるが、今回は茹でる」
「何か入れるか」
「梅か酢があればいい。なければ塩だけでもいい」
「梅はないな」とライルが言った。「酢なら持ってるか」と俺に聞いた。
「少しならある」
「じゃあ酢を使えばいいな」
ライルが鍋の準備を始めた。
マリネが叩くのを止めた。「これくらいですか」
タコを受け取って触った。身がだいぶ柔らかくなっている。合格だ。
「十分だ」
「あたしが役に立ちましたか」
「そうだな、役に立った」
マリネが「やったっす」と言った。本気で喜んでいた。
* * *
塩揉みをした。
ぬめりが出てくる。水で流す。もう一度揉む。三回繰り返した。タコの色が少し変わった。透明感が出た。
「色が変わった」とライルが言った。
「ぬめりが取れた証拠だ」
「なんで色が変わるんだ」
「ぬめりの成分が表面を覆っていた。それが取れたから下の色が出た」
「お前、どこでそういうことを覚えたんだ」
少し間を置いた。
「昔から食い物に関心があったんだ」
ライルがそれ以上聞かなかった。マリネが「そういえばルイさんっていつから料理してるんすか」と聞いた。
「物心ついた頃から」
「家族に教わったんすか」
「違う。見て覚えた」
「見るだけで覚えられるんすか」
「覚えられる」
マリネが「やっぱりすごいっすね」と言った。ライルが「そういうやつなんだ」と言った。二人の会話が合流していた。
俺は鍋の水が沸くのを待った。
* * *
沸騰した湯にタコを入れた。
色が変わった。暗褐色が、赤に変わっていく。端から色が走る。あっという間に全体が赤くなった。
「色が変わったっす」とマリネが言った。
「茹でると変わる」
「なんで赤くなるんすか」
「タコの色素が熱で変性する。赤い成分が出てくる」
「へえ」
「珍しいか」
「毎日見てるはずなんすけど、改めて言われると不思議っすね」
茹で時間を見た。大きいタコだ。火が通りすぎると硬くなる。竹串を刺して確認した。すっと入った。
「よし、上げる」
タコを引き上げた。湯気が立った。旨そうな匂いが広がった。
切った。足を一本ずつ切り分ける。断面が白い。身が締まっているが適度な弾力がある。
「食ってみろ」とマリネに渡した。
マリネが一切れ口に入れた。
少し間があった。
「旨いっす」
「どこが旨いか言ってみろ」
「噛むたびに旨みが出てくる感じっす。それと、塩気がちょうどいい」
「塩揉みした塩が少し残っている。それが調味になっている」
「え、それって狙ってたんすか」
「もちろん、狙っていた」
マリネが「すごい」と言った。今日何回目か分からなかった。
ライルも食った。「確かに旨い。シンプルだな」
「タコは素材が旨ければシンプルが一番だ。余計なものを足すと邪魔になる」
「この街の素材はどうだ」
「全体的にいいな」
「じゃあしばらくシンプルな料理が続くな」
「そうだな」
ライルが「それはそれで楽しみだ」と言った。ドラスに来た頃とは違う言い方だった。
* * *
三人でタコを食い終わった。
マリネが「あたし、今日一日でもう三回くらい旨いもん食ったっす」と言った。
「それだけか」と俺は言った。
「え」
「この街にはまだ色々ある」
「まだあるんすか」
「昼の市場に甲殻類が出ていた。夕方の漁師の直売で別の魚が来るはずだ。明日の朝も競りがある」
マリネが少し固まった。
「……ルイさんって、一日中食い物のことしか考えてないんすか」
「他に考えることがあるか」
「あるだろ」とライルが言った。
「たとえば」
「宿代とか。飯代とか。依頼をどうするかとか」
「全部飯と繋がっている」
「どうやって」
「金がなければ食えない。依頼をこなせば金になる。飯のために依頼をこなす」
ライルが「まあ、筋は通ってるな」と言った。諦めたような声だった。
マリネが「なんかあたし、すごい人たちに混ざったっすね」と言った。
「そうか」
「すごいっすよ、ルイさん」
「そうか」
「……ルイさん、あたしのこと眼中にないっすよね」
「眼中にはある」
「本当すか」
「邪魔しなかっただろ、今日」
マリネが少し間を置いた。それから小さく笑った。「確かにっす」
港の向こうで漁船が戻ってくるのが見えた。夕方の漁だ。
俺は立ち上がった。
「行くか」
「どこっすか」
「直売を見に行く」
マリネが「待ってくださいっす」と言いながら立ち上がった。ライルが「また増えた気がする、食べ物が」と言った。




