第36話「貝と火と、負けた女」
マリネが「地元の貝料理を食わせてやる」と言い出したのは、昼の競りが終わった後だった。
「自信があるのか」と俺は聞いた。
「あります」とマリネが言った。迷いのない顔だった。「ヴェルサ生まれのあたしが作る貝料理っす。よそ者には負けません」
ライルが横で「よそ者って言うな」と言った。
「あ、すみません。でも意味は変わらないっす」
「変わらないのかよ」
俺は競りで並んでいた貝を見ていた。丸みのある二枚貝だ。殻が厚い。さっき触ったとき、ずっしりとした重みがあった。中身が詰まっている。
「その貝で作るのか」
「ハマリ貝っす。ヴェルサで一番旨い貝です。これで作ります」
「いくつ使う」
「十個もあれば十分っす。あたし、腕には自信があるんで」
ライルが俺を見た。俺は何も言わなかった。
* * *
マリネが案内したのは港に近い広場だった。
屋外の炉が置いてある場所で、住民が自由に使える場所らしい。薪が積んである。鍋もある。マリネは慣れた手つきで火を起こし始めた。
ライルが「手伝うか」と言いかけた。
俺が目で止めた。ライルが黙った。
マリネ自身の料理を見る。口を出す前に見る。それが先だ。
マリネは手際よく動いていた。貝を水で洗う。鍋に水を張る。貝を入れて火にかける。香草を一掴み入れた。塩を振った。蓋をした。
悪くない所作だった。慣れている。ここまでは。
しばらくして蓋を開けた。貝が開いている。汁が白く濁っていた。香草の香りが立っている。マリネが椀に盛った。
「どうぞ」
俺は受け取った。
汁を一口飲んだ。
貝の出汁が出ている。旨みはある。香草が利いている。塩加減は悪くない。
ただ。
貝の身を食った。
硬かった。
加熱しすぎている。貝は火が通りすぎると身が締まって硬くなる。旨みも逃げる。開いた瞬間に火から下ろすべきだった。あと三十秒早ければ、身がもっと柔らかく、汁に旨みが残っていた。
椀を置いた。
「どうすか」とマリネが聞いた。
「汁は旨い」
マリネの顔が明るくなった。
「身は」
少し間を置いた。
「硬いな」
マリネの顔が止まった。
「……え」
「貝が開いた後、火を止めるのが遅かった。三十秒で身の食感が変わる」
「三十秒」
「貝の旨みの半分は汁に逃げた。残りの半分は熱で飛んでいるな」
マリネがしばらく黙っていた。ライルが少し遠くに視線をずらした。
「じゃあ」とマリネが言った。静かな声だった。「ルイさんが作ったら、どうなるんすか」
「やってみるか」
* * *
貝はまだあった。
マリネが競りで余分に買っていたものだ。七個ある。
鍋に張る水の量を変えた。マリネより少なくした。貝から水分が出るので、最初から多く入れる必要はない。
火はライルに頼んだ。
「強さを調整できるか」
「どのくらいだ」
「最初は強火。貝が動き始めたら弱火に落としてくれ」
「動き始めたら、か」
「貝が熱を感じると殻を動かそうとする。そこが切り替えのタイミングだ」
マリネが「そんな見方するんすか」と小声で言った。
鍋を見ていた。
水が沸いた。貝が熱を受け始めた。殻がわずかに動いた。
「今だ」
ライルが火を弱めた。ゆっくりと熱を通す。香草は入れない。まず素材だけで見る。
一個、口が開いた。
すぐに取り出した。残りも次々と開いていく。開いた順に取り出す。全部で一分かかったかどうかだ。
開いた貝を一個、マリネに渡した。
「食ってみろ」
マリネが身を口に入れた。
少し間があった。
長い間があった。
「……っ」
マリネが何か言おうとして、言葉が出ていなかった。
「柔らかい」とようやく言った。「全然違う。同じ貝なのに」
「火の入れ方だけで変わるんだ」
「旨みも、濃い。さっきより全然濃い」
「汁に逃げていない分だ」
マリネがもう一度身を噛んだ。じっと考えるような顔をしていた。
「負けた」
静かな声だった。
「地元の貝で、地元の料理で、よそから来た人に負けた」
「料理の話だ」とライルが言った。フォローのつもりらしかった。
「料理の話っす」とマリネが言った。「だから悔しいんすよ」
俺は汁を飲んだ。
貝の出汁が濃かった。旨みが全部汁に残っている。シンプルでいい。この街の貝はこれだけで十分旨い。素材がいいと余計なことをしなくていい。
「ルイさん」とマリネが言った。
「何だ」
「一緒に旅したいっす」
ライルが「早いな」と言った。
俺はマリネを見た。真剣な顔だった。先ほどの悔しそうな顔とは違う。何かを決めた顔だ。
「理由は」
「もっと色々、食いたいっす。ルイさんと一緒に食ったら、あたしが知らないものが見えそうで」
「料理は教えないぞ」
「教わろうとは思ってないっす。見てたいんす」
俺は少し考えた。
「邪魔しないなら好きにしろ」
「っ、やったっ」
マリネが小さく拳を握った。ライルが「増えた」と言った。今度は諦めたような声だった。
* * *
夕方、三人で港を歩いた。
マリネが色々と教えてくれた。どの船のどの漁師が何を獲るか。昼と夕方で市場に並ぶものが変わること。ヴェルサには年に一度、海神祭という料理の祭りがあること。
「今年はもう終わったっす。一月前に」
「そうか」
「見たかったっすか」
「次に来たときに見たいな」
マリネが「また来るんすか」と言った。少し嬉しそうだった。
「旨いものがある街には戻る」
「じゃあ絶対また来ますね。ヴェルサ、旨いもんだらけっすから」
ライルが「言い切るな」と言った。
「事実っすよ」とマリネが言った。「ルイさんもそう思いますよね」
「まだ全部食ってない」と俺は言った。
「じゃあ全部食ってから判断してください。絶対そう言いますから」
俺は答えなかった。
港の向こうに、日が沈んでいた。海が橙に染まっている。波が光を細かく砕いていた。
マリネが「きれいっすね」と言った。当たり前のように言った。毎日見ている景色だからだろう。
俺はその景色をレコードに入れた。
夕陽と、波と、三人分の足音。
この街はまだ始まったばかりだ。




