第35話「港の朝と、最初の一皿」
夜明け前に目が覚めた。
窓の外がまだ暗い。でも港の方角から声が聞こえていた。人が動いている。荷物を運ぶ音、水が跳ねる音、誰かが何かを叫んでいる声。
起きた。
廊下に出るとライルの部屋はまだ静かだった。声をかけようとして、止めた。一人で行く。
* * *
港は生きていた。
暗い中に灯りが点在している。松明と、油の灯りと、船の灯台。その光の中を、人が動き回っていた。
船から荷物が下ろされていた。木箱、籠、桶。水が滴っている。中身が動いている。生きたまま運んでいるものもあった。
匂いが、濃かった。
潮と、魚の生臭さと、海藻の青い匂い。内臓の匂い。血の匂い。全部混ざって、港全体がその匂いで満ちていた。慣れていない人間には刺激が強すぎる匂いだろう。
俺には旨い匂いだった。
競りが始まっていた。
石畳の広場に木箱が並んでいる。競り人が声を上げる。買い手が手を上げる。あっという間に値段が決まって、次の箱に移る。テンポが速い。
俺は端に立って見ていた。
並んでいるものを確認した。白身魚が数種類。背の青い魚が一種。貝が複数。甲殻類が一箱。海藻が束になって積んである。見たことのない形のものもあった。赤黒い、平たい生き物だ。
気になった。
* * *
「何見てるんすか」
急に声がした。
振り向くと、女がいた。
年は俺より下に見えた。日に焼けた肌に、海風で傷んだ髪。服は作業着だ。腰に短剣を下げている。目が大きくて、人懐っこい顔をしている。今の声の主はこいつだろう。
「競り」と俺は言った。
「冒険者っすよね。見た目からして」
「そうだ」
「競りに来る冒険者、珍しいっすよ。普通は食堂か市場で買うんで」
「ここが一番早い」
女が少し首を傾げた。「早いのが目的すか」
「鮮度が落ちる前に見たい」
「見るだけすか」
「見て、触って、嗅いで、食う」
女がぱちぱちと目を瞬いた。
「食うとこまでセットなんすか」
「当たり前だ」
少し間があった。女がにやりとした。
「あたし、マリネっていいます。漁師の娘です。冒険者もやってます」
「神崎ルイだ」
「ルイさんって呼んでいいすか」
「好きにしろ」
* * *
マリネが競りの解説を始めた。
求めてはいなかったが、止めなかった。有益だったからだ。
「あの赤黒いやつは何だ」と俺は聞いた。
「イソバンですよ。岩に張り付く奴っす。塩茹でにすると旨いんすけど、捌くのが面倒で敬遠されがちで」
「どう捌くんだ?」
「岩みたいな殻を割って、中の身を出すんすよ。殻が硬いんで力がいるっす」
「身はどんな味だ?」
「磯の香りがすごくて、噛むと旨みが来ます。好き嫌いが分かれるやつっすね」
俺は競りの様子を見た。イソバンは値段が伸びていなかった。捌く手間を嫌がる買い手が多いらしい。
「買えるな」
「競りに参加するんすか」と言うのと、マリネが手を上げるのが同時だった。
「うちの親父と顔なじみなんで、競りの後に交渉するっす。いくつかなら安く分けてもらえますよ」
「頼めるか」
「いいっすよ。その代わり」とマリネが言った。目が光っていた。「捌いて、食わせてください」
俺は少し考えた。
「捌き方は自分でやる」
「見ててもいいすか」
「邪魔しなければ良いぞ」
「しませんっ」
* * *
港の端に作業場があった。
マリネの父親が貸してくれた場所だ。作業台と、水が引いてある。火を起こせる竈もある。
イソバンを三個並べた。
殻は硬かった。解体ナイフの背で叩いてから、刃を隙間に入れる。こじ開ける。中に暗赤色の身が入っていた。膜を取り除く。水で洗う。
匂いを嗅いだ。強い磯の香りだ。生で食えるか確認した。鮮度は問題ない。
まず生で食った。
磯の香りが鼻に抜けた。噛んだ瞬間、旨みが来た。濃い。塩気が自然に乗っている。後味に甘みがある。
「どうすか」とマリネが言った。隣でじっと見ていた。
「旨いな」
「でしょ! でしょ! あたしずっとそう言ってたんすよ! 地元の人でも苦手な人多くて」
「加熱したらどうなる」
「あ、塩茹でにすると締まります。食感が変わるんすよ」
「やってみる」
鍋に水を入れた。ライルがいないので自分で火を起こした。沸かす間に、残りのイソバンをひとつ生のまま塩だけで食った。もうひとつは薄く切って並べた。
茹でたものを食った。
身が締まった。磯の香りは少し飛んだ。その分、旨みが濃くなった感じがした。噛み応えがある。塩茹でで十分旨い。ただ、生の方が香りが豊かだ。
「どっちが好きすか」とマリネが言った。
「どちらも旨い。用途が違う」
「用途」
「生は単体で食う。茹でたものは他と合わせる。出汁が出る」
マリネが「なるほど」と言った。感心した顔だった。
「そういう見方、したことなかったっす。旨いか旨くないかしか考えてなかった」
「全部につながる」
「全部、すか」
「素材の性質を知っていれば、合わせるものが見えてくる」
マリネがじっと俺を見ていた。何か言いたそうな顔だったが、黙っていた。
朝日が上がってきた。作業場の窓から光が差し込んだ。港の声が大きくなった。一日が始まる音だ。
俺は残った身を全部確認した。全部旨かった。
* * *
作業場を出ると、ライルが港の入り口に立っていた。
「早いな」と俺は言った。
「お前がいなかったから来た」
「一人で来たからな」
「わかってる。で、何か見つけたか」
俺はイソバンの残りを一個取り出した。茹でた身だ。
ライルが口をつけた。少し間があった。
「……旨い。何これ」
「イソバンというらしい」
「港の女の人が教えてくれたのか」とライルが隣のマリネを見た。
「あたしはマリネっす。ルイさんに食わせてもらいました」
「食わせてもらった、ね」ライルが俺を見た。「お前が人に何かを食わせるのか」
「邪魔しなかったからな」
「そういうことか」
マリネが「ルイさんってああいう人なんすか」とライルに聞いた。
「ああいう人だ」とライルが言った。
「なんか、すごいっすね」
「すぐ慣れる」
俺は二人の会話を聞きながら、港をもう一度見た。
昼の競りでも別の魚が並ぶと聞いた。夕方には漁師が直接売りに来ることもあると聞いた。この街には、まだ食っていないものが山ほどある。
「今日の昼、また来る」と俺は言った。
「競りに」とマリネが言った。
「ああ」
「一緒に来ていいすか」
「邪魔しなければな」
マリネが「やったっす」と小声で言った。ライルが「増えたな」と言った。
俺は港の奥を見ていた。
まだ名前も知らない魚が、船の中で跳ねている。




