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腹ペコ旅団、異世界を往く〜転生者は今日も腹を空かせる〜  作者: 大輔


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第34話「ヴェルサが見えた」

 五日目の昼過ぎ、坂の上に出た。


 街道が緩やかに上って、頂上で視界が開ける地形だった。前を歩いていたライルが急に足を止めた。


「見えた」


 俺は隣に並んだ。


   *   *   *


 海だった。


 地平線が、青い。


 空の青とは違う。もっと深くて、重くて、光を含んでいる。陸の端が切れた先に、それが広がっていた。遠くに白い波が光っている。白壁の建物が坂の下に連なって、その先に港が見えた。漁船が何艘か停まっている。


 風が来た。


 今度は誰が嗅いでも分かる匂いだった。塩と、潮と、生き物の匂いが全部混ざっている。乾いた空気に湿気が混じって、重くなって、それが風に乗ってくる。


 声が出なかった。


 俺はしばらくそのまま立っていた。


 前世でも海は見ていた。日本の海だ。夏の混雑した海水浴場でも、冬の荒れた日本海でも、海はいつだって海だった。あの感覚をもう一度見ることはないと思っていた。


 この世界の海は、前世の海とは違う。でも、同じだった。


 地の果てに水がある。それだけで、何かが胸の奥を動かす。


 レコードが記録を始めた。止めなかった。この感覚ごと、全部入れておく。


「お前、今すごい顔してるぞ」


 ライルが言った。


「そうか」


「見たことない顔だ」


 俺は答えなかった。ライルも続けなかった。


 二人で少しの間、坂の上から海を見ていた。


   *   *   *


 ヴェルサに入ったのは夕方だった。


 街は白かった。石灰を塗った白壁の建物が、坂の上から港まで続いている。石畳の道が細く入り組んでいて、坂の途中に小さな広場がいくつかある。花が咲いていた。赤と橙の、鮮やかな色だ。ドラスとは全然違う。


 人が多かった。


 様々な国の人間がいる。東の砂漠の国風の服を着た商人、北の方角から来たらしい大柄な男たち、肌が日に焼けた港の作業員。聞いたことのない言葉がいくつか混じっている。交易国とはこういうものか。


 匂いがした。


 魚を焼く匂いだ。どこかの屋台から流れてくる。油の匂いが混じっている。植物油で何かを炒めている匂いもある。香草の香りが強い。ドラスとは種類が違う。


 腹が鳴った。


「まず宿か」とライルが言った。


「まず飯だ」


「荷物を置いてからにしろ」


「匂いが消えたら困る」


「消えない。この街、匂いだらけだろ」


 俺は立ち止まって周りを見た。確かに至る所から何かが焼けている匂いがしている。


「……宿を先にする」


「正しい判断だ」


   *   *   *


 宿は港の近くに取った。海が見える位置だ。部屋は狭かったが、窓を開けると潮の匂いが入ってくる。


「いい宿か」とライルが言った。


「いい宿だ」


「高かったぞ」


「海が見える」


「それだけでいいのか」


「十分だ」


 ライルが呆れた顔をしたが、否定はしなかった。


 荷物を置いて、すぐに外に出た。


   *   *   *


 港に近い食堂に入った。


 外まで匂いが漏れていた店だ。扉を開けると、油と香草と魚の匂いが一気に来た。奥の厨房から声がしている。忙しそうだった。


 出てきたのは白身魚の炒め物だった。


 植物油で火を通した白身魚に、刻んだ玉葱に似た野菜と、香草が混じっている。上に黄色い粉が振ってある。酸味のある汁が底に溜まっていた。


 食った。


 脂が、来た。


 植物油の甘みが口に広がって、白身魚の淡白な旨みが後から追いかけてくる。香草の爽やかさが鼻に抜ける。黄色い粉がほんのりと苦みを足している。底の酸味が全体を締めた。


 この酸味は何だ。


 少し考えた。果実を絞った汁か。加熱して凝縮させてある。前世の料理で言えば、レモンをソースに落とした感じに近い。ただ、使っている果実はもっと丸みのある酸味だ。この世界固有のものだろう。


「どうだ」


 ライルが聞いた。


「旨い」


 即答した。ライルが少し驚いた顔をした。俺が即答することは多くない。


「旨いのか」


「非常に旨い」


「それは珍しい」


 俺はもう一口食った。酸味の正体を考えながら食った。香草の種類を数えながら食った。油の温度がどのくらいだったかを皮の状態から逆算しながら食った。


 それでも旨かった。考える前に旨かった。


 この街には何かある。


 そういう予感がした。


   *   *   *


 食い終わってから外に出た。


 夜の港だった。漁船が灯りをつけている。波の音がする。潮の匂いが強い。


 空を見た。星が多かった。ドラスより多く見える気がした。空気が澄んでいるのかもしれない。


「明日、朝市に行く」と俺は言った。


「競りがあるらしいぞ、早朝に」とライルが言った。「港でやるやつだ」


「何時だ」


「夜明け前には始まるらしい」


「起こせ」


「自分で起きろ」


 俺は少しの間、海を見ていた。波が岸壁にぶつかって、白く散る。また寄せてくる。


 この水の向こうに何がいるのか、俺には分からない。でもこの海で取れたものが、明日の朝の市に並ぶ。それだけわかれば十分だった。


「ライル」


「何だ」


「いい街だ」


 ライルが少し間を置いた。


「珍しいな、そういうことを言うのが」


「旨いものがある街はいい街だ」


「それだけか」


「それだけだ」


 潮風が来た。髪が揺れた。


 明日が楽しみだった。こういう気持ちは言葉にしない。でも、確かにあった。



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