第33話「川沿いの魚と、海の予感」
朝、目が覚めたら霧が出ていた。
廃屋の隙間から差し込む光が白く滲んでいる。空気が湿っている。昨夜感じた匂いの正体がわかった気がした。近くに水がある。
ライルはまだ寝ていた。
俺は荷物をまとめてから外に出た。草が露を含んでいた。足元が湿る。霧の中を少し歩いた。
聞こえた。
水の音だ。街道からそれほど離れていない場所に、川が流れている。
* * *
「川があった」
戻るとライルが起きていた。目をこすりながら荷物を確認している。
「朝から探索してたのか」
「匂いがした」
「……魚か」
「行ってみないとわからない」
ライルが立ち上がった。文句は言わなかった。こういうとき、余計なことを言わなくなった。ドラスを出る前とは少し違う。
川までは歩いて十分ほどだった。
思ったより大きな川だった。川幅は十歩ほど。流れは緩やかで、底まで透けて見える。水が冷たそうだった。岸辺に葦が生えていて、朝霧の中でゆっくり揺れている。
魚がいた。
川底の石の影に、細長い影がいくつか見える。じっとしている。流れに乗って体を揺らしているだけだ。
「いるな」とライルが言った。
「いる」
「捕まえるのか」
「捕まえる」
俺は荷物を下ろした。
* * *
罠を仕掛けた。
細い枝を組んで、流れを絞る仕切りを作る。追い込むだけでいい。複雑な仕掛けはいらない。第四話でやったことと変わらない。川の流れを読んで、魚の逃げ道を塞ぐ。
ライルが「手伝うか」と言った。
「水を少し止められるか。上流側」
「どのくらい」
「少しでいい。流れが緩めば魚が動きやすくなる」
ライルが手を上げた。上流の流れが静かになった。水面が落ち着く。魚が少しだけ動いた。
今だ。
仕切りを動かした。追い込む。二匹、岸側に寄った。そのまま手で掬い上げた。
冷たかった。ぬめりがある。跳ねる力が掌に伝わってくる。
「捕れた」
「あっさり捕るな」とライルが言った。
「慣れてる」
二匹だった。細長い体に、銀色の鱗。前世で見た川魚に近い形だ。背びれが大きい。脂がのっていそうな腹の厚みがある。
鱗を指で撫でた。鮮度がいい。
「旨そうか」
「旨い」
「食ってないだろ」
「見ればわかる」
* * *
岸辺で火を起こした。ライルの魔法だ。
魚を捌く。腹を開くと、身が白かった。臭みは少ない。川底が石なのがいい。泥の匂いがない。
塩を振った。少し置く。
その間に、川岸に生えていた香草を一掴み摘んだ。葉が細くて、潰すと柑橘に似た香りがした。初めて嗅ぐ匂いだ。レコードに入れる。少し噛んでみた。苦みはない。爽やかさだけが残る。
「それも食うのか」
「魚と合わせる」
塩を振った魚を串に刺した。火にかざす。ライルが火の強さを調整してくれた。強火で表面を焼いてから、遠火でゆっくり中まで通す。やり方はもう説明しなくていい。向こうが覚えている。
脂が落ちた。じゅ、と音がした。火が一瞬強くなって、香ばしい匂いが立ち上がる。皮が焦げる手前で止める。
香草を魚の腹に詰めた分が、熱で香りを出し始めた。柑橘に似た爽やかさが、脂の甘みに混ざる。
「できた」
ライルに渡した。ライルが一口かじった。
少し間があった。
「……骨が多いな」
「川魚は多い」
「でも旨い」
「旨い」
身をほぐしながら食った。皮がぱりっとしている。中の身はしっとりしていた。脂が多い魚だった。塩と香草だけで十分だった。余計なものはいらない。
川の音を聞きながら食った。霧が少しずつ晴れていた。水面が光を受け始めた。
悪くない朝だった。
* * *
食い終わってから、もう一度川を見た。
水が透き通っている。流れが緩い場所に、さっきより大きな影があった。捕るには仕掛けが足りない。今日は諦める。
「もっと捕るのか」とライルが言った。
「今日は捕らない。見ておくだけだ」
「記録か」
「この川の魚の形と動きを見ておく。次に似た川で使える」
ライルが「効率がいいのか悪いのかわからないな」と言った。
「旅は寄り道が本体だ」
「誰に教わった」
「誰にも」
俺は川を見たまま言った。前世の話だ。学生の頃、行き当たりばったりの旅が好きだった。目的地よりも、道中に何かある旅。この世界に来てからも変わらない。
ライルが「そうか」と言って、荷物を持ち上げた。
川を離れて街道に戻った。霧はほぼ消えていた。空が青い。
風が来た。西からだ。
昨日より強く、はっきりと、塩の匂いがした。
「今日は匂うだろ」と俺は言った。
ライルが少し鼻を動かした。今度は少し間があった。
「……少しわかる気がする」
「慣れてきた」
「お前に言われるとなんか悔しいな」
俺は答えなかった。
街道を西へ歩いた。風は海から来ている。まだ見えない。でも確実に近づいている。
腹は満ちている。足は動く。
それだけあれば十分だった。




