第32話「街道一日目、風と埃と、それだけ」
街道は乾いていた。
ドラスを出てから半刻ほどで、もう街の影は見えなくなった。視界に入るのは石畳と、両脇に続く草地と、遠くの稜線だけだ。空が広い。ドラスにいると忘れる感覚だった。
風が横から来ていた。西からだ。
「潮の匂いがする」
独り言のつもりだった。
「どこが」とライルが言った。
「かすかにな」
ライルが鼻を動かした。「……わからん」
「慣れたらわかる」
「お前が慣れてるのか、この道に」
俺は黙った。慣れてはいない。ただ、前世でも似たような風を嗅いだことがある。海に近い場所の、乾いた塩気。レコードが勝手に引っ張り出してくる。それだけだ。
* * *
一里ほど先に村があった。
小さな集落だ。畑が数枚、井戸が一つ。食堂と呼ぶには小さい飯屋が街道沿いに一軒だけある。
「寄るか」
「寄る」
即答した。
出てきたのはパンと豆のスープだった。豆は煮崩れている。塩気が強い。香草は入っていない。脂はほぼない。
黙って食った。
「……お前が無言で食うとき、だいたい普通の飯のときだよな」とライルが言った。
「普通だから」
「うまくはないのか」
「うまい。普通に」
「その言い方、作った人が聞いたら傷つくぞ」
二口目のスープを飲んだ。「褒めてる」
「そうは聞こえない」
飯屋の女将が遠くでこちらを見ていた。表情は読めなかった。
* * *
午後は風が強くなった。
埃が目に入る。口の中が乾く。ライルが布を顔に巻き始めた。俺は巻かなかった。
「巻けよ」
「慣れる」
「意地張ってどうする」
「意地じゃない」
本当に意地ではなかった。街道の土の匂いも、埃の混じった風も、全部レコードに入れておきたかった。鼻で息をするのが一番いい。
道端に野草が群生していた。緑の細い葉が風に揺れている。見覚えがあった。
立ち止まって、一枚ちぎって嗅いだ。
「また食うのか」とライルが言った。
「まだ食わない。確認してる」
「確認して、食うんだろ」
否定しなかった。
葉を一枚口に入れた。噛んだ。苦みの後に、かすかな甘みが来た。火を通せば甘みが前に出る。乾燥させれば香りが残る。
「うまいか」
「そこそこ」
「そこそこ食うな、お前」
数枚摘んで、荷物の横に差し込んだ。夕飯に使う。
* * *
日が傾いた頃、街道脇に廃屋があった。屋根が半分落ちているが、壁は残っている。風を防げる。
「ここでいいか」
「もう少し行けば宿場があるはずだが」
「飯を作りたい」
ライルが空を見た。「……わかった」
火を起こした。ライルの魔法だ。俺が鍋を出す。ライルが水を出す。もう言葉はいらなかった。
干し肉を細かく裂いた。道端で摘んだ野草を刻んだ。乾燥茸を少し足した。
煮る。
香りが立った。野草の苦みが熱で飛んで、甘みだけが残る。乾燥茸の出汁が全体に広がった。干し肉の脂が表面に薄く浮いた。
塩を少し足した。足りないより少ない方がいい。
「できた」
ライルが覗き込んだ。「色が変わったな、野草」
「熱を入れると変わる」
「さっきより旨そうに見える」
「食えばわかる」
ライルが口をつけた。少し間があった。
「……宿場の飯より旨い」
「宿場の飯、まだ食ってない」
「そういう話じゃない」
自分の分をすすった。
悪くなかった。道端の雑草がこうなる。名前も知らない草が、汁になって、飯になる。この世界はまだ、そういうものだらけだ。
廃屋の隙間から星が見えた。風は収まっていた。埃の匂いも消えていた。
代わりに、遠くから湿った空気が来ていた。少し重い感じの匂いだ。
川か。あるいは、もっと先か。
鍋の残りを飲み干した。




