第31話「ドラスを出る日」
朝市に最後に顔を出した。
ドラスに来て何度も通った市場だ。顔を覚えている売り手が何人かいる。乾燥茸を売っていた老人、香辛料を並べていた東の国出身の商人、プラタ魚を仕入れていた魚屋。
最後に何かを買うつもりはなかった。ただ見ておきたかった。
次にドラスに来るのがいつかはわからない。また来るかもしれないし、来ないかもしれない。でも、この市場の匂いは記録しておく。早朝の石畳に染みた魚の臭い、香辛料が空気に混じる独特の甘み、それから朝露に濡れた野菜の青い匂い。
全部、レコードに入れた。
「買わないのか」
ライルが隣で言った。
「いい」
「珍しいな」
「記録した」
ライルが少し間を置いた。「そういうこともするんだな」と言った。責めているわけじゃない、ただ意外そうな声だった。
* * *
宿に戻って荷物をまとめた。
大した荷物じゃない。調味料、食材の残り、道具類、着替え。棒は背負う。解体ナイフは腰に下げる。あとはイバラダケの乾燥品を少量、布に包んで袋の奥に入れた。
「それ、持って行くのか」
「乾燥させたら日持ちする。西の街に着くまでの道中で使う」
「三層の茸を旅の携行食にするのか」
「何かと合わせれば化ける素材だ。もったいない」
ライルが苦笑した。もう驚かない顔だった。
荷物を背負って部屋を出た。廊下で宿の親父に会った。無口な男で、いつも一言しか言わない。
「また来い」
それだけ言って奥に引っ込んだ。
俺は少し足を止めた。
「また来る」
聞こえたかどうかわからない。でも言った。
* * *
ギルドに寄った。アネットへの挨拶だ。
カウンターに近づくと、アネットが顔を上げた。荷物を背負った俺たちを見て、すぐに察したらしい。
「出発ですか」
「ああ」
「お気をつけて」
それだけでよかった。でもアネットが続けた。
「三層のイバラダケの件、もう少し調べておきます。次に来たときに情報が揃っているかもしれません」
俺は少し意外に思った。
「イバラダケ」
「神崎さんが名付けた茸ですよね。ギルドへの報告書に書いてありました。薬師に確認を取ったんですが、薬効の可能性もあるそうで。正式な記録に残す方向で動いています」
ライルが横で「お前の名付けた茸がギルドに登録されるのか」と言った。
「そういうことになるのか」
「そういうことになりますね」アネットが微笑んだ。「発見者として記録します」
俺はしばらく何も言わなかった。
この世界に来て、名前のないものに名前をつけたのは初めてかもしれない。食い方を確かめてから名前をつけた茸が、ギルドに記録される。悪くない話だと思った。
「頼む」
「はい。またいつでもどうぞ」
ギルドを出た。
* * *
ドラスの西門を抜けると、街道が真っ直ぐ伸びていた。
空が広い。ドラスは建物が多く、空が狭く感じていた。街の外に出た途端、視界が開けた。遠くに薄く山の稜線が見えて、その向こうに西の方角がある。
「何日くらいかかるんだ、西の街まで」
「街道を使えば五日から六日だ。荷馬車に乗れればもっと早い」
「乗るか」
「高い」
「金はあるだろ」
「歩ける距離に金を使わない」
ライルが「ケチだな」と言った。
「節約だ」
「同じだろ」
俺は答えなかった。歩いた方が道中に何かある。荷馬車に乗ったら見落とすものがある。特に食材の話だ。道端の野草、川沿いの魚、街道沿いの村の屋台——全部、歩かないと出会えない。
しばらく黙って歩いた。風が西から来ていた。少し潮の匂いがした気がした。
「なあ」
ライルが口を開いた。
「何だ」
「ドラムダンジョン、またいつか潜るか」
俺は少し考えた。
「たぶん潜る」
「三層より下に行くつもりか」
「四層に水が流れているという話を聞いた。水があれば魚がいるかもしれない」
ライルが「やっぱり飯の話だ」と言った。呆れているが、嫌そうではない。
「ただ今は行かない。今は西の海に何があるかを先に見たい」
「優先順位か」
「旨いものには順番がある。焦って食えばどれも薄くなる」
ライルが少し間を置いた。
「それ、飯の話だよな」
「飯の話だ」
「なんか、生き方の話みたいに聞こえた」
俺は何も言わなかった。ライルが小さく笑った。
街道の石畳が、朝の光を受けて白く光っていた。
ドラスが背後に遠ざかっていく。ダンジョンの茸、市場の香辛料、宿の親父の一言、アネットの笑顔——全部記録してある。忘れない。
西の海がある。魚介類がある。まだ食ったことのない味がある。
腹が減ってきた。
「朝飯、どこかで食うか」
「街道に村があると言ってたな」
「一里ほど先だ」
「何がある」
「わからん。行ってみないとわからない」
ライルが「それでいいのか」と言った。
「それがいい」
二人で歩き続けた。風が少し強くなった。やっぱり潮の匂いがした。気のせいじゃないかもしれない。
腹が鳴った。
ライルが横で笑い声を上げた。
旅は、いつでも腹から始まる。




