第29話「深層の味」
宿に戻って最初にしたのは、傷の確認だった。
ライルに言われたわけじゃない。昨日の肩の傷はもう塞がっていたが、今日は背中に打ち身がある。壁に当たったときのものだ。後で湿布を当てておく。
「傷、ちゃんと確認してるか」
ライルが荷袋を下ろしながら言った。
「している」
「嘘をつくな。お前は痛みに鈍い」
「鈍くはない。優先順位が違うだけだ」
ライルが俺を見て、一歩近づいてきた。
「上着を脱げ」
「別にいい」
「脱け」
有無を言わさない声だった。俺は黙って上着を脱いだ。背中を見せると、ライルが小さく息を吸った。
「紫になってる」
「打ち身だ。骨は問題ない」
「お前が問題ないと言うのが一番信用できない」
ライルが薬草を取り出して丁寧に塗り込んだ。無言で、丁寧に。
俺は黙って受け取った。ありがとうと言うべき場面だとわかっていた。でも言葉が出る前に、ライルが「次はちゃんと言え」と言った。
「何を」
「怪我したときは言え。俺に言え」
俺は少し間を置いた。
「わかった」
ライルが手を止めた。少し驚いたような間があった。
「……素直に聞くんだな」
「正しいことを言われたら聞く」
ライルが何か言いかけて、やめた。代わりに薬草を押しつけてきた。
「残りは自分でやれ」
「わかった」
* * *
夜になってから調理を始めた。
今日の素材が三つある。イアンガルドの脂、紫茸の残り、それから岩の割れ目から採った橙色の液体。
橙色の液体は、布に包んで持ち帰った段階で固まっていた。表面を少し削って舐めた。甘い。それから微かに酸味がある。樹液に近い性質だと思う。加熱すると香りが飛ぶ可能性がある。今日は加熱せず、仕上げに少量使う方向で試す。
「なんか、今日はいつもより品数が多いな」
ライルが机に頬杖をついて眺めていた。
「素材が揃った」
「俺、今日かなりギリギリだったんだけど」
「知ってる。助かった」
ライルが目を瞬いた。
「……今、ちゃんとお礼を言ったか」
「言った」
「珍しい」
「言うべきときには言う」
ライルがまた何か言いかけて、黙った。今日は何度目かわからない。
鉄鍋にイアンガルドの脂を入れた。昨日の魔物の脂より量が多い。色は薄い黄色で、加熱するとすぐに溶け始めた。香りが立った。獣脂に近いが、もう少し複雑だ。土の匂いが混じっている。三層の深部で生きていた生き物の脂だ。二層までの魔物とは食べているものが違う。
紫茸を今日は厚めに切った。三ミリ。薄切りより食感が残る。
溶けた脂に茸を入れた。
ジュ、という音が走った。
昨日までとは違う音だった。脂の密度が高いせいか、音が重い。香りも違う。スパイスに似た紫茸の香気と、イアンガルドの脂の土臭さが合わさって、何か新しいものになっていた。
「……いい匂いだ」
ライルが身を乗り出した。
「まだ途中だ」
三十秒で茸を取り出した。脂を切って皿に並べる。最後に橙色の固まりをナイフの先で薄く削って、茸の上に落とした。熱で溶けて、表面に薄く広がった。
甘い香りが加わった。
「できた」
「早い」
「茸は早い方がいい」
ライルが皿を受け取って、一切れ口に入れた。
いつもなら何か言う。旨いとか、変な感じだとか。
今日は黙っていた。
噛んでいる。飲み込んだ。それでも何も言わなかった。
「どうだ」
俺が聞いた。
ライルが少し間を置いた。
「言葉が出ない」
「旨いか」
「旨い。でもそれだけじゃない。なんか——」
ライルが皿を見下ろした。
「なんか、ちゃんと食ったって感じがする。三層で戦って、素材を持ち帰って、お前が作って、俺が食う。全部が繋がってる感じがする」
俺は自分の皿から一切れ取って、口に入れた。
旨かった。
イアンガルドの脂のコクが茸の繊維に染み込んで、噛むたびに旨みが出る。紫茸のスパイスに似た香気が広がって、最後に橙色の液体の甘みと酸味が締める。三層で採ったものが、全部一皿に収まっている。
「この茸に名前をつける」
俺が言った。
ライルが顔を上げた。
「決めたのか」
「ああ」
「何にする」
俺は少し考えた。
「イバラダケ」
「なんで」
「岩に食い込んで生えていた。硬くて、簡単には採れなかった。それにこの香気——刺さるような香りがある。棘に近い」
ライルが繰り返した。「イバラダケ」
「悪くない」
「そうか」
二人で皿を食い終えた。
食べ終えた後も、ライルはしばらく皿を見ていた。
「なあ」
「何だ」
「お前と旅して、飯の見方が変わった」
俺は何も言わなかった。
「前は飯って、腹を満たすものだと思ってた。道中に食えればそれでいいって。でも今は——素材がどこから来たか、どうやって手に入れたか、そういうものが全部味に乗ってくる気がする」
ライルが照れたような顔をした。
「お前みたいなことを言ってるな、俺」
「いいことだ」
「そうか」
「そうだ」
ライルが小さく笑った。今日何度目かの笑い声だった。
窓の外、ドラスの夜が更けていた。三層の奥にはまだ行っていない場所がある。橙色の液体がどこから来るのかも、まだわからない。イアンガルドの他にどんな魔物がいるかも。
でも今夜は、それでいい。
一皿が完成した。それで十分な夜というものがある。




