第26話「火のない飯」
朝、起き抜けに茸の匂いを確認した。
布を開くと、昨夜より香りが強くなっていた。傘の縁が少し乾いている。時間が経つことで揮発成分が変化しているらしい。悪い方向ではない。熟成に近い変化だ。
「もう嗅いでるのか」
ライルが寝台から半身を起こして言った。目がまだ覚めていない。
「起きてすぐ確認することがある」
「普通は顔を洗うとかだろ」
「それより先にやることがある」
ライルが何か言いかけて、やめた。もう慣れてきたのだと思う。
茸を机に置いて、改めて観察した。昨日と変わらず、紫の傘に白い縁。触れると昨日より少し柔らかくなっていた。水分がわずかに戻ってきた感じがする。不思議な茸だ。
さて。火が使えない場所で、これをどう食うか。
三層のガス溜まりは、奥に行くほど濃くなる。火花一つで引火する可能性がある区域で調理をするには、火を一切使わない方法を選ぶしかない。
俺は手帳を開いた。昨夜書き留めた案が並んでいる。
塩締め。油漬け。乾燥。叩いて繊維を崩す。酢で締める——酢はない。発酵——時間がない。
消去法で残るのは、塩と脂だ。
紫茸を薄く切って塩を当てる。水分を引き出す。そこに昨日確認した魔物の脂を合わせる。加熱なしで脂の旨みを纏わせる。それだけだ。
地味に見えるが、素材が良ければそれで十分なことがある。問題は、この茸が食えるかどうかだ。
「食う前に少し待ってくれ」
独り言のつもりだったが、ライルが答えた。
「待つのは構わないけど、何を待つんだ」
「毒の確認だ。少量食って、半刻様子を見る」
「……それ、お前が実験台になるってことだよな」
「そうだ」
「なんで平然としてる」
「今まで何度もやってきた」
ライルが黙った。何か言いたそうな顔のまま、黙っていた。
* * *
茸を薄く三枚切り、塩をごく薄く当てた。五分待つ。表面に細かい水滴が浮いてきた。水分が出ている。布で軽く押さえて拭う。
脂を少量、指で茸の表面に薄く伸ばした。
一枚、口に入れた。
硬い。噛むと繊維が強く、前歯で断ち切るような感覚だ。二層のドラムキノコとは全く違う。でも——香りが、いい。噛んだ瞬間にスパイスに似た香気が広がって、脂の甘みがそれを包む。塩がちょうど全体を締めている。
飲み込んだ。
後味に残るのは、ほんのりとした痺れだ。
舌の先が、じんと痺れている。
「……どうだ」
ライルが身を乗り出した。
「旨い」
「それだけか」
「舌が少し痺れてる」
ライルの顔が険しくなった。
「毒じゃないのか」
「山椒に近い感覚だ。毒性の痺れとは違う。刺激成分が揮発しているだけだと思う」
「思う、って」
「半刻待てばわかる」
俺は椅子に座りながら、記録が発動したのを確認した、香り・食感・味・後味・痺れの強さ。全部記憶に書き留める。ライルがじっとこちらを見ていた。心配しているのか、呆れているのか、その両方か。
半刻後、痺れは引いていた。腹に異常はない。頭も普通だ。
「問題なかった」
「よかった」とライルが言った。声が少し低かった。
* * *
昼前にダンジョンへ向かった。
三層に入り、昨日引き返したガスの境界まで進む。今日はここから先だ。
「土魔法で密閉かまどを作れるか」
歩きながら聞いた。ライルが少し間を置いた。
「作れる。ただ、完全に密閉するのは難しい。煙の逃げ道をどこかに作らないといけない」
「煙を外に出せる構造にできるか」
「換気路を風魔法で補助すれば、できなくはない」
「やってみる価値はある」
ライルが「そういう方向で考えてたのか」と呟いた。少し感心したような声だった。
ガスの境界に着いた。空気が鼻を刺す。この先は火厳禁だ。
ライルが壁の前に立って、両手を岩肌に当てた。
「どのくらいの大きさがいい」
「鍋一つ入る程度。高さは腰くらいまで」
岩が低く唸るような音を立てた。ゆっくりと石が盛り上がり、形を変えていく。土魔法は何度か見ているが、こうして間近で見ると精度が高い。壁に沿って小さなかまどが形成された。天面に小さな穴が一つ。
「穴から煙を上に逃がす。風魔法で引っ張れば外に出せる」
「やってみよう」
俺はかまどの中に薪代わりの木炭を少量入れた。火打ち石で慎重に火をつける。ライルが穴の上に手をかざし、風魔法で上向きの気流を作る。煙がまっすぐ上に流れた。
周囲のガス濃度に変化はない。
「いける」
「本当に機能してる」ライルが驚いたように言った。「考えたな」
「お前の魔法があってこそだ」
ライルが少し黙った。照れているわけじゃないと思うが、何か考えている顔だった。
小さなかまどの火は安定していた。鍋を置くには不安定だが、直接食材をかざす程度には使える。
俺は紫茸の残りを取り出した。薄切りにして、魔物の脂を少量かまどの縁に塗って熱する。溶けた脂に茸を数秒くぐらせる。加熱は最小限でいい。火を通しすぎると香気が飛ぶ。
茸が脂を纏って、表面がわずかに変色した。
「食え」
ライルに一切れ渡した。ライルが恐る恐る口に入れた。噛む。少し間があった。
「……なんだこれ」
「旨いか」
「旨い。なんか、痺れるけど」
「山椒みたいなもんだ」
「山椒って何だ」
「前に——昔、食ったことのある香辛料に似てる」
ライルが「ふうん」と言って、もう一切れ手を伸ばした。さっきまでの警戒が消えていた。旨いと判断したら迷わなくなる。それがライルだ。
俺も食った。
昨朝の生食とは全く違う顔になっていた。脂の甘みと熱で香気が開いて、塩が要らないくらい旨みが出ている。痺れが心地いいアクセントになっている。
これは、いい。
「名前、決めてやれよ」とライルが言った。
「そうだな」
「山椒ってのに、似てるんだろ?」
「味に関して言えば、昔に口にした山椒のままだ」
「なら山椒茸とか、そんなんで良いんじゃないのか?」
「そうだな、今後はそう呼ぼうか」
かまどの火が静かに揺れていた。換気路から煙が細く上に流れていく。ガスの匂いが漂う三層の深部で、俺たちは小さな火を囲んでいた。
新たな調味料を、手に入れたルイはホクホク顔だった。




