第24話「三層、はじめての暗がり」
ダンジョンの入口は、朝が早い。
夜明け前から冒険者が集まり始め、ランクごとに進む層が違うから自然と列が分かれる。一層と二層は混んでいた。三層に向かう者は少なかった。
「……本当に行くのか」
ライルが隣で言った。声が低い。緊張しているわけではなく、確認している声だ。
「行く」
「俺はまだ行くとは言ってない」
「昨日、手伝うと言った」
「仕込みの話だ」
「三層の素材が要る」
ライルが黙った。反論できない顔をしていた。
受付で申告を済ませる。三層へ向かう旨を告げると、受付の男が少し目を細めた。
「ランクGとDの二人組で三層は珍しいですね。お気をつけて」
気をつける、と答えた。ライルが隣で小さく息を吐いた。
* * *
一層と二層は何度か潜っている。勝手がわかっていた。
三層への下り階段は、二層の奥にある。他の冒険者が寄りつかない薄暗い通路の先に、石造りの段が続いていた。松明の明かりが届かない深さだ。
「明かりは俺が出す」
ライルが手のひらに小さな光球を浮かべた。白く柔らかい光が周囲を照らす。
「それは何属性だ」
「光……じゃなくて、火を極限まで絞ったやつだ。光魔法は苦手だから」
「なるほど」
俺は先に立って階段を下りた。
三層に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿度が上がった。それだけじゃない。何か有機的な匂いがした。土と、苔と、それから——何か発酵したような、複雑な匂い。
「……臭いな」
ライルが顔をしかめた。
「いや、面白い匂いだ」
「同じ状況を見て全然違うことを言うな、俺たち」
俺は立ち止まって、鼻で息を吸った。腐っているわけじゃない。何かが熟成されているような、そういう匂いだ。この層に特有の何かが空気に混じっている。食材の可能性がある。
通路は一層・二層より広かった。天井も高い。壁に苔が張り付いていて、ライルの光を受けてぼんやり緑色に光っている。
「綺麗だな」と俺は言った。
「お前が綺麗と言うのは大体食べ物絡みだろ」
「苔は食えるかもしれない」
「今すぐ食うな」
食う気はなかった。まだ観察中だ。
* * *
最初の魔物と出会ったのは、三層に入って十分ほどのことだった。
音もなく現れた。壁の苔に紛れていたらしく、俺もライルも気づくのが遅れた。
姿を見た瞬間、頭の中で記録が走る。
全長一メートルほど。四肢が長く、関節が逆向きに曲がっている。皮膚は半透明で、内側に薄く光る器官が透けて見える。目が六つ。複眼ではなく、それぞれが独立した眼球だ。音を立てずに移動できるのはおそらく足の裏に吸盤がある。
「……なんだあれ」
ライルの声が低くなった。
「名前はまだない」
「そういう話じゃなくて」
魔物がこちらを向いた。六つの目が一斉に俺たちを捉えた。
俺は棒を構えた。間合いを測る。素早い動きができるかどうか、まだわからない。慎重に。
魔物が跳んだ。
速い。一層や二層の魔物とは明らかに違う。俺は横に一歩ずれて棒の先端を首元に向けた。空振りするかと思ったが、当たった。鈍い手応え。魔物がよろけた。
「火、頼む。小さくていい」
「どのくらい」
「手のひら一個分」
ライルが右手を向けた。小さな火球が飛んで、魔物の側面に当たった。魔物が甲高い声を上げた。
俺は間髪入れずに踏み込んで、棒を首の付け根に叩き込んだ。
魔物が崩れ落ちた。
静寂。
「……思ったより早かったな」
ライルが息を整えながら言った。
「初見だから探りを入れた。次からは早くなる」
俺はしゃがんで魔物を観察した。倒れても半透明の皮膚は崩れていない。解体ナイフを出して、慎重に腹を開いた。
内臓の配置が独特だ。胃が二つある。それと——消化器官の隣に、白い塊があった。
「なんだそれ」
「わからん。でも脂に似た質感だ」
「食うのか」
「まだ食わない。持って帰る」
俺は白い塊を慎重に切り分けて布に包んだ。ライルが何か言いたそうな顔をしていたが、黙っていた。
* * *
三層をさらに進んだ。
通路の分岐が多く、二層より構造が複雑だった。俺は曲がり角のたびに壁に小さな傷をつけた。帰り道の目印だ。
「それ、前からやってたのか」
「一層から」
「知らなかった」
「言わなかったから」
ライルがため息をついた。呆れているが、嫌そうではない顔だった。最近、この顔が増えた。
二つ目の分岐を左に進んだところで、空気がまた変わった。
今度は鼻を刺す感覚がある。ガスだ。
「止まれ」
俺は右手を上げた。ライルがすぐに足を止めた。
「ガスか」
「おそらく。明かりを消せるか」
「消せるけど、真っ暗になる」
「五秒でいい。鼻で確認する」
光が消えた。暗闇の中、息を鼻から吸い込んだ。硫黄に近い刺激臭。濃度はまだ低い。でも奥に行くほど濃くなる。
「つけてくれ」
光が戻った。
「火気禁止区域はこの先だ。奥に行くほどガスが濃い」
「ということは、今日はここまでか」
「今日はここまで」
ライルが小さく息を吐いた。安堵しているのか、物足りないのか、判断がつかない顔だった。
「でも、場所はわかった」
「それで十分なのか」
「十分だ。次は火を使わない飯の準備をしてから来る」
ライルがこちらを見た。少し間があった。
「……お前にとって、ここはダンジョンじゃなくて厨房なんだな」
「厨房でもある」
「両方あるのか」
「食えるものがあれば全部厨房だ」
ライルが何かを言いかけて、やめた。代わりに短く笑った。声が出る笑い方だった。
俺たちは来た道を戻り始めた。
布の中の白い塊が、少し温かかった。宿に帰ったら、まず観察だ。食えるかどうかはそれから判断する。
三層はまだ始まりに過ぎない。




