第20話「ドラスの朝市と、一つの発見」
翌朝、日が出る前に目が覚めた。
宿の窓から外を見た。まだ暗い。でも市場の方から音が聞こえた。荷馬車の音、荷物を降ろす音、人の声。
朝市が立っている。
着替えて部屋を出た。廊下でライルの部屋の前を通った。
少し迷って、扉を叩いた。
返事がなかった。もう一回叩いた。
「……何だ」くぐもった声がした。
「市場に行く」
「今何時だ」
「日の出前だ」
「寝ろ」
「朝市は早い方がいい素材がある」
しばらく沈黙があった。
「……五分待て」
俺は廊下で待った。正確に五分でライルが出てきた。目が半分閉じている。髪が寝乱れている。
「起こすなよ、普通」
「一人で行けるが、交渉が必要になるかもしれない」
「それで起こしたのか」
「お前の方がうまい」
ライルが額に手を当てた。でも歩き出した。
「覚えておけよ、この恩は」
「覚えておく」
「本当に覚えておくのか、お前」
「必要なら覚えている」
ライルがまた何か言いたそうにしたが、やめた。
* * *
朝市は昨日の夕方より人が少なかった。でも活気があった。
仕入れに来た料理人らしい人間が多い。商人同士の交渉が飛び交っている。旅人はほとんどいない。
俺はゆっくり歩いた。
昨日と違う屋台が出ていた。魚の干物専門の屋台。昨日より種類が多い乾物屋。それから、見たことのない屋台が一つ。
足が止まった。
小さな屋台だった。老人が一人で店を出している。売っているのは瓶が数本と、乾燥させた何かが入った袋だけだ。
近づいた。
匂いを嗅いだ。
わからなかった。
俺が匂いでわからないものは、そう多くない。でもこれはわからなかった。植物系だと思う。乾燥させているから本来の香りが閉じ込められている。でも瓶の蓋の隙間から微かに漏れてくる香りが、今まで嗅いだどれとも違った。
「爺さん、これは何だ」
老人が顔を上げた。目が細い。商人というより職人の顔だ。
「どこから来た」
「南の街から」
「リムガルドか。遠いな」老人が瓶の一つを手に取った。「これはな、北の山の麓でしか採れない茸を乾燥させたものだ。香りが強い。煮込みに入れると出汁が変わる」
「食えるか」
「食える。ただし使いすぎると苦くなる。量が大事だ」
「量の目安は」
「煮込み一鍋に対して、これくらい」老人が指で示した。「それ以下でもいい。香りだけ借りたいなら少量でいい」
俺は瓶を受け取って、蓋の隙間から嗅いだ。
深い匂いだった。土の底から来るような、暗くて重い香り。でも嫌じゃない。むしろ引き込まれる。これは煮込みに入れたら、今まで作れなかった奥行きが出る。
「いくらだ」
「銀貨一枚。高いと思うかもしれないが、少量で使えるから長持ちする」
ライルが隣で小声で言った。「高くないか」
「安い」と俺は答えた。
「そうなのか」
「これだけの香りのものは、値段がつけにくい。むしろ安い」
老人がこちらを見た。少し表情が変わった。
「わかるか」
「少しだけ」
「少しだけ、ね」老人が笑った。「冒険者が来て、こういうことを言うのは珍しい」
「よく言われる」
「どこで覚えた」
「旅の中で」
老人がしばらくこちらを見た。それから瓶と一緒に、小さな紙包みを出した。
「おまけだ。これは同じ山で採れる別の乾燥茸だ。香りは弱いが、出汁の量が増える。合わせて使うといい」
「ありがとう」
「礼はいい。旨いものを作れ」
銀貨を払って、瓶と紙包みを受け取った。
ライルが歩きながら言った。
「一言も値切らなかったな」
「値切る必要がなかった」
「普通は値切るだろ」
「適正な値段のものを値切るのは失礼だ」
ライルが少し黙った。
「……お前、食材に関してだけ妙に礼儀正しいな」
「そうか」
「そうだよ。他のことはわりと無頓着なのに」
俺は少し考えた。
「旨いものを作った人間には、敬意を払うべきだと思っている」
「作った人間じゃなくて、売ってた老人だろ」
「育てた人間がいる。採った人間がいる。乾燥させた人間がいる。その老人はそれを運んできた。全員に繋がってる」
ライルが黙った。
今度の沈黙は少し長かった。
「……なんか、すごいな」
「何がだ」
「お前の飯に対する考え方が」ライルが少し先を向いたまま言った。「俺、今まで飯って、腹を満たすものだと思ってた。お前と一緒にいると、それだけじゃない気がしてくる」
「腹を満たすのは最低限だ」
「最低限の先に何がある」
「全部ある」
答えになっていないかもしれない。でも俺にはそれが全てだった。
ライルは何も言わなかった。でも歩く速度が、少しだけ俺に合ってきた気がした。
* * *
宿に戻って、朝飯を作った。
昨日買ったベルタの残りと、新しく買った乾物。それから乾燥茸を少量、湯で戻した。
戻している間に匂いが変わった。乾燥していたときより香りが開く。水を吸って、本来の形に近づいていく。
その戻し汁を捨てずに使った。これが出汁になる。
野菜を切って、戻した茸と一緒に煮た。茸の出汁が野菜に染みていく。塩で整えた。
昨日買った香辛料を少し足した。
完成した。
「食え」
ライルが受け取った。スープを一口飲んだ。
「……昨日と全然違う」
「茸の出汁だ」
「これが変えてるのか。なんか、深いな。底があるみたいな味がする」
「うまい表現だ」
「褒めるな、照れる」
俺は自分の分を食った。
旨かった。予想より旨かった。茸の香りが思ったより強く出た。次は量を少し減らしてもいいかもしれない。でもこれはこれで完成している。
「ドラスに来て良かったな」とライルが言った。
「ああ」
「まだ二日目だぞ。この先どうなるんだ」
「わからない」
「わからないのに楽しみそうな顔してる」
俺は答えなかった。
でも、そうかもしれない、と思った。




