07. 係長の指は渡すまじ
きひひひひ
ざわざわざわ
ほーほー
お化け屋敷を歩いているかのようなリアルな効果音が聞こえてくる。
「うぉ!」と声を上げたのは久保さんか。
「ビビってやんのー」と周りに囃し立てられている。
「ちげえし。そんなんじゃねーし」とムキになって言い返している。
「静かにしなさい! 特別顧問の部屋なんだからね!」と叱っているのはみゆき先輩だ。
「怒られてやんのー」
「俺じゃねえし」
「俺でもねーし」
……うん、もはや小学生の遠足だわ。
千夏はみゆき先輩ならいい先生になるんだろうなと思った。
パタパタパタパタ
コウモリの羽ばたく音だろうか?
ポタポタポタ
水が滴り落ちる音か。
「この包丁はねえ、よく研いでおかないとねえ。かわいいお嬢ちゃんに、痛い思いはさせたくないだろう?」
遠くからおばあさんのようなしわがれた声がする。
音源から流れている音というより、立体的に聞こえる音だ。
そう、まるで、本物のように。
すごい。
特別顧問がハロウィンに注ぐ熱意に、千夏の胸から熱いものが込み上げてくる。
これはすべてハロウィンの演出なのだ。
やるなら徹底的に。
毒を食らわば皿まで。
仮装だけで満足していてはいけなかったのだ。千夏たちが、甘かった。
きっと特別顧問は、千夏たちに大人の本気を見せるためにこの演出をしたのだろう。ぜひ、ご本人を『係長と愉快な仲間たち』にスカウトしなければ。
今後のイベントの質が爆上がりしそうな予感に、千夏は胸を高鳴らせた。
「……ねえ、さすがにちょっとおかしいんじゃないかしら」
至極真っ当なことを言ったのは、みゆき先輩だ。
「そうですね。足元スースーして寒いし」
飛脚コスプレはさすがに冷えるのだろう。花梨が足をさする。
「あ、俺、あっためますよ。後ろから抱きしめましょうか」
ちゃっかりアピールするのは三輪くん。
「先輩、それはセクハラに入るかと」
嵐山くんは安定の三輪くんストッパーだ。
「あっちに光が見える。そこまで行って何もなかったら、引き返そう」
係長は先を指した。先には、光が差している。
一行は言葉少なめに歩いていく。一歩進むたびに、足元で落ち葉が崩れる乾いた音がする。まるで本物の土を踏んでいるかのようなリアルな感触が足から伝わってくる。ふわりと鼻を掠めるのは、金木犀の香りだろうか。
光はどんどん大きくなっていく。それは日光や人工的な光とは違って、炎のようなゆらめきだ。木枯らし吹きつける空気から一転して、熱が伝わってくる。それから、聞こえてくる人々の話し声。
やがて視界が開けた。木々の隙間から、キャンプファイヤーのようなものが見える。それに釣られるように目線を上げれば、夜空が見えた。星は見えない。が、黒い雲がゆったりと流れていく。
一行が暗いところから明るいところへと目を慣らしていると、黒いローブを着てフードを深々と被った女が話しかけてきた。
「おや。新たな客人だね。招待状は持っているかい?」
「あー……、すみません。あいにく招待状はいただいておりませんで」
係長は申し訳なさそうに謝った。
「困ったねえ。ここはVIPしか入れないんだよ。違反者は指を落とす決まりでね」
……指を落とす?
一行は固まった。「誰この人?」の疑問も吹っ飛ぶ衝撃だ。冗談だと思いたいが、女は園芸用のような鋭いハサミを持っているのだ。まるで切れ味を試すかのように、チョキチョキとハサミを動かす。
それからさりげなく、係長の手を取った。そして、「どの指からいくかねえ」と呟きながら、係長の指を吟味し始めた。老人特有の薄い皮膚と血管が浮いた手が、係長の指をゆっくりと撫でていく。係長は手を引こうとしているのだが、思いの外強い力で握られているのか、動けないでいる。
「親指はちょっと硬そうだねえ。いい出汁が出るんだけどねえ。このハサミもしばらく使っていないからねえ。試し切りからかねえ」
ちょっと待った!
女の物騒な発言に我に帰った千夏は、黒いフードの女と係長の間に立った。
「私たち、ご招待受けています! 特別顧問付きのの美魔女……じゃなかった、秘書さんから、こちらに赴くよう言われて来ました!」
今にも係長の中指を切り落としそうな女に、千夏は捲し立てた。
「特別顧問の美魔女、かい?」
女はハサミの刃が中指の皮膚に当たるか当たらないかの際で止めて、千夏を覗き見た。
「そうです! 特別顧問のところで、トリックオアトリートをするように命じられまして!」
今にもスパンといってしまいそうなことにハラハラしながら、千夏はこくこくと頭を縦に振った。
「その魔女はどんな色のオーラをしていたかい?」
「……オーラ? え、オーラはちょっとよく分からないですけど、こう、ぼっきゅんぼんの、ふじこちゃんみたいな、真っ赤なボディコンとか着ていそうな、派手な感じの方でしたっ!」
言っている側から千夏は意味不明になってきた。
ボディコンって何? そんなの知らんわ。
頭の中でテレビで見たことがある『お立ち台』とやらがチラついた。フェイクファーのような扇子をくるくる動かすアレだ。
「そりゃねえわ。あれは清楚な美人だろ」
「そうか? 俺は鞭が合いそうな気がするけど」
「何言ってんだ。どう考えても清純派だろう」
「僕はセーラー服が似合いそうだなって思ったけどね」
男性陣の中で意見が分かれている。
「えー、私はあざとそうな感じがしたけどな」
「そうよね。顔にも体にも自信あり! どうだ! って感じよね」
「女狐ってああいうのを言うんだろうなって私は思いました」
女性陣の意見は割とまとまっている。
「……ふむ。そりゃあ魔女に違いないさね。いいだろう。来な」
やり取りを黙って(でもハサミは外さず)見ていた女は、納得したようにあっさりと係長の手を離した。
係長はよろけて後ろに数歩下がった。千夏は係長の背中に手を当てて支える。
かわいそうに。係長は真っ白な顔をして冷や汗をかいている。
こんなの千夏の見たかった係長じゃない。係長は、実家の犬みたいにぽわっとして、ゆるっとして、なおかつ困った顔をしていてくれないとダメなのだ。
おのれ、魔女。許すまし。
とっとと歩き出した女のことを千夏は睨みつけた。すると、まるでそれがわかっていたかのように、女は振り向いた。フードに隠れて目元は見えないが、ニヤッと唇を歪めるその姿は、特別顧問室の前にあった等身大の骸骨を彷彿とさせた。
まるで見てはいけないものを見たかのように、千夏はそっと目線を逸らした。




