05. ラスボスとは言わないまでも、それなりの強敵
――チーン
エレベーターの開く音を合図に、一行は最上部フロアへと降り立った。さすがお偉いさんがいるフロアなだけあって、静かなものだ。ゆったりとした区画には数部屋しかない。従業員が鮨詰めにされている下界フロアとは格が違う。ドアも、もちろん各部屋のインテリアも質の良いものだ。
このフロアにある給湯室に備え付けられている茶葉やコーヒー、お菓子などは、老舗デパートの高級品だということを千夏は知っている。以前セクレタリーが不在だとかで、来客のお茶出しを命じられたことがあるからだ。ホテルのアメニティならティーバッグの一つや二つ、お持ち帰りするところだが、さすがに会社でそれをやったらダメだろう、と千夏はブランド名を目に焼き付けるだけに留めておいた。後日デパートに見にいったら、ティーバッグの一つでランチが食べられそうな値段だった。
さて、そんなことは今はどうでもいい。千夏の頭の中は、いかに係長にハロウィンを楽しんでもらえるかでいっぱいだ。一応吹っ飛んだことをしている自覚のある我が係の同僚たちとは、さすがにいきなり社長室に殴り込みに行くのはイカンだろう、と事前会議で話し合っている。
ではどうするか。「じゃあ、まあまずはその辺の偉そうなおっさんからで」と適当に投げたのは男性社員の一人だ。そしてそれに千夏たちも同意した。
「トリックオアトリート!」の掛け声勇ましく廊下を練り歩いていると、部長に遭遇した。部長は貫禄のあるビール腹のおじさ……ごほん、中年男性なのだが、意外とフットワークが軽い。
節分の時に鬼の帽子が取れなくなってオフィスに入ることができず、一人寂しく廊下で仕事をしていた係長の様子を見にきたのもこの部長だ。
きっと楽しいことが好きなお方なのだろう、と千夏はいつか『係長と愉快な仲間たち』の新規会員としてお誘いできないだろうかと目論んでいる。
「やあやあ、君たちお揃いで。今度は何事かね?」
にこやかに手を振りながら部長が近づいてくる。係長はぴたりと足を止めた。その後ろにいた千夏も止まった。が、よそ見をしていた三輪くんが千夏にぶつかる(秘書課のお姉様方が何事かと部屋から出てきて、三輪くんはそちらに手を振っていたのだ)。千夏は係長に思いっきりおでこをぶつけてしまった。
「うわっ」とは三輪くん。
「ぶっ」とは千夏。
秘書課の方々のくすくすと笑う声が聞こえてくる。
千夏は係長の背中に両手を付けながら、三輪くんを睨んだ。でも三輪くんは千夏のことなんて見ちゃいない。『あっちゃー。恥ずかしいところ見られちゃったな!』とばかりに舌を出して頭を掻いている。もちろんお姉様方へのアピールだ。
ガヤガヤやっていた一行は、部長の登場にさすがに黙って動きを止めた。
それにしても、いきなりぶつかったというのに係長はびくりともしない。学生時代に剣道をやっていた係長は、姿勢が良くて体幹が素晴らしいのだ。せっかくならばと千夏は両手を係長の腰に張り付けたまま、ことの成り行きを見守ることにした。
危うくスタンピードになりそうだった一行を、部長は片眉をくいっと上げて面白そうに眺めている。
『笑っているからといって機嫌が良いとは限らない』
子どもが大人になるにつれて徐々に学んでいく人の心理だ。部長はさすがに部長なだけあって、腹が読めない顔をしている。これがいわゆる『たぬき親父』ってやつなのかと、千夏は感銘を受けた。
さあ、対する係長、どうする!?
千夏は目を輝かせながら係長の細身の胴体から、こっそり顔だけ覗かせて部長を見上げた。係長の呼吸は安定している。
ふむ、さすがですね。
千夏は心の中で係長を褒めた。
係長が大きく息を吸い込んだ。千夏は手にその躍動を感じた。
「はい! 我々は商社です。お客様のニーズを把握することが必要不可欠です。現代で失われつつある伝統行事を大切にすることで、季節感を感じ、お客様により寄り添ったサービスを提供することを目的としています!」
係長は一息に言い切った。あたりが静まり返る。
千夏はちょっと残念な気持ちになった。部長もがっかりしたように眉を下げている。
「ふむ。君、節分の時も同じようなことを言っていなかったかね?」
そうなのだ。今係長が放った台詞は、節分時に部長と対峙した時に係長が言った言葉と、一字一句変わらない。それに、ハロウィンは伝統行事にカウントできるほど昔からあるものでもない。
だが、係長はさらに果敢に挑んでいく。
「その上で! 我々は商社であるがゆえ、エンドユーザー様と直接やり取りをする機会は滅多にありません。クライントのお客様、つまりエンドユーザー様が何を思い、何を必要としているのか。それに常に心を砕いているクライントの立場に立つことで、クライントにより良いサービスを提供できる。その疑似体験がこの『トリックオアトリート』なのであります!」
係長は熱弁を振るった。
千夏は感動した。
やればできる子だと思ってたんです、係長。
「ふむ。では君たちがコスチュームを着ていることにも、何か意味があるのだね?」
部長も千夏と同じ考えなのだろう。先ほどより言葉に力が込められている。
「もちろんです! いつもの自分とは違う自分を経験することで、知らぬうちに自分で設けてしまった『自分の限界』を打ち破るという意味があります。これにより、部下のリーダーシップスキルを伸ばすという狙いがあります!」
あっぱれや。
千夏は心の中で拍手喝采した。ささっと言い分けを考える係長はやはり頭がいい。
千夏はそおっと首を伸ばして係長の顔を見た。そしてうっとりと笑う。
係長は堂々とした無表情に見えるけど、微妙に目が泳いでいるのは必死に考えているからだ。
「うむ。面白い試みじゃないか。大いにやりたまえ」
部長は腕を組んでうんうんと頷いた。
ね? うちの係長、できる子でしょう?
千夏は自慢したくうずうずしてきた。後ろで張り詰めた空気を醸し出していた一行も、ホッとしたようだ。だらっと姿勢が崩れる気配がした。
「では社長室に行ってきなさい」
部長の一声で、一行は再びピシリと固まった。




