02. 通常通りの勤務、まずはジャブから
◆◇◆◇
ハロウィン当日。
千夏はいつもよりうんと早く出社して、係長の机の下に突っ込んであったデコレーションを引っ張り出してきた。
普段はさすがに人様のものを勝手に触ることなどしないが、今は緊急事態なのだ。
係長だって、本当は昨日の夕方に飾り付けがしたかったのだろう。でも部下のミス(三輪くんの「さーっせん! 取引先、怒っちゃいました」テヘペロ)の対応に追われて、それどころではなかったのだ。
この係長の頑張りを無に返してはならぬ。
千夏は決意を持って、係長のデコレーションを飾った。オフィス全体に満遍なく。もちろん係長の机の上は、感謝を込めてデカ盛りで。
心を落ち着かせるために、とっておきの紅茶を淹れる。ふうふうと湯気に息を吹きつけながら、千夏は何食わぬ顔をして自分のデスクで係長が出社するのを待った。
しばらくすると社員がまばらに入ってくる。
女子社員はオフィスに一歩足を踏み入れると「え」と一瞬立ち止まり、部屋全体を見渡してから、千夏の方をチラリと見る。女子は小さくサムズアップをして千夏に笑いかける。千夏は真剣な顔をして頷きを返した。
男性社員は何にも気づかないのか、いつも通り「おはよーさんー」と気の抜けた声を出している。
「おはよう」
係長の声に千夏の胸が高鳴った。うっかり紅茶を溢しそうになって、慌ててカップを握り直す。千夏も他の社員に合わせて、できるだけいつもと同じように「おはようございます」と挨拶をした。
係長は気づくかな。気づかないかな。
ドキドキしながら千夏は係長を目で追った。
一点集中型の係長は、前だけをまっすぐ見て歩く人だ。姿勢もいい。確か、部活で剣道をやっていたと聞いたことがある。
やっと予算が下りて新調した係長の椅子に座ろうとして、係長は歩みを止めた。椅子の上には、千夏がクレーンゲームで取ってきたデビルのぬいぐるみが座っている。黒色の椅子と同化して見えないかもと思ったけど、気づいてくれたようだ。
係長は、「え……」と戸惑った顔をしてちらりと千夏の方を見た。千夏はそれに気づかないふりをする。千夏は今、紅茶を飲むのに忙しいのだ、というふりをする。
係長はしばらくおろおろしていたが、やがてデビルちゃんを机の上に移して席についた。係長はいつも通りパソコンを起動させる。パスワードを入れようとして、肩がぴくりと震えた。
千夏はうっとりと頬を染めて目を細めた。スクリーンセーバーもハロウィン仕様に変更しておいたのだ。
ああ、困った顔、イイ。
他の社員も係長の挙動不審っぷりを横目で見ているが、みんな気づかないふりを貫き通す。三輪くんが吹き出しそうになっているところを、デキる後輩の嵐山くんがさりげなく三輪くんの口を塞いだ。
千夏の冷たい視線を受けた三輪くんは『お口にチャック』のジェスチャーをして黙った。が、また吹き出しそうになって机に突っ伏した。
こうして今日も一日、通常通りの勤務が始まった。
◆◇◆◇
そろそろ落ち着いたか。
千夏は決済書類を持って係長の元へと向かう。係長はちょうど電話を切ったところだ。
「係長、確認お願いします」
千夏は書類を係長に手渡した。係長が書類に目を通している間、千夏は係長の机の上を観察した。
係長の椅子に座っていたデビルちゃんは机の右側に座っている。それと対をなす様に左にあるのは、魔女のぬいぐるみだ。これも千夏がクレーンゲームで取ってきたやつだ。
ライトスタンドには骸骨の形をしたバルーンが垂れ下がっていて、時折、空調の風でゆらゆらと揺れている。
パソコンのスクリーンには、『HAPPY HALLOWEEN』の紙文字のデコレーションを飾った。
マウスにはマウスのシールを貼った。動かすたびに尻尾が引きづられて使いにくそうだ。来年は尻尾の短いものにしよう。
スクリーンセーバーも今朝のまま変えていないようだ。ジャックオーランタンが満面の笑み(なのかはわからないが)でスクリーンの中を飛び跳ねている。
これで怒らないんだもんな。係長、さすがだよね。
千夏は係長の懐の深さに感動する。
ああ、ついでに引き出しも開けてくれないだろうか。ぴょんと飛び出る蜘蛛のおもちゃを仕掛けてあるのに。
「うむ、問題ないようだな」
きっちりと書類に目を通した係長の声で、千夏は我に返った。
「ありがとうございます。……そういえば今日ってハロウィンですよね?」
千夏は係長がサインをしているタイミングでさりげなく言った。
「っ! ああ……そういえばそうだな」
係長はなんでもないふりをしてペンを走らせているが、サインが曲がっている。
いつも達筆なのに、と千夏は渡された書類の崩れた文字を、愛おしそうに指でなぞった。
「……お菓子をくれないとイタズラしちゃいますよ」
「え?」
「だから、ハロウィンです。トリックオアトリート」
「ああ、そうだな」
「どっちがいいですか?」
係長にお菓子をもらえたら嬉しい。でもイタズラできたらもっと楽しい。
千夏はワクワクしながら返事を待った。
「あー……」
係長は目を泳がせた。そして机の上にこれ見よがしにデカデカと置いてあったオレンジ色のプラスチック容器からお菓子をいくつか掴むと、千夏に差し出した。
「これを持っていけ」
千夏が受け取ったのは、目玉がぎょろっと飛び出ているグミだ。ジャッコーランタンの形をしたミニバケツの中には、ばら撒き用の小分けになったお菓子がぎっちりと入っている。
これも千夏が朝に準備したものだ。係長の机の下から拝借した、係長が自ら買ってきたお菓子たち。普通のお菓子と同じなのに、カラフルなハロウィンの絵が描いてあるだけで特別感が出る。
だから係長もついついいっぱい買っちゃったんだろうなと千夏は思っている。だって、すごくたくさん出て来たんだもん。
ちなみに、ばら撒き用お菓子の大袋は、もちろん捨ててある。係長のゴミ箱に突っ込むなんてことはしない。自分のゴミ箱にも、もちろん捨てない。バレちゃうから。きちんとゴミ袋に入れて、用務員さんのところまで持って行ったのだ。
千夏はお菓子をもらってほくほくだ。同僚たちもお菓子目当てにわらわらと集まってくる。いつの間にか係長の机の周りは人でいっぱいで、係長は普段よりモテモテで、ちょっと嬉しそうな顔をしている。
その姿を自分のデスクから見て、千夏はまた微笑んだ。




