01. 勝負まであと数週間
「おはようございます」
「おはよーっす」
ゆるっとした朝の挨拶がオフィスに響く。
連休明けの火曜は、みんないつもに増して気怠げだ。昨日の月曜日はスポーツの日だった。社会人ともなればスポーツをする人は少数派なんじゃないかと思うが、どんな口実であれ休めるのであればそれに越したことはない。
「おおおお、セーフ! やっべ。間に合ったあ!」
大きな声でオフィスに飛び込んできたのは、入社二年目の三輪くんだ。『俺、後輩ができたら色々教えてやるんすよ』とドヤっていたのに、早くも後輩に面倒を見られているオフィスのマスコットのような存在だ。
「三輪、お前な、そろそろシャキッとしろや。後輩が呆れてんぞ」
椅子に座ってコーヒーを啜りながら、週刊誌を読んでいるのは久保さんだ。
その表紙のグラビア写真は、会社で広げるのはややアウト目なんじゃないかと千夏は思っている。声には出さないけど。
みゆき先輩がそろそろキレそうなんで、正直なところやめていただきたい。声には出さないけど。
「さーっせん! でも、月曜が祝日だと調子狂いませんか?」
「それな」
わかる。千夏は心の中で頷いた。
月曜日が休みだと曜日感覚が狂うんだよね。ゴミの日とか間違えちゃうし、なぜか水曜日なのに木曜日のような気がしたり。『あと一日だ』と思っていたところで、あと二日も働かないといけないと気づく時のショックさ、お分かりいただけるだろうか。
「どうせなら金曜にして欲しくないっすか、祝日」
「それな」
三輪くんと久保さんがわいわい話している間も、デキる後輩の嵐山くんは三輪くんが脱ぎ散らかしたジャケットを丁寧に折りたたみ、三輪くんのパソコンを起動させてあげている。「サンキュー」という三輪くんの軽い扱いにも、笑顔で返事をする爽やか青年だ。
そんな部下の様子をパソコンをいじりつつチラチラと見ているのが、我らがエース、係長だ。いや、エースだと思っているのは千夏だけかもしれないが。
無表情・キツイ・実はロボットなんじゃないかとウワサされている係長だが、実はお茶目でイベント好きなことが発覚したのは、春先の節分のことだった。
業績が悪く、不運に不運を重ねたこの呪われたオフィスのことを心配した(のだろうと思われる)係長が、いきなり「豆まきをする」と言い出したのだ。
『何言ってんだ、こいつ』と主に男性社員にしらっとした目で見られていた係長だが、意外や意外、予想外に豆まきは盛り上がり、真偽のほどは確かではないが厄が振り払われたようで、今では我がオフィスは社内を鼻高々で歩けるほどの業績をキープしている。
そんな係長が、そわそわしてる。
係長ウォッチャーを自負する千夏としては、それを見逃すわけにはいかない。数週間の経過観察を経て千夏が辿り着いた結論は、『ハロウィン』だった。
あ、ちなみに千夏は係長の席の近くに陣取るただの一社員なので、説明は端折ることとする。
それより係長だ。係長が机の下にハロウィンのデコレーションをたんまり用意しているのを千夏は知っている。
それを見つけた時、千夏は「ああ、ようやく」と感動した。
本当は、係長は夏には流しそうめんをしようとしていたのだ。どこでって、もちろんオフィスで。
なんでそれがわかったかというと、係長が部屋の寸法をメジャーで測り出したからだ。そしてその手元には、綿密に計算された設計図。どの高さから、どの角度で竹を組み立てればそうめんが滑らかに流れていくか、試行錯誤した様子が伺える一級品だった。
さすが元エンジニア。
その大胆な発想。
夏の暑さでネジが吹っ飛んだそのアイデア。
細部にまでこだわるその姿勢。
千夏はもちろん応援するつもりだった。どのそうめんがいいか、調べ始めてもいた。それなのに。
係の中で話しているときに、うっかり千夏が同僚の男にその話をしてしまったのがよくなかった。そいつは直接係長に、『流しそうめんするんすか? 係長、まじウケる』と聞いてしまったのだ。計画がばれて慌てた係長は、『そんなことするわけないだろう! 会社で!』と言い返した。
その時の係長の『しまった』という顔が千夏には忘れられない。
まだ計画の途中段階だったのに!
係長は計画がきちんと実行可能なことを確信してから、周りに伝えたいタイプなのに!
今はデリケートな時期だったんだよ!
と、千夏は普段怒ることは滅多にないが、その時ばかりはその男に殺意が湧いた。その後に同僚に冷たくしたら、さすがに察知したらしい。
それ以来、『係長がそわそわしていても、放置、あるいは遠くから温かく見守ること』という不文律がオフィスで出来上がった。
ハロウィンはなんとしても成功させなければ。
千夏は拳を握ると、決意を新たにした。ハロウィンまであと三週間弱。勝負はもう始まっているのだ。
気合を入れて千夏は同僚の花梨を見た。花梨はちょっと困った顔をしながらも、うんと頷く。隣でみゆき先輩も『仕方ないわね』と肩をすくめた。他の女性社員もノリノリだ。大丈夫、こういうイベントは、女を味方につければ十中八九成功するのだ。文化祭だって、合唱コンクールだって、率先して回すのは女なのだから。
ふふふふふ。
千夏は朝礼のために部下に声をかけた係長を見ながら、書類で口元を隠して微笑んだ。




