ノックアウトQ 木村 久
中学卒業後、単身アメリカに渡ってボクシング修行した中谷潤人のハングリー精神は、大手ジムの庇護の下で大切に育てられた温室育ちのボクサーとは一線を画するものだが、無名のまま人種差別が当たり前の時代のアメリカのリングで男をあげた木村久も、先駆者として語り継がれるべきボクシング界のレジェンドである。
巷には傷痍軍人や軍服姿の復員兵が溢れ、まだ戦争の傷跡が色濃く残る昭和二十二年十二月、今日では漫画や古書愛好家にとって伝説的な月刊漫画誌として知られる『漫画少年』(学童社)が創刊された。
昭和二十年代初頭から次々と刊行され始めた少年・少女向け月刊誌は、娯楽に飢えていた子供たちから大歓迎され、ヒーロー物のテレビ番組がお茶の間を席巻する昭和三十年代中頃までは、子供たちにとって漫画雑誌こそが娯楽の王様だった。とりわけ人気が高かったのが手塚治虫の『鉄腕アトム』(少年・連載)や福井英一の『イガグリくん』(冒険王・連載)だったが、昭和二十年代の漫画雑誌はまだ漫画一色ではなく、絵物語やジュブナイル小説にもかなりの頁が裂かれていた。中でも絵物語は戦前以来の紙芝居文化の流れを汲んでおり、人気漫画に引けを取らないほど愛読者が多かった。
昭和二十九年の長者番付の画家部門で第一位となった山川惣治は絵物語作家の代表格で、戦前に『少年タイガー』(昭和七年)で紙芝居ブームの立役者となった後、昭和二十二年には『少年王者』(集英社)の大ヒットにより、絵物語作家としても不動の地位を築いていた。
その山川が満を持して『漫画少年』昭和二十四年八月号から連載を始めた『ノックアウトQ』は、戦後のボクシングブームに乗って彼の最高傑作と言われるほどの評価を得たが、この作品は一種の自伝的物語であった。
主人公の“ノックアウトQ”こと戸村久五郎は、山川の親友だった木村久五郎のことで、固有名詞を変えている以外はおおむね史実に基づいている。感化院に収監中にこの作品を読んで感激した梶原一騎が、後に『あしたのジョー』の原作を手がけたことはよく知られるところである。
木村と山川の出会いは関東大震災直後の大正十二年十一月半ばのことである。
岩手県花巻市から上京し、東京市台東区の写真製版所で丁稚奉公をすることになった木村は、すでにそこで働いていた福島県郡山市出身の山川と同い年のよしみで仲良くなり、終生の友情を結ぶことになった。
木村は品行方正で気も優しかったが、地区の素人相撲大会でも毎回賞品をかっさらってくるほど腕力も強かった。憂さ晴らしに地方出の職工たちに何かと難癖をつけてきた近隣の不良連中も、あらかた正義感の強い木村にのされてしまったという。
その後、山川と興味本位で覗いたボクシングジムに二人で入会したところ、センスのあった木村だけはメキメキと上達し、ほとんど初心者のまま出場した草試合でもKOで勝ってしまった。ビギナーの頃は無類の打たれ強さを武器に、執拗なまでのワン・ツーだけでプロのスパーリングパートナーに音を上げさせてしまうこともあった。
やがて木村の勇名は日本ボクシング界の母と謳われる荻野貞行に知られるところとなり、小林一三(阪急創業者)の実弟田辺宗英を会長とする帝国拳闘倶楽部(通称・帝拳)設立に当たって、師範の荻野とともに選手として招聘された。
大正十五年七月十七日、読売講堂で開催された帝拳創立記念試合において、助師範の佐藤東洋とのエキジビションでプロ初舞台を踏んだ木村は、約一ヵ月後の公式戦でも佐藤と引き分け、師範の荻野を唸らせている。
佐藤は著名彫刻家から作品のモデルの依頼が相次ぐほどの均整のとれた肉体美が売りで、昭和四年の帝展ではそのうちの二作品が特展に選ばれたこともある。見栄えが良くボクシングもスマートな佐藤は、後に日本フェザ―級王座に就き、モダンボーイたちの憧れの的になったが、当時の木村は一階級下でキャリアも劣っていながら、荻野の愛弟子と互角の勝負を演じて見せたのだ。
同年、十月二十二日、帝拳の海外遠征メンバーとしてサンフランシスコのリングに立った木村は、タイガー・ナポレオンを二ラウンドでKOし、現地の日系人たちから喝采を浴びた。十二月二十三日、初の十回戦で判定負けするまで五連勝(三KO)と気を吐き、その頃にはリングネームである久を音読みにした「ノックアウトQ」というニックネームが通り名となっていた。
翌昭和二年も引き続きリングに上がり、全て外国人相手に三勝(三KO)三引分という好成績を残す。
五月にはスパーリングで顎を骨折した佐藤と荻野が帰国することになったが、木村と吉本武雄はサクラメントの賭博場の支配人ジェームズ大石の好意でそのまま現地に残り、ハイスクールに通って英語を学びながらトレーニングを続けた。
木村が当時の日本人ボクサーの中では傑出した強打者として名を馳せるようになったのは、まだボクシングの基礎も出来上がってない段階で渡米し、タフな外国人ボクサー相手に実践形式で腕を磨く機会に恵まれたからだ。
昭和三年十月に一旦日本に帰国した木村は、後に初代日本ミドル級チャンピオンとなる山中利行を、体格差をものともせず四ラウンドKOで片付けると、足早に再渡米し、憧れのニューヨークのリングに上がるための実績づくりに励んだ。
かくして昭和四年十一月六日、日本人としては日系二世のジミー坂本に次いで二人目となるMSGの晴れ舞台を踏むことができた木村は、試合開始のゴングからわずか七秒でチャーリー・モラからダウンを奪うと、そのままカウントアウト。わずか十七秒でのKO劇は目の肥えたニューヨークのファンを仰天させた。
その後もハワイ、西海岸と拠点を移しながら昭和六年まで海外を転戦した木村の海外戦通算成績は十四勝三敗(十一KO)五引分とノックアウトQの名に恥じないものだった。
飛び跳ねるような軽いフットワークに堅固なガード、そして一撃必倒の右ストレートを武器にアメリカでもメインエベンターを張った木村の活躍ぶりは、遠く日本にまで伝わり、なかなか職業画家としての芽が出ず貧苦に喘いでいた山川にとっても大きな希望の光となった。
折りしも山川が描いた紙芝居『少年タイガー』が日本中の子供たちの間でブームとなった昭和七年から日本に主戦場を移した木村は、すでに選手としてのピークを過ぎており、あまり華々しい活躍ができないまま、二年後に二十六歳の若さで現役引退に踏み切った。
ベストウェイトはJ・フェザー級ながら、ライト、ウエルター、ミドルまで相手を選ばす戦ったが、一度もタイトルマッチに出場していないため、生涯無冠のままだった。アメリカでの実績からすれば、フェザー、ライト級あたりなら日本タイトルは言うまでもなく、東洋までは十分に射程圏だったはずだ。
同時期にアメリカ西海岸で活躍し『ノックアウト・アーティスト』の異名を取ったフェザー級の中村金雄とはライバル関係にあったが、帝拳が中村の所属する日倶(日本拳闘倶楽部)から袂を分って設立されたというゆきさつから一種の敵対関係にあったことが、中村対木村のKOキング対決が実現しなかった大きな要因だったと思われる。
もっとも数字だけ見れば、二十五勝一敗(二十一KO)一引分という中村のアメリカでの戦績は木村を遙かに凌いでいるが、ほとんどが西海岸でのローカルファイトだったため、世界的な強豪が集うニューヨークで揉まれた木村とは対戦相手の質が違う。このことは一九三一年度(昭和六年)の『エバーラスト年鑑』において、木村が日本人として初めて世界ランキング入りした(バンタム級二十五位)という実績からも明らかである。
東洋フェザー級チャンピオンとなり、一時代を築いたピストン堀口でさえ、一度も世界ランキングに入れなかったことを考えると、国際的な評価を受けた最初の日本人ボクサーである木村の実績は輝かしい。
酒と甘いものには目がなかった木村が引退後に一番嬉しかったのは、大好物の汁粉を好きなだけ食べられることだったそうだから、現役中はよほど自分を律していたのだろう。帰朝時には大歓迎を受けたほどの人気選手でありながら、浮いた噂もなく二十九年の短い生涯を独身で通した。
引退後は帝拳の助師範を務めるかたわら、立教大学ボクシング部のコーチとして学生の指導も行っていたが、昭和十二年四月一日、就寝中に心臓麻痺で急死した。
前日は花田陽一郎と玄海男のマニラ遠征の壮行会に出席した後、現役ボクサーの近藤巌らと夜更けまで麻雀に興じていたというから、つい半日ほど前までピンピンしていた木村の姿を目の当たりにしていた友人たちは、その日がエイプリルフールだったこともあって、死亡の知らせを聞いても、最初はみんなジョークと思って本気にしなかったそうだ。
現場を検証した警察さえ、あまりの突然死に不審を抱き、気の毒に最後まで一緒にいた近藤が殺人の容疑者扱いされる一幕もあったという。
通算成績(判明分) 二十四勝十二敗(十六KO)十一引分
現代のように階級が細分化されていない時代に、興行的な理由だけで1階級どころか2階級以上ウエートが違う相手と試合をしていたボクサーのタフネスには頭が下がる。幾らモンスター井上尚哉といえども、ウエルター級の日本ランカー相手ではスパーリングでさえ御免被るに違いない。ましてやヘッドギアなしの公式試合で何階級も上のボクサーと長丁場を戦えば、技術力でいくら勝っていても、耐久力が違いすぎ、力負けするのがオチである。そういうハンデをものともせずに異国のリングで戦い続けた木村は、アメリカの日系人にとって、現代の世界チャンピオン以上に誇らしい存在だったことだろう。