第二章
──新型エンジン「MK9」は、まだ紙の上にしか存在しなかった。
だが、それを支える“整備の地盤”は、すでに動き始めていた。
台湾・高雄。海風の吹く南の島で、技術者たちと整備士たちが静かに集い始める。
戦争の裏で進行する、もうひとつの作戦──それは「稼働率九割」を掲げた、整備の戦いだった。
台湾・高雄の港に、重機の音が響いていた。
まだ蒸し暑さは本格化していない。だが潮風はぬるく、空気には鉄と油の匂いが漂っていた。
「ここが、航空技術学校になるのか……?」
海軍技術少佐・桐原 一馬は、白い防塵帽を押さえながら、仮設足場の上で周囲を見渡した。
港湾倉庫を改修して建設される、南方航空整備学校・高雄分校。
その敷地は、旧海軍倉庫と滑走路予定地を含めて、東京ドーム10個分に達していた。
だが、見えるのはまだ土煙と建設資材だけ。
パイロットは目立つが、整備士の努力が語られることは少ない。
それでも、戦争は整備で勝つ。──それが桐原の信念だった。
「将来的には、ここでエンジンの実地試験も行う。戦時体制になれば、内地からの部品輸送だけでは間に合わんからな……」
その声に、隣の若い士官が苦笑する。
「少佐、また“南方航空主力論”ですか」
「笑うな。お前もすぐ思い知るぞ。前線に壊れた機体が戻ってくる。それを直して再び飛ばせるかどうかで、空は決まる」
桐原はポケットから一通の書簡を取り出す。
差出人は、名古屋の三菱技術部、山下 衛技師。
《二列十八気筒空冷エンジン案、概要図添付。整備性確保を最優先設計とする》
──整備性を語る設計者など、珍しい。
桐原は直感的に、山下という技師に可能性を感じていた。
「この男のエンジンを、この台湾で試してやりたい」
彼は書簡を折りたたみ、地図の一角を指差した。
「ここに試験飛行場、奥に補修ライン。整備訓練コースは滑走路と併設。各部品の保管は分散型で、爆撃対策も万全にする」
目指すのは、戦時における“稼働率九割”の維持。
それは、機体の性能ではなく、“整備の質”によって達成される数字だった。
***
一方、名古屋──。
山下 衛は、再び設計図の前にいた。
桐原少佐から届いた返信には、試験飛行場と整備学校の建設計画、そして「初期型試験機の派遣依頼」が添えられていた。
「……やれる、かもしれない」
彼は息をついた。
新型空冷エンジン「MK9」は、まだ試作に入ったばかり。
だが、すでに三菱内部でも少数の技術者が開発班として動き始めていた。
「中島は“誉”で勝負する。でもあれは出力優先。整備性は後回しだ。こっちは違う──徹底的に現場に寄り添った設計を」
山下は指差した。
シリンダーヘッドの冷却構造、左右系統の点火装置、そして点検窓の位置。
すべてが、「実際に整備する兵士」を想定して組まれていた。
そこへ、三菱の整備主任・黒川が入ってくる。
「おい山下、お前のエンジン図面……軍から問い合わせ来てたぞ。『訓練機転用案はあるか』ってな」
「訓練機……?」
「ああ。台湾に送る試作機の一部を、訓練用に転用したいらしい。要するに、整備兵の実習教材に使いたいってことさ」
山下は驚いた顔で黒川を見る。
「それって……訓練所がもう、動いてるってことですか?」
「らしいな。名前はまだ仮称だが、『高雄整備学校』って呼ばれてるそうだ」
その瞬間、山下の中で、設計の意味が明確になった。
──これはただのエンジン設計じゃない。
──“整備思想”そのものの設計だ。
***
1940年末、台湾・高雄。
訓練学校では初期生二十名が入校し、早くも「橙色のエンジンカウルをもつ試作機」が組み立てられつつあった。
それは、やがて“橙色の小隊”と呼ばれる機体の前身である。
まだ誰も、その名が歴史に残るとは知らなかった。
だが、戦争はもうすぐそこまで来ていた──。