第一章
──これは、もしも日本に“もう一つのエンジン”があったなら。
戦争の形は、わずかに違っていたかもしれない。
名古屋の設計室で動き出したひとつの理想と、南の島で立ち上がる整備基地。
やがて空を翔けたのは、橙色に塗られた謎の試作機。
これは、戦火に埋もれた幻の空冷エンジン開発記録と、
それに賭けた男たちの、静かな戦いの物語である──。
名古屋の春は、まだ肌寒い風が吹いていた。
三菱重工航空機製作所の一角、設計第3課の図面室には、淡い陽が斜めに差し込んでいる。
古びた木の机に広げられたドラフターの上では、エンジン断面図が赤と青の鉛筆で塗り分けられていた。
「金星は……もう限界だ」
ぽつりと呟いたのは、山下 衛、二十七歳。
大阪工業学校を卒業し、三菱に入って五年目。空冷エンジンにすべてを賭ける若き技術者だった。
手元にあるのは、現在の主力エンジン「金星型」の整備断面。
優秀なエンジンだ。出力も十分、整備性も悪くない。だが──。
「アメリカはすでに二列十八気筒、排気量四〇リットル級の新型に着手しているらしい……」
一五〇〇馬力では足りない。
南方の湿地で、燃料品質が劣化し、整備も不十分なまま、果たしてこのエンジンで戦えるのか。
不安が、現実になりかけていた。
山下は図面を巻き上げ、革のケースに押し込むと、設計課長・安井の席へと歩いた。
「課長、少しお時間をいただけますか」
「おう、どうした。大型機の補強案の件か?」
「いえ。次期エンジンについて、提案があります」
「……また“あの話”か」
安井の顔に苦笑が浮かんだ。
二千馬力級の新型空冷エンジンを構想していることは、設計課では半ば噂になっていた。
「夢を描くのは自由だがな。今は艦戦や艦爆が優先される時期だぞ。お前もわかってるだろう」
「それでも、やるべきだと思うんです」
山下は静かに図面を広げた。
二列十八気筒。冷却フィンの再設計。左右独立の点火装置。モジュール構造による整備簡略化。
徹底的に実用性と信頼性を追求した、実戦で使えるエンジンだ。
「整備兵が工具を投げずに済む構造にしたいんです。焼き付かない、壊れない、でも戦える──そんなエンジンを作りたい」
安井は数秒、黙っていた。そして、ぽつりと漏らした。
「……まるで整備兵の息子みたいなことを言うな」
「父は、軍属でした。海南島で、整備中に亡くなりました。オイル火災でした」
空気が一瞬、重くなった。
だが安井は、図面を指でトントンと叩きながら頷いた。
「分かった。企画書にまとめて出せ。通るかどうかは知らんが、提出は許可する。あと──」
彼は一枚の資料を取り出した。
「台湾・高雄で、海軍が動いている。整備学校、飛行試験場、工場の設立計画がある。お前のエンジンが試される場所だ」
「……台湾に?」
「ああ。整備性重視の思想と噛み合えば、海軍技術部が協力する可能性もある。ちゃんと設計しろよ、山下」
山下は深く頭を下げた。
心の中で何かが動き始めるのを感じていた。
──これは、戦争を変えるエンジンになる。
***
そのころ、台湾・高雄の港湾地区。
倉庫の一角に立つ、海軍技術少佐・桐原 一馬は、軍帽を脱いで海風を浴びていた。
「ここに……本当に整備学校を作るのか」
目の前には、埠頭と古い倉庫が広がるだけ。だが、ここが南方航空整備の拠点となる予定地だった。
戦争が始まれば、整備は“戦力”になる。現地で修理し、再出撃させることができるかどうか──その差が、戦局を分ける。
「日本のエンジンは、信頼性ではアメリカに劣る。だが、それを補う“思想”が必要だ」
桐原は、軍用手帳の一頁をめくった。
《三菱技術部・山下 衛技師。金星後継案。要接触》
彼の知らぬ場所で、同じ思想を持った若き設計者が動いている。
もし彼と協力できれば──日本の空は、変わるかもしれない。
***
名古屋と高雄。二人の技術者の距離は、数千キロ離れていた。
だがその年、昭和十四年──一九三九年。
世界が戦争に向かって歩みを速める中、二つの信念が静かに交わり始めていた。
やがてそれは、「橙色の小隊」と呼ばれる伝説を生むことになる。
まだ誰も、それを知らなかった――。