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二つの球


 二つの球


 人間が歩く動作にはどのような性質があるだろうか。

 三軒橋という珍しい名字の友人が、今日訪ねてきてビールを飲みながら呈した疑問である。

「空知さん。私はね、普段自然に行っていることを意識的に解析してみることが意外にも面白かったという話をしたいのだよ。君は無意識に呼吸をするね。机の上にあるそれを手に取るのに、一々位置を計算しないね。これを計算してみたのだよ」

 云われて、はぁそうかと缶ビールを手に取ってみた。なるほど確かに。そこに何らの計算も発露しなかった。言われてみれば不思議である。

「歩くというのはね、いいかね。まずそうだな、肩幅に足を開いた人間を想像しましょうや。その人間が目標物をまず決める。次に、軸足を決める。さぁ歩き出すぜ。腰が軸足の方へ少し移動する。軸足でない足の踵が僅かに上昇する。あるラインを超えると爪先も地面から離れる。そのときから回転が始まるのだ。ええ、回転だよ。二つの回転だよ。まずは軸足を基準とした体全体の回転だ。これは身体の正面が目標物に向くような何割かの回転だ。それと同時に足の指の付け根を軸に、膝が曲がるような回転が起きるのだ。軸足でない足は、その回転を打ち消すように回転し、着地点へと達する。同時に腰も若干下降して着地点方向へ進む。これが一歩の全貌さね」

 私は彼の言について、脳内での映像化に挑戦していたが、半ばで断念した。酒の所為もあるだろうが、小難しくて追い付かない。

「その後にどうなると思うね」彼はぷいと顔を向けてきた。

「その後にねぇ」と私は相槌を打ち、話を理解していないことを悟られまいと繕った。「その後にぃ、あれだ。また一歩が同じようにして始まるのでしょう」

 三軒橋はにっこりとして、ビールを煽った。私のつまらぬ返答に満足したらしき表情を浮かべている。

 暫く沈黙していた私たちの間隙に、自転車の接近する音が差し挟まれた。三軒橋の弟者が仕事場から帰ってきたのである。若者は、庭先で昼間から飲んだくれる私たちを見て、呆れたような笑みを浮かべたものだ。彼は「おうい」と手を上げた。私も缶ビールを掲げる。

「一歩が始まるとのことだが、どのように」

「どのようって、そりゃあ、そりゃあ、あれですわな」

「空知さん、酒に負けないでいただけるかね? 次は軸足が変わるのだ」

「あぁ、そうなのですね」

「何故だね?」

「何故ってあなた、そりゃあ……」

 うむ、何故だろうか?

「軸足が変わるのは、目標物へ近付くためであろうが。違うかね。では、何故に軸足を変えねば目標物へ近付けぬと思うね?」

「それァ、えぇと。軸足というのは、その場から動かぬからですよ。位置を変えるのは、腰と動く方の足ですな?」

「エクセレント! そういうことだ。さて、今から最も難しい話をするよぉん。腰が僅かに下降すると前述したが、どのくらい下降するのか。アルコールで麻痺した脳みそ使って思考せよ」

 嫌ですよ。

 と言いそうになったが、考えてみることにしよう。暖かな太陽光に照らされ、小鳥の囀りをバックグラウンドミュージックに、私は美女が歩くさまを真横から眺める想像をした。彼女の腰は、前進する度に少し下がっている……だろうか? 先入観を捨てたい。いや、自分で歩いてみよう。

 私はおもむろに立ちあがると、フラフラと芝生を踏んでみた。腰が下がっているという気はしなかった。

「下がりませんよ」

「小股だからだ。大股で歩くんだ」

「……おお、下がったぁ。なんでこんなことに興味を持つんですか」

 私は三軒橋の顔を見遣った。漆黒のサングラスが、彼の表情を読み難くしている。長髪の似合う男だ。

 小鳥が、ピチュチュチュチュと鳴いた。

「もっと気が付くことがあるだろう、え?」

「なんですよ」

「大股で、五歩くらい歩いてみ」

 意外ときつかった。一歩踏み出すほどに身体がズンと衝撃を受ける。少なくとも酒を飲んでやることではない。しかし三軒橋の言いたいことは解った。

「軸足へ腰が移動する際に、腰が上昇しますな」

「エェクセレンッ! その調子だ、空知さん。次は、どのくらい下がるか、上がるか、だ」

 それから一分ほど庭を大股小股織り交ぜ歩き回った。ここはそぞろに鬱蒼とした林に囲まれた三軒橋の実家である。こんな所で幼少から育つのは中々の経験だ。脚にとげとげがたくさん付いていた。靴の中にも小石や虫が入った。

「わかりゃあしませんよ。物理の問題ですかな。わたしゃあ、学はないんだから、お手柔らかに」

「言い訳するでない。俺だって学なんかねぇさね。でも必死に考えたんだよ。答えを言うぜ。二つの球なんだよ、これが」

 私はもう数歩、大股で歩いた。

 腰の上下運動……。

 私の人生において、これに取り組むことはどんな価値を齎すのだろうか。

「もういい! 戻るんだ、空知さん。さぁビールを飲もう。もっと飲もう」

 私たちはもっと飲んだ。

 途中からやんちゃな弟さんもやってきた。

「兄ちゃん、酢、ある?」

「あぁ、切らしてるな。買ってこいよ」

 弟さんはまた去った。

 三軒橋はムハッと息を吐いた。そろそろ二つの球について話し始めるだろう。

「軸足が地面に付いたまま、腰はどういう移動ができるのか想像せよ。軸足が地面に接している部分が球の中心点であり、そこから腰までの長さが半径なのだ。もっと言うと、地面と接するのは踵なのか爪先なのかという分岐がある。球を一つ想像できたかね? もう一つの球の話をしようか。それは足の着地点を中心として、腰から軸足までの長さを半径とする球である。この二つの球が腰の上下、というより移動地点を決定するのだ」

「ありますよ、今。私の頭の中に球が二つあって、女の人が、足の長い女が歩行モーションをとっている! 続きを早く!」

「焦るなよぉ。へへ。いいかね、三次元空間を思い浮かべるのだ。女はZ=0のⅩY平面上を地面として歩いている。腰はZがプラスの領域にある。二つの球に集中だ、空知さん! 二つの球は重なっている。これが重要だ。重なっていると円が作れるだろう? その円の方程式におけるZの最大値が知りたいのだ。その点が、その点がァ、腰の移動先だ。そしてそれは球の中心と半径の関係から、腰を上下させるのだ」

「……三軒橋さん」

「どうした」

「つまみが食べたいです」

「二つの球はどうした」

「意味が分かりません」

「クッ」

「だってわかんないんだもん」

「まぁいいさ。二週間くらいかかったからな。これを考えるのに。君がこの数分で理解しやがった日にぁ、俺もムカついちまうかもな。いやそんなこたないか。ああぁ、もっとビールを飲みたい。いや日本酒だ。清酒が飲みたい」

 家に帰ってから、ハバネロを食いながら三軒橋の言っていたことを3DCGソフトで再現してみた。彼の言っていた通りだと判明した。彼は何でこんなことを、酒を飲みながら語ったのだろうか。漆黒のサングラスをかけて、伸ばした髪を撫でて、庭先で、太陽光を浴びながら……。

 空恐ろしい気分になった。




















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