節分の鬼ができるまで
その男は生真面目な男だった。
よく働き笑顔も絶やさない。
しかし金には縁がなく、貧しい生活を送っていた。
「何だって・・・?」
そんなところに、勤め先が潰れてしまったという知らせを受けた。
今までの給料どころか、明日からの収入も無い。
新年を控えた年末、その男の生活は窮地に陥った。
真面目なだけでは食べていくことはできない。
新年早々、その男は新しい仕事を探すことにした。
しかしこのご時世、仕事を探すと言っても簡単にはいかない。
どこへ行っても新しい仕事など見つからない。
特にその男は生真面目であるところ以外は特別なものは持ち合わせていない。
「くそっ、新しい仕事なんてそうあるはずもないか。」
正月を楽しむ人々の中で、その男は俯きながら歩いていた。
仕事は見つからず、僅かな蓄えも尽きて、明日の食費にも困ることになった。
仕事を失い蓄えも失ったその男が取った行動は、非合法なものだった。
最初は、自動販売機の釣り銭を盗んだり、落とし物を懐に仕舞い込んだり。
それですら、生真面目なその男には辛い決断だった。
「神様仏様、僕を許してください。
こうでもしないと、食べていけないんです。」
正月の初詣もできず、それどころか神社で金を拾うような状態。
それは人様のものを盗むに等しい行為。でも背に腹は代えられない。
そうしなければ、その男は今日食べる食べ物も用意できないのだから。
男は心の中で涙を流しながら、落とし物を盗んで金に替える生活を続けた。
釣り銭を盗んだり、落とし物を盗んで金に替える生活。
それはその男の心を徐々に曇らせていった。
金が無いのだからしようがない。
仕事がないのだからしようがない。
誰も助けてくれないのだからしようがない。
そんな大義名分とも言い訳ともつかない言葉が、
その男の頭の中を満たしていった。
「どうせ人様のものに手を付けてしまったんだ。
もう少し高いものを盗んだとしても、変わらないだろう。」
そうしてその男は、より悪質な盗みをするようになっていった。
店先の売り物を盗んだり、人の持ち物を盗んだり。
それはもう落とし物を盗むとかいう範疇ではなく、れっきとした盗みだった。
売り物は金に替えずとも自分で使ってもいいし、
人から盗んだ鞄からは現金が入った財布を手に入れることができた。
「へっへっへ、これなら食事だけじゃなく、新しい服も手に入れられそうだ。」
その男は真新しいコートに身を包み、
盗んだ財布に入っていた金で温かい食事にありついていた。
正月も過ぎて一月も過ぎようかという頃。
その男はもう人のものを盗む生活が身についてしまっていた。
元々は新しい仕事が見つかるまでの、その場しのぎの悪事だったはず。
それが今では、仕事を探すことも忘れ、盗みに没頭していた。
その男は生真面目だが盗みの才能を持ち合わせていたようで、
盗みを見つかったり咎められたりすることもなく、
盗みによる収入だけで生活していけるほどに上達していた。
「あははは、盗みなんて簡単なものだ。
どうして今まで盗みをすることに気が付かなかったんだろう。
安い仕事で辛い思いをしなくとも、こんなに楽に生活できるのに。」
もう既に、その男は、盗みをすることに罪悪感を感じなくなっていた。
悪事は一度手を染めると抜け出すのは難しい。
その男は今や、盗みが生活そのものになっていた。
道端の小石を拾うように盗みをし、
働いていた頃よりも豪勢な衣食住を満喫していた。
何一つ不自由のない生活、
かと問われれば、そうだとは返事はできない。
なぜなら、後ろ暗い生活をしていれば、人と交流することはできない。
貧しくも働いていた頃は、それなりに知人友人もいたものだが、
それも今ではすっかり交流は途絶えてしまった。
「今、どうしてるの?」
そう尋ねられてしまったら、上手く誤魔化せるとは限らないから。
万が一、盗みが見つかるような事があってはならない。
だからその男は、友人も作らず、誰とも交流しない生活を続けていた。
金には不自由しないが、人とは関われない生活。
それはその男に思ったよりも大きな影響を与えていた。
愚痴をこぼそうにも相手がいない。
悲しい時に慰めてくれる人もいない。
なぜなら、金はいくら盗めても、人は盗んでくることはできないから。
友人も恋人も、盗んでくることはできない。
盗みで生計を立てている限り、絶対に手に入らないものだから。
だからその男は、金には不自由しない代わりに、人に飢えていた。
「誰でもいい。僕の話を聞いてくれ。」
普通とは違う生活をしていると、普通とは違う悩みも溜まるもの。
しかしそれを打ち明ける相手は盗みでは手に入らない。
折しも時節は二月に入ったばかり。
世間では節分を控えて緩やかなお祭りムードの最中だった。
その男は金に困り、盗みに手を染めた。
その結果、金に不自由することはなくなった。
しかし、世の中は金だけでは手に入れられないものもある。
その男は今、人に飢えていた。
友人でも恋人でも誰でもいい。悩みを聞いて欲しかった。
でもその男の悩みは普通の相手には話せないものばかり。
盗み仲間など簡単に作れるはずもない。
恋人ともなればなおさらだ。
何しろ身元を明かすわけにはいかないのだから、
医者にすら満足に掛かれない生活。
人は離れていき、悩みは溜まっていく一方。
今日が何月何日の何曜日なのかもわからないほど憔悴した状態だった。
そんなある日。
その男はふらふらと目的もなく町を彷徨っていた。
懐の金は十分、今日すぐに盗みをする必要はない。
にも関わらず、その男は、人寂しさに町を歩いていた。
「誰か、助けてくれ。僕の話を聞いてくれ・・・。」
虚ろな口元からは小声でそんな言葉が漏れていた。
しかしその男の悲痛な叫びは、町の喧騒にかき消されていた。
足元も覚束ない状態で歩いていると、場所は繁華街の裏手の静かな住宅地。
やがてその男は気分が悪くなり、その場でしゃがみ込んでしまった。
「誰か、誰か、僕の話を聞いてくれ・・・!」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
その男が俯いて涙を流していると、天から声が聞こえてきた。
「あのう、大丈夫ですか?」
その男がハッと見上げると、そこには若い女が立っていた。
その男が道端にうずくまっているのを見て、声をかけてきたようだ。
その男にとっては、しばらくぶりの他人との会話だった。
「あのう・・・?」
首を傾げるその若い女に、その男は必死にしがみついた。
まるで溺れる者が藁を掴むように。
ただの行きずりの若い女が、その男にはまさに女神か菩薩様に映ったから。
「僕の!僕の話を聞いてくれるのか!?」
必死な形相のその男に、しかし若い女は、
突然抱きつかれたことに拒否反応を示した。
「何をするんですか!離してください!」
「話すとも!僕の話を聞いてくれるのか!」
必死のふたりは会話が噛み合わない。
そうしてふたりが押し問答をしていると、ふと、
男の懐から何かがこぼれ落ちた。
それは、刃物、盗みに使うための道具だった。
その男が刃物を持っているのを見て、若い女は悲鳴を上げた。
「誰か助けて!この人、刃物を持っています!襲われる!」
若い女はその男を突き飛ばし、必死で逃げていった。
「待って!これは違うんだ!僕は話がしたいだけで・・・!」
その男は咄嗟に落とした刃物を拾うと、若い女を追いかけて走り出した。
人影の少ない住宅地を、若い女が懸命に逃げている。
その後ろからは、必死の形相の男が、手に刃物を持って追いすがる。
「誰か助けて!殺される!」
「待って!僕の話を聞いてくれ!」
ふたりの声はしかし住宅地では誰にも届かない。
逃げる若い女、追う男。
やがてその男が若い女に追いつく寸前。
その男は急に足を滑らせて地面に激しく倒れ込んでしまった。
どこからか、子供の無邪気な声が聞こえる。
「鬼は外、福は内!」
見ると、その男が倒れた足元の地面には、
節分の豆撒きに使う豆がいくつも転がっていた。
焦燥したその男には気が付かなかったが、今日は節分だった。
節分で撒かれた豆が地面に落ちていて、滑って転んだらしい。
見ると、若い女はもう遠くへと逃げてしまいそう。
立ち上がろうとして、気が付いた。
その男の胸には、さっきまで手にしていた刃物が、深々と刺さっていた。
身体に力が入らない。立ち上がるどころか、地面に仰向きに倒れてしまった。
早く追いかけないと、逃げられてしまう。
しかし深手を負った身体に力が入らない。
地面には、じわじわと赤い水たまりが広がっていく。
先程の若い女が落としていったのだろうか。
地面には小さな手鏡が落ちていて、その男の姿を映していた。
顔はまるで鬼の形相で、血と欲にまみれていた。
そうしてやっと、その男は自分のしていたことに気が付いた。
その男は地面の血溜まりに浸かる豆を一粒、指先でつまみ上げた。
「そうか、今日は節分か。
だからこんな目に遭ったんだ
僕はいつから鬼になってしまったんだろう。
ただ僕は、仕事が、友達が、欲しかっただけなのに。
それがいつの間にか盗みを犯し、今は人を襲おうとした。
こんな鬼のような僕が、節分で祓われるのは当然だ・・・」
やがて遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
その男を救助する救急車ではない、捕まえるためのパトカーのサイレンが。
生真面目なその男は、知らず知らず鬼と化し、
たった一人、ひっそりとこの世から去っていった。
終わり。
人当たりの良くない人もいるものですが、誰しも行動には理由がある。
善良な人が鬼のようになっていく様子を書きました。
節分は鬼を退治してくれるけども、鬼を救ってはくれない、
考えようによっては残酷な行事だと思いました。
お読み頂きありがとうございました。