夏草恋花揺らり風
翌日、図書室に入ってきた莉音は両手に紙袋を抱えていた。
「はァあっつい!」
ドスンと机に紙袋を置くと、またしてもエアコンの操作部に直行する。
「来る前からつけとこうか?」
「いや、怪しまれるからそれはいいです。職員室で管理されてるかもしれません。」
「そっか。この荷物なに?」
「それは恋愛漫画です。」
「恋愛漫画?」
話を聞くと、今日の午前中は学校に来られないという朱理の代わりに、恋人としての英才教育を施すよう頼まれたとのことだった。
そういえば僕、そのために作られたんだった。忘れかけた自分の使命を全うすべく莉音に提供された少女漫画に目を通す。
大体3時間かけて12冊ほど読んだ。
「これを実践すればいいの?」
「はい。ちょっとやってみてください。」
「本当に?これ大丈夫かな。」
「大丈夫です。どうぞ。」
莉音の頬に手を添えて顔を近づける。
「は?」
顔が近づくにつれ、昨日の身体が強張るような感覚がゆっくりとやってくる。
「え、ちょ、や。」
やはり顔の近さか?昨日は莉音か一気に距離を詰めてきたから急激に固まったのかも知れ――。
「とうっ」突然、莉音の貫手が僕の喉を穿った。「っおい!何しようとしてんですか!」
「キ、キスを…ゲッッホ」
苦しい。呼吸器ができ始めているのか。
「なぜそんなことを。」
「キスしたあたりからスタートだったし。」
莉音は机の上のマンガを見遣る。
「…アレはそうしないとヒロインの命が危なかったでしょう!止むを得ずしたんですよ!彼女だってあの時点ではしたくなかったんですから!」
あのヒロイン、したくないにしても抵抗もなさそうだったけどな。
それはそうと怒らせてしまったようだ。やはり唐突にキスは良くなかったか。いや、それは莉音が自分でやれと言った事だしな。作品への理解が足りなかったのかな。
「なんで怒ってるの?」
莉音はこちらを睨んで数秒、はぁ、と諦めたようにため息を漏らした。
「中止です。」
「え?」
「少女漫画作戦は中止です。考えてみれば現実で真似すると色々とマズいです。」
「そ、そっか。」
「ちょっとマイルドに、こう。」
「うん。」
新たな作戦を立てて入念な会話の訓練をしていると、朱理がポテトチップの袋を開けながら図書室に入ってきた。
「おっすー。どう?成長した?」
「あ、先輩。もうバッチリですよ。」
「ほう。立派な彼氏になったかね。」
「そりゃもう。ゆけっ、レイ。『天気の話』。」
莉音が朱理の方を指差す。入念な会話の訓練というのは、とりあえず相手に不快感を与えず当たり障りのない話題の振り方の練習のことだったので、あまり意味がないだろうな、とは思いつつも先程言われた通りにやってみる。
「やぁ、朱理。今日はいい天気だね。」
「︙。」朱理は一瞬きょとんとしてから、呆れた様な顔になって鼻で笑って答えた。「︙晴れをいい日と言えるのかしら。熱中症で倒れる人も増えるのに。曇りのがむしろいい天気かもね。」
「︙。」
今度は僕が黙ってしまう。想定外の返答に用意していた続きの会話の計画は全て水泡と帰し、莉音の方を見る僕。と、目を泳がせる莉音。
「手強いですね。『褒め』っ。」
コレもさっき教わった。『とりあえず何か褒めておけ。』である。
「えっと、可愛いね、その、白い靴下。」
「ありがとう。学校指定の靴下なの。コレに決めた人に感謝しなきゃね。あ、莉音も同じの履いてるよ。」
「︙。」
後ろを振り向くと、莉音が頭を抱えている。僕か?僕が悪いのか?今。
「3、2、1︙」
朱理が謎のカウントダウンを始める。視線を戻すと、中指と親指を曲げた朱理の手が僕の頭あたりに掲げられていた。
「ポカン!」
弾かれた朱理の中指が僕の額を穿つ。
「うっ。」
「レイは訳の分からない技を綺麗さっぱり忘れた。」机の方に歩いて行った朱理は莉音の漫画を一瞥した。「ふふ、この漫画読ませて彼氏っぽいこと教えようとしたのね。」
「うまくいきませんでしたけどね。」
「当たり前でしょ。理科教える時に哲学の教科書見せるようなもんよ。漫画と現実は別物。コレだから少女漫画脳は。」
「せ、先輩だって彼氏いた事ないくせに!」
小馬鹿にしたように笑う朱理に莉音も反撃を繰り出す。
「私はアレよ。ドラマとか見てるし。」
「似たようなもんじゃないですか。」
「告白されたことだってあるもん!」
「えーッ!信じらんない、誰にですか!」
「信じらんないって何さ!」
言い合いは例のごとくお互いが疲れるまで続きそうだった。長くなりそうだし切っちゃっていいかな。
「ねぇ、今日は何するの。」
「ん?あ、今日?今日は屋上へ行きます!」
「はァー?暑いじゃないですか。」
「青春っぽいじゃん?」
「先輩も大概マンガ脳ですよね。」
「漫画じゃないですぅ。昨日見た動画でそんなシーンあってさ。ほれ、鍵も借りてきたから。」
「動画て。似たようなもんじゃないですか。」
「こっちのがなんか大人。ほら、サイダーぬるくなっちゃうから。」
「えっサイダー!」
サイダーに釣られて、莉音は意気揚々と朱理に付いて行った。食事の仕方も相まって食い意地張ってそうだな、というイメージが濃くなっていく。
3階から屋上へ続く階段が少し薄暗いのもあって、閉じた鉄扉の窓から差し込む光がやたらと眩しい。ガチャリ、と鍵を開けて朱理が扉を押した。
夏の光を閉じ込めた水槽に穴を空けたみたいだった。ざばん、と眩しい光が校舎へ流れ込んで、外の様子が見えてくる。
青い、青い空だった。同じ空のはずなのに、2階から見た空とまるで違う。地平線辺りはほとんど白い。上に行くにつれて水色をさらに薄くしたような色から濃くなっていく。
「貸し切りだねぇ。」
「そりゃ夏休みですからね。」
普段は人が出入りしているのだろうか。古い校舎だからあちこちにヒビや塗装の剥がれが見られる。
「んん。良ぃ〜い空っ。」
「風ありますね。思ったより涼しい。」
朱理が正面を指差す。
「ねぇレイ、見て。あれが空色。」正面に向けた指を、今度は上に掲げる。「上が天の色と書いて天色。」
「空と、天。」
「そ。」
「おーおー、走ってますねぇ皆。」
莉音が金網に手をかけてグランドを見下ろしている。
莉音の横まで行って見てみると、グランドの楕円の中を運動部が走って行ったり来たりしていた。
「何してるの?」
「んー?」朱理もサイダー片手に莉音の隣に歩いてくる。「ありゃサッカー部だね。スタミナつけてんでしょ。」
ぷしゅっ、と音を立ててサイダーの蓋が開いた。しゅわしゅわと粒立った泡の弾ける音が涼しげだ。
「あ、サイダー!︙一本?」
「うん。」
「え、私らのは?」
「え?無いよ?」
「︙。」
「︙。ごくっ。っぷはぁ〜ッ。」
何食わぬ顔で一人ペットボトルを煽る朱理。一瞬くしゃっと歪めて、気持ちよさそうに息を吐く。
「︙。」
僕らは顔を見合わせる。莉音がニコリと笑って、次の瞬間。
「フンッ。」
振り向きざまに朱理の手からペットボトルを奪い取ると、ぐびぐびっと喉に流し込む。
「んぁっ、私のサイダー!」
「︙ッ!ぷはあ〜ッ!」
その『ぷはぁ〜ッ』って言わなきゃいけないルールなの?
「はい、レイも!」
「ねぇ私のなんだけど!」
開けて間もないサイダーのボトル。湧く泡と莉音の手を伝う結露の雫が、太陽の光をつかまえてキラキラと光っていた。
「ほーら!」
光の粒に見惚れてか、僕の体はまた固まってしまっていたらしい。莉音のひんやりとした手が僕の手を掴んでボトルを握らせた。
「はぁ。まぁいいや。飲んでいいよ。」
今のは命令?それとも許可だろうか。何にせよためらわれたが、命令と解釈して2口、3口いただき朱理にペットボトルを返却する。あ、『ぷはぁ~』言い忘れた。
「反応薄いですね。炭酸初めてでしょ?」
「うん。シュワシュワするね。」
「まぁこれそんな強くないし。あーぁ。もうこんなに無くなっちゃって。」朱理が半分以下になったボトルを顔の前で振った。サイダーを透過した陽の光が不規則な光の筋を作って朱里の顔に映る。「しかもレイのファースト間接キス莉音に奪われたんですけど。」
「間接キスて。今どき小学生でも気にしませんよ。」
「別の意味で気にすんじゃない?ここ最近コロナで間接キスなんか言語道断だもん。」
「たしかに。」
「しかしまぁ、ずっと居ると流石に暑いね。退散退散。」
「賛成ー。」
2人を追いかける前にもう一度空を見ると、空高くで飛行機が雲を作りながら飛んでいる。
ファーストキス、か。さっき読んだマンガにもそんなことが書いてあったな。
恋の描写も漫画と現実では違うんだろうか。高鳴る心臓もまだ無い僕には確かめようのないことだけど。
この心地の良い優しい棘が、無いはずの心臓にそっと刺さる様な感覚は、一体何なのだろう。
甘く爽やかに喉を駆けたサイダーの感覚が、まだほのかに残っていた。