日差晴天に蝉の声
蒼白い月明かりの揺らぐ図書室で、朱理は体を震わせながら眠っている。部屋の温度計は27℃を指していた。
震えの原因が寒さではない事は分かっていた。朱理の感情が流れてくるからだ。意図的にそうしたのか、偶発的に繋がってしまったのかは分からない。
「…さい…ごめ…い、ごめんなさい…。」
魘されている。まだ無いはずの臓器が縮こまるような嫌な感覚がずっと流れ込んで来ていた。
「朱理。」
朱理はびくっと肩を震わせて目を覚ます。
「…レイ。」
「嫌な感情だった。」
「恐怖だよ。危険が迫ってる時の気持ち。あと危機感もかな。」
「誰に謝ってたの?」
「レイにもじきに分かるよ。この記憶も、連れていけたらいいんだけどね。」
顔を洗ってくる、と廊下へ出ていった。
校舎内の砂や泥を掃除した後、朱理と僕はそのまま学校に泊まった。元々このつもりだったのか、常に着替えを校舎に常備してあるのか、莉音に貸した物の他にもうワンセット着替えを持っていた。
泊まる場所に図書室を選んだのは、見回りの先生もカウンターの裏までは覗かないだろうと踏んだからである。実際に夜の見回りがあるのかどうかは知らないけれど。
「暑いせいか嫌な夢見ちゃったな。」朱理が顔を拭いながら戻ってきた。「レイの勉強になったからいいけど。」
恐怖と危機感。自分の感情の他に、朱理の感情が解説付きで得られるのは大いに都合が良い。
「感情は残るんだね、朱理。」
「まだ怖い?って私か。そうだね、残る。」
時刻は午前3時を少し回ったところ。カウンター裏により掛かって座る僕の膝に朱理は体を預ける。
「抱きしめて、レイ。一緒に寝よう。」
背中から腕を回すと、朱理はまたそっと目を閉じた。僕も一緒に眠りについた。
「おはようございます。」
「あれ、莉音。」
目を覚ますと、図書室はもう明るくなっていた。煩いくらいの日差しが図書室全体を白ませている。
「眠るんですね、ゴーレムって。」
「うん。必要はないけど。」
「食事は?」
「できるよ。」
「へぇ。じゃあウン…ゔぅんっ、排泄は?」
「できるんじゃないかな。多分そのまま出るけど。」
「なんか逆に汚いですね。」
「朝っぱらからなんつー会話してんのぉ。」
朱理は図書室に入ってくるなり、ビニール袋から取り出したパンを莉音めがけて放り投げた。僕が眠っている間に買い出しに行っていたのか。
「莉音は、いつから居たの。」
「ついさっきですよ。」莉音は早々にパンの包装を開けて食べ始めた。「そこのコンビニで先輩と鉢合わせたんです。」
「ね、ビックリ。午後から来ると思ってた。」
「ビックリはこっちですよ。図書室に泊まるなんて。親御さんになんて言ったんですか。」
「『友達ん家泊まる』。」
「そーですか。…って、片付け終わってましたけど私来た意味あります?」
「ありますとも。じゃん。」
わざとらしい物言いと共にポケットから取り出した鍵を見せつける。
「なんでフか。ホれ。」
「グランド倉庫の鍵。」
「あぁ、ハっき職員室寄っハのホれモハメ。」
「え?あぁうん、そう。これのため。」
「アイフゥンエフかホエエ。」
「…?もう、口に物入れて喋んないの!ほら飲み物持って。もう行くよ。レイも。」
「うん。」
「モっモゴゴゴモ。」
2人につづいてグランドへ向かう。先程からものの数分で明るさが増した気がする。朱理から得た情報で知っていたはずの朝は想像より眩しい。こうして識っていくのだろうか。草のにおいや風の肌触り、土を踏みしめる感覚を。
白黒のページに色を落としていくようだ。と思ったのも束の間だった。下駄箱を抜けて外に出た途端、苛烈を極めた蝉の声と太陽の眩しさに朱と黄の顔料が飛び散る。
とんでもないな、夏。
グランド倉庫のシャッターを開けると、籠もっていた熱気と土埃が絡みついてきた。暑いし変な匂いがする。熱が籠っていて息が詰まった。
「土臭ッ!」
「まぁ倉庫ですからね。」
「出来たばっかのレイみたいな匂い。」
「えっ、」
「さて。今日はね、サッカーします。」
「ねぇ、僕こんな匂いしてるの?」
「今はしないよ。昨日シャワーしたじゃん。別に悪い匂いじゃないしいいでしょ。」
「いや、でもさっき『土臭ッ』て。」
「まぁまぁ。で、3人しかいませんけど?」
「3人でやります。」
「あのね先輩、サッカーってのは…」
気になる問題は『まぁまぁ』で済まされ、サッカーのような遊びは3人でもできると言い張る朱理に押されてサッカーをすることになった。ゴールは一つ、朱理がキーパー。残り2人でゴールにボールを入れた方の勝ち。
「っし、2点目ェ!」
ガッツポーズを決める莉音。結局一番楽しそうだ。
キーパーと言いつつも朱理がまともに動くことはなく、ただ突っ立っている朱理の横をボールが通過して点が重なってゆく。
ガッツポーズを決めているところ莉音には申し訳ないがここはきちんと申告しなくては。
「入る前に僕に当たったから僕の点だね。」
「はぁ?当たってませんけど。」
「つま先が触れたよ。」
「それ蹴ってないじゃないですか!審判!」
「触ればその人のボール。レイに1点だね。軌道変わって取れなかったし。」
「先輩はどっちにしても取る気なかったじゃないですか!ずるいですよ一人だけじっとして!」
「はい休憩、水分補給〜。」
「おい!」
ぎゃーぎゃーと言い合いをした結果、僕の点ということになり、莉音は誤審だなんだとぶつくさ言っていた。意外と負けず嫌いなんだな。
「ふぅ。大汗かいちゃいましたよ。」
校舎側の木々の陰になる芝生に腰を下ろす。2人は各々買ってきた飲み物を飲み始めた。
「レイはいいですね。水はいらないし汗もかかない。お腹も減らないんですもんね。体力も無尽蔵ですか。」
「そうだね。」
「あれ?」唐突に莉音が身を乗り出して来た。その顔が鼻先数センチまで近づく。「目、また変わってませんか?」
なぜか声が出なかった。どころか、体全体が土塊に戻ったように強張った。
「ほら、先輩。」
莉音の視線が朱理に移ると、強張りが解けて動くようになった。妙な感覚だった。
「んー?ホントだ。ビー玉みたいだね。」
「オシャレですね。本物の目より綺麗なんじゃないですか?」
「ね。でも今日で見納めかもよ。」
「本当に人間に近づいていくんですね。」
「そ。じき息も上がるし汗もかくし水も欲しくなるよ。」
「へぇ。一部だけこのままってわけにはいかないんですか?」
「そうそう思い通りにはいかないもんよ。」
水分補給を終えてボールを蹴り始め、遊び疲れてまた休む頃には、いつの間にか太陽が真上あたりまで昇っていた。影は強い光に押し込められたように真っ黒で小さくなっている。
昼になると2人も一旦家に帰っていき、僕は一人、図書室のカウンターに寄りかかって窓から外を眺めていた。
走っているうちは気にならなかったが、身体の中にじわりと熱が籠もっている気がする。もうじきに喉が乾くとか、汗が出るとかが乗っかってくるらしい。莉音は夏の何処が好きなんだっけ。
「ん︙?」
そもそも莉音とそんな会話したっけ。莉音との会話といえばさっき、変な感覚があったな。体が固まるというか、ゆったりとしか動かなくなるような。嫌な感覚ではなかった。むしろそれが解ける時の方が嫌、というより切ないような惜しいような、そんな感覚があった。
「レイ?」
そう、そんなふうに僕の名前を呼ん――
「ヘイッ!」ぱぁん、と手を叩く音がして反射的に身構えると、莉音が戻ってきていた。「大丈夫ですか?」
莉音と顔を合わせているのに今回はさっきの様な感覚はないみたいだ。
「おーい?レイ?」近さが足りないのだろうか。莉音の方に身を乗り出して顔を近づけてみる。「ん?な、なんですかちょっと。すみませんって、驚かせて。」
ならないな。なんだったんだろう。
「おかえり。」
「た、ただいま。先輩はまだみたいですね。」莉音はどこか焦ったようにエアコンの操作部に向かう。「午後も運動するとか言い出したら全力で止めましょう。レイも協力してください。」
「朱理には逆らえないと思うけど。」
「ゴーレムだからですか?ほとんど人間なのに。」
「まぁね。」
「もっと人間に近づいても?」
「どうだろう。」
暫くすると朱理がやってきて本当に運動すると言い出した。
「勘弁してくださいって。しんどいですって。」
「体操服来てんじゃん。」
「この方が楽だからです!ね、レイももう嫌ですよね?」
「レイは運動したいでしょ?したいって言いなさい。」
「それはズルでしょ!」
「運動したい。」
「本当に裏切りやがった!」
正直少し飽きてはいた。そう言おうとしてみる間もなく命令が下り、僕はその言葉を口にした。命令にはやはり逆らえないが、命令される以前なら基本的に行動は自由にできそうだ。
「ヤダァアァア!運動は止しましょう!死にますってマジで!遊び道具持ってきましたから!」
「っとにもう。だらしないなぁ。」
という莉音による頑なな拒否の結果、午後は冷房の効いた図書室で過ごすことになった。遊び道具は莉音がごっそり持ってきている。
「ラインナップがおばあちゃんなんだよなぁ。」
「やかましいです。生まれたての子にはこれくらいがいいんですよ。」
チェスや将棋と生まれたてに丁度良いとはおよそ思えぬ遊びもあったが、リバーシやヘックスはその単純さに反して殊の外盛り上がりを見せた。
楽しい時間が過ぎるのは本当に速い。外はまだ明るいままで気が付かなかったが、何やら懐古的なメロディーが町に流れて午後5時を告げた。
「あらら。もうちょっと遊んだら帰りますかね。」
遊んでいたボードゲー厶はそれから1時間ほど続いた。想定より遅くなったのだろう。2人はガチャガチャと広げた遊び道具をまとめて袋に詰めて、颯爽と帰っていった。
「じゃ!また明日!」
図書室から駆け出していって、先程までの騒がしさが嘘のように静かになって、急に夜が来たように錯覚する。
今日から僕の行動範囲に図書準備室が追加された。今朝、体育倉庫の鍵とともに朱理が鍵を開けてくれたのだ。
とは言っても何か変わったものがあるわけでもない。文化祭か何かで文芸部が使ったと思しき段ボールの何かの他には、図書カードの在庫や入れ替えの本、机と椅子がある程度。それでも窮屈なカウンター裏よりはずっと快適に過ごすことができた。
下の方だけ黄金色に光る雲が、少しだけ濃くなった青色と薄いオレンジに浮かぶ夕空。今日の終わりを告げるその空は、明日の前借りしているようで、またそれが明日も楽しい日であることを告げているようでもあった。明日の夕方もきっと、こんな空が見たい。そう思った。