ステラ 彼女が彼女であるために頑張ります
さわやかに目が覚める理由は、芳しい花の香りと、生まれてから嗅いだこともなかった心地好い紅茶の香り。
今日も私は、優雅な朝を迎えた。
「おはようございます。イデア様」
物音1つしなかったはずなのに、目が覚めた時にはすでに適温になっている温かいタオルと、極上の紅茶が準備されている。
私が目が覚めるとすぐに侍女が現れて、丁寧かつ素早い動きで私の身なりを整えた。
これで何度目だろうか。
慣れない朝に、やはり夢ではないかと毎回目を擦る。
丸々と太ったこの身体はとても重く、思うようには動かない。けれど、そのゆっくりとした動きのおかげで、私が全く貴族の作法がわからないことが露見されなかった。
イデア公爵令嬢は、私とは違う忙しさで日々を過ごしている。
公爵令嬢たるもの、いつ自他国の王族や貴族に嫁ぐかわからないため、日々、学校の勉強以外にも、帝王学から様々なマナーやダンス、その他諸々、学ぶことが多い。
私も貴族の端くれとして学んできたものが沢山あったはずだけど、こんなにも違うものかと驚きを隠せなかった。
そんな中でも、一番驚いたのが。
朝の食事のための家族の集まり。
そこで、この上なく厳つそうな髭のおじさまが、私ーーというかイデアさんの顔を見た途端に、へにゃりと砕けた。
「おはよう、イデアちゃん。今日もとてもプリティでビューティフルだね。この世の美しいもの全てを並べても、イデアちゃんには敵わないよ」
ーーーそんな言葉から始まる。
「そ、そうですかーーーですの」
まだ丁寧な口調には慣れない私。
イデアさんという方がどんな人だったか、いまいちわからないので、とりあえず口元を扇で隠しながら、曖昧な態度で誤魔化す。
イデアの父という男の人は、名をオースティンと言って、この国の公爵の1人であり、国内有数の富豪でもある。
そんな彼が、私の言葉にピクリと頬を動かした。
「ーーーイデアちゃん、まだ記憶が戻らないんだね」
そう言って、顔全面に悲しさを滲ませてみせる。
私が『記憶喪失』ということで説明しているから、イデアさん本人との違いがあっても誤魔化されてくれているけれど、この溺愛からして、いつかバレるのではないかとハラハラしている。
「ーーー聞いたよ、君の侍女に」
「な、何を、ですーーーの?」
オースティン父の溜めた言い方にドキリとする。
「食事を、減らしているそうだね?」
「?」
いきなり何を言い出すのかと思ったら。
食事を減らしているのではない。出る量が多すぎて、残しているだけだ。そもそも私の家では、固くなったパン一切れとか、味の薄いスープとかしかでなかったから、朝から豪華な肉料理とか重すぎるだけ。
「運動もーーーしているとか」
運動、というほどでもない。
新鮮な空気を吸うために歩いて窓を開けたり、少し外の散歩に行ったりしているだけで。
あまりの言葉に返事ができないでいると、ぶわっとオースティン父は涙を流した。
「それ以上、綺麗になってどうするつもりだい?誰かが君に惚れて迫られて、君がそれに頷いたらどうするんだ。まだまだ父から離れる時期じゃないだろう。そんな悲しいこと、父さんは。父さんは、、、」
よよよと悲壮に暮れるオースティン父の姿に、ほんのりと笑みを溢す。
溺愛、と言っていいのだろうけれど。
早くに妻を亡くしたオースティン父は、どうやらイデアさんに執着している。
これが本当に良いのかどうかはともかく、親から愛されていない私にとっては、羨ましくもあり。
イデアさん本人がどこにいってしまったのか。
どうなったのかは私にはわからない。
でも、この身体に入ってしまったからには、この身体の持つ責任を全うしなければと思う。
私は心からの気持ちを込めて、オースティン父に微笑む。
「お父様。私ーーーわたくしは、お父様の悲しむ姿など見たくありません。てすので、わたくしがわたくしであるための最大限の努力をいたしますね」
私がそう言うと、オースティン父は少し目を見開いて私をじっと見つめる。
「、、、、んん?」
ゆるりと首を傾げたオースティン父は、父の隣に立つ執事長と目を合わせる。少し残念そうに頷いた執事長の様子を見て、またオースティン父は私に視線を向けた。
まさか、それ以降、オースティン父と執事長が、私のことを『イデアが天然娘に変わってしまった』などと話すようになったとは、全く思いもせず。
そして私は朝食を終えて、自分の部屋に向かった。
オースティン父の言葉を思い出して、どうすれば父の願いを叶えられるか考える。
そもそも私は、人が悲しんだり嫌な思いをするという負の感情を顕にされるのが苦手だった。
継母のアンナや妹のリリアンは、私がいることで気分を害するらしい。でも私も生きていく以上、家は必要だ。だから、できるだけ苦痛を取り除けるように、家の仕事を頑張ったし、私に対して苛立ちが強い時は、黙ってそれを身にうけた。
学校でもそうだった。
私が、学校に行かせて貰っている以上、良い成績を取らねばたと頑張っていたけれど、頑張れば頑張るだけ、成績が上がれば上がるだけ、クラスメイトからの当たりが強くなった。
学校に行かないわけにもいかないので、せめて皆の気が晴れるように、皆のすることを否定しないようにしていた。
それによって教科書や荷物はボロボロになるし、怪我も増えたけれど、教科書は貰った段階で別の紙に複写しているので、別段、困ることはない。破れた服は、徹夜してでも縫い繕えばいいだけの話。
すべて私が頑張ればいい話だ。
今回は、オースティン父の悲しみを取り除かなければと思う。
私が入ってしまったイデアさんの身体が痩せたり綺麗になったりという、男性から好かれる容姿になるとオースティン父は悲しむらしい。
かといって、必要ない食事を無理やり食べて、本来のイデアさんの身体がこれ以上害するのは本意ではない。
ーーーとなると。
ぴんと閃いて、私は、侍女に、身体ができるだけ露出しない服と、顔を隠せる布を依頼する。
「姿が見えなければいいよのね」
姿を隠せば、容姿の変化で男性から好奇な目で見られることもない。
私は侍女が狼狽えながらも準備してくれた分厚く全身を覆う服を着て、頭からグルグルと顔回りに布を巻いて過ごすことにした。
意味のわからないことでも、侍女達は何も言ってこない。記憶喪失のせいだと全て受け入れてくれているのだろう。
「ーーーさて。今日も『散歩』に行きましょう」
淑女としての勉強を終えた後、私はその格好で公爵邸の庭に出る。
公爵邸はとても広く、イデアさんが好むように庭師が手入れしているという素敵な花が咲き誇る花壇を抜けて、屋敷の奥に位置する畜舎に顔を出す。
私の知る馬小屋と違って、ここはとても大きい小屋があり、中には馬と牛などの動物が管理されている。
「こんにちは。皆は元気かしら?」
全身が隠れた姿になっている私に、畜舎を管理しているアントニオという60歳手前程度の歳の男は、わずかに眉を寄せた後、あぁ、と破顔した。
「イデアお嬢様ですか。誰かと思いましたよ」
何度か顔を出すうちに打ち解けてきたアントニオは、イデアさんつきの侍女達と違って、私に対して過剰な恐縮をしない。
私も、元の身体で家畜の手入れをしていた経緯もあり、話が合うし、何より動物のいる環境は居心地が良かった。
グルグル巻きの布の中で、私はにこりと笑う。
「この格好は気にしないで。異性を寄せ付けないためにこうしているの」
「おや、それは私も含まれるのですかな?」
日に焼けて浅黒い、もう顔も皺が深く刻まれた男にそう言われて、私はふふふと笑った。
「そうね。アントニオも男性ですものね。わたくしに惚れてはいけませんよ」
わざとらしく私がそう言うと、アントニオはより顔の皺を深めて大きく笑った。その様子を見ながら、私についてきている侍女は黙ったまま蒼白な顔をしている。
きっと本来のイデアさんは、畜舎にも来ないし、畜舎の管理者と気安く会話をしたりしなかったのだろうとは思う。
でも部屋でじっとしているなんて、健康的ではないわよね。
人は太陽の光を浴びて、澄んだ空気を吸いながら、土を触ることで健康を保てる。そう私は信じている。
「さぁ、なまった身体をほぐしていくわよ。アントニオ、今日は牛の身体を洗うから水とブラシがどこにあるのか教えてちょうだい」
ひい、と侍女のマリアが声をあげた。
アントニオも目を見開く。
「本気ですかい?お嬢様」
「冗談でこんなこと言わないわ。わたくし、結構上手なのよ。爪の中まで綺麗にするの」
牛用のソフトブラシを見つけて手に取り、私は意気揚々と牛に水を優しく濡らしていく。
「ほう、なかなかの手つきですな」
「そうでしょ」
ゴシゴシと牛を洗う私。はじめはビクビクと怯えていた牛も、気持ち良さそうな表情に変わっていく。
身体は重いし動きが悪い。
でもそれが動かない理由にはならない。
オースティン父のために身体中に巻いた布は、動く度に熱を発して、尋常でない汗が流れ出すけど、働くということはそういうものでしょ。
昔から、集中したら他のことが気にならなくなってしまう。
だから、身体の動きの悪さも、暑さも、流れる汗も、すっかり忘れて、私は楽しく牛の手入れをすることができた。
綺麗になった牛を撫でて、私は満足感に包まれる。
「牛がこれだけいると、しばらくかかりそうね。牛が終わったら次は馬の手入れもしたいわ。やることが多くて大変ね」
私が言うと、アントニオは嬉しそうな顔で自分の汗をタオルで拭った。
「そういいながら楽しそうですよ、お嬢様」
「あら、そうかしら。でも爽快感はあるわね。マリアも明日からやってみる?」
侍女のマリアはギョッとして、小さく首を振る。
「い、いえ、私は、、、あ、はいーーーやらせていただきます」
主の言葉を否定してはいけない。そう顔に表れている。
私は苦笑して、マリアの背を汚れていない肘で軽く突いた。
「無理しなくていいわ。無理強いすることじゃないし。断っても怒らないから安心して」
私がそう言うと、マリアはほっとした表情に変わる。
アントニオがそのうちにコップを3つ持ってきた。
「さぁ、働いた後は、取れたての牛乳などいかがですか。美味しいですよ」
取り立て牛乳。
牛のお世話の中でも最上級の楽しみ方。
「勿論いただくわ。マリア、これは貴女も断らないでしょう?」
「は、はい!」
頷いたマリアと私に、アントニオが白い牛乳の入ったコップを渡す。
私は一気に牛乳を飲み干し、プハーと口を大きく開けた。口についた牛乳を袖で拭きあげる。
「美味しいーーーー!!!」
それにはマリアも、ほんのり笑って。
明るい笑い声が畜舎に溢れ、優しい空気に包まれる。
とてもーーー気持ち良かった。