イデア ここは不便です
目が覚めたら、誘拐で監禁された時と同じくらい小さくて簡素なベッドに横になっていた。相変わらず、ベッドだけでなく、この部屋自体が小さすぎる。
はぁ、とわたくしは大きなため息を漏らした。
聞いたことくらいはあった。
ピノット子爵という存在。
子爵は沢山いるけれど、その中でも『王族の命を救ったから』という理由で子爵の爵位を与えられた家名だったから、記憶に残っている。
いや、わたくしはそもそも、公爵令嬢として、未来は王妃にとも期待されているからこそ、様々な知識を叩き込まれた。この国の貴族に関しても細かなところまで学んでいる。その中でも印象深い家門だった。
子爵や男爵の爵位はお金でも買うことができる。そういう家門は比較的、蔑まれやすい。だがピノット子爵という家門の存在に不快感はなかった。
確か、わたくしと同じ年くらいの令嬢がいたはずだが、高貴なわたくしの遊び友達にするには立場が違い過ぎるし、そもそも、ピノット子爵令嬢はデビューして以降、社交界に姿を現したことはなかった。
姿形くらいは写すことができる、という程度の質の悪い姿見の鏡を見ながら、その貧相ながらも『可憐』とは言われそうな容姿をわたくしはマジマジと眺めていた。
まんまるとした茶色の瞳の愛らしい顔立ちに、日に焼けてはいるものの腕の裏は白くきめ細かい。かなり痩せ細ってはいるがスタイル自体も悪くない。育ちが良ければ適齢期の貴族男性からの求婚は絶えなかっただろう。
淡い茶色の髪を肩より下に揃えてはいるけれど、その天然に歪んだその髪はフワフワしている。その髪を整えてくれる侍女もおらず、このわたくしが自分自身でまとめなければならないというのに、このフワフワな髪は少しもまとまってくれない。
そもそも自分で髪をといたことのないわたくしは、櫛の使い方がイマイチわからず、義理の弟であるらしいロキという名前の少年にお願いしたら、鼻で笑われた。
「何を今更オシャレしようとしてんだよ。姉ちゃんらしくないことして。いつも簡単に髪を括ってるだけだろ。どうせ仕事してたら乱れるんだから気にしてもしょうがないだろ」
なんて生意気な口を利く子なんでしょう。
わたくしは呆れて、しつけのつもりでロキの頬を叩こうとしたら、その手を軽く避けられた。
「叩くふりなんてしても、俺には当たらないよ。どんくさぁ」
へへーんと言って舌を出す姿に腹が立つ。
普通なら、わたくしの強力な魔法で命が途切れる寸前までお仕置きをするのだけど、魔法も使えず叩く手も避けられてしまえばどうしようもない。
ピノット子爵の家族は、どうやらこのステラという娘を、軽んじる傾向にあるらしい。
中でも、母親のアンナはステラと血の繋がりはないらしく、妹のリリアンはアンナと父親の子供で、いわば腹違いの姉妹。だからなのか、とにかくステラへの態度が酷かった。
このロキも同じくステラとは腹違いの弟ではあるけれど、アンナとリリアンとは違い、嫌味は言えどステラへの嫌悪感は感じられなかった。
コンコンとドアが鳴り、わたくしの代わりにロキが「はぁい」と返事をする。そうしたらドアが開いて、奥からさわやかな青年が現れた。
「ダンテ兄ちゃん。いらっしゃい」
ダンテと呼ばれた男は、入って早々にわたくし達に声をかける。
「遊んでないで仕事に行くぞ。あいつらがおなかすかせてるだろう」
「遊んでねぇよ。姉ちゃんが、俺を叩こうとするからさぁ」
拗ねた顔をするロキに、ダンテは小さく笑う。
「ステラがお前を叩くわけがないだろ」
「ちぇ。いつもダンテ兄ちゃんはステラ姉ちゃんばかり庇うんだから」
「そう思うなら、お前も普段の行いを良くすればいいだけだろう」
「わかってるけどそれが難しいんだよ」
「はははは。ロキには無理だな」
楽しそうに笑う二人を、わたくしは後ろからただ眺める。
このダンテという男は近所に住む平民の青年で、特に血の繋がりがあるわけでもないのに、こうやって貧しい子爵家の仕事をボランティアで手伝ってくれているらしい。
わたくしは不思議で仕方なかった。
子爵とはいえ、平民とは大きな格差があるはず。なのに、目の前で平民と貴族が対等に会話をしている。しかも平民が貴族をフォローするなんて。
意味がわからなかった。
貴族と平民の関わり方。
平民が貴族に馴れ馴れしいなど無礼で腹立たしいはずなのに、なぜか嫌な気持ちにならない。
わたくしではなく、この娘の身体がそう感じているのだろうか。
私が困惑していると、ダンテがわたくしを振り返った。
「何をじっとしているんだ?早く行くぞ」
「え?わたくしも行くのですか?」
驚いたわたくしに、ダンテは今度こそ眉を寄せる。
「当たり前だろ。『働かざる者、食うべからず』がここの家の家訓じゃないか。夕飯いらないのか?」
夕飯抜き?
こんな細い身体で?
そんなの死んでしまうわ。
「い、いきます。いきますわ」
わたくしが足を踏み出すと、やっぱり羽のように身体が軽くて、わたくしは『走る』ということを初めて体感した。
人を追いかけるだけ。
それのために走るなんて、自分自身でも信じられなかった。
そして走るというのがちょっと気持ち良いということも、わたくしは知らなかった。
彼らについていくと、風が吹いたら飛んでいきそうなほど貧相な牛舎に辿り着いた。
中には馬が二頭と牛が二頭。そして鶏が五羽いた。
「ほら。ステラ」
ダンテに、籠に入った餌を渡されて、わたくしは呆然とする。
「ーーーえ?」
「え、じゃなく、ーーーなんだ?ステラ。今日は何かおかしいな」
「それは俺も思ってた。なんていうか、いつも以上にトロいよな」
トロい、とは?何語ですの?
ダンテがわたくしの額に手を置いて、わたくしの目を覗き込んだ。
「熱でもあるのか?」
「そ」
そんな近くに、見知らぬ男性と近寄ったことがないわたくしは、一気に顔が熱を帯びてしまった。
誓いを交わしたわけでもない男性に触られるなんて。そんなはしたないこと。
「顔も赤いな。もしかして本当に体調が悪いのか?」
「風邪を一度もひいたことがないステラ姉ちゃんなのに?」
風邪をひいたことがない?
ステラって娘は、ちゃんと人間なの?
わたくしは入れ替わった身体の中にいることに不安を感じながら、ヨロヨロと身体をよろけてみせた。もちろん演技だけど。
「そうなの。朝からなんだか具合が悪いみたいで。それのせいか、記憶もなんだか曖昧になってしまって」
わざとらしかったかもしれないと心配になったけれど、どうやらダンテは真面目で優しい性格のようだった。
真剣な顔つきでわたくしの肩を掴む。
「具合が悪いだけで記憶も曖昧になるなんて、普通じゃあり得ないな。本当に大丈夫か?」
ダンテは意外と整った顔立ちをしている。優しさが表面にでているその姿にはちょっと胸がキュンとしてしまう。わたくしが平民にトキメくなんて、あり得ない。いけないわ。
ちょっと乙女の小説の主人公になった気持ちでいると、横からひょいと小憎らしい顔が出てきた。
「頭が悪いわけじゃなくて?」
ぶっ殺しますわよ。
「ロキ!」
横から茶々をいれたロキはダンテに叱咤されて、またテヘヘと笑う。ロキには私が本当は具合が悪いわけではないことがわかっているのだろう。
「ゴメンゴメン。なんか今日の姉ちゃんは、いつもより面白い顔をしてくれるからさ。ついつい、からかってしまうんだよね」
そう言われて、わたくしは自分の顔が自分自身でも気付かぬうちに歪んでいることに気づいた。
ダメダメ、こんな子供の言うことに反応しているようじゃ淑女失格ですわね。
高貴なわたくしにこんな口をきく人間が傍にいなかったから、つい反応してしまう。
「お詫びに、俺が餌のやり方を姉ちゃんに教えてやるよ」
ロキは餌の入った籠を私から奪って、馬や牛に餌をやり始めた。
「ちゃんとそれぞれの動物に合った餌をやるんだ。量は少なすぎても多すぎてもダメだよ」
思ったよりも丁寧に教えてくれるロキに、意外と悪い子ではないのかなと思い直す。
「餌をやり終えたら次は畑の仕事だよ。ほら、姉ちゃん、こっちにきて」
ロキはわたくしの手を引いて、ダンテを残して畑のある方までつれていった。畑の土への扱いについて丁寧に説明してくれる。まるで『初心者に教える』ように。
王都にある国一番の学園の中でも優秀で特別クラスにいるわたくしにとっては、子供の教えることくらい簡単に記憶できる。
でも、だからといってわたくしがそれをやるかどうかは別の話。
一通り説明を終えたのに、動こうとしないわたくしに、ロキは小さな身体でわたくしを見上げて首を傾げた。
「仕事。ーーーしないの?姉ちゃん」
「わたくしが何故」
「働かないと、本当に夕飯貰えないよ。うちはそういう家だから」
ピクリ、とわたくしの頬がひきつる。そして、ふんと鼻を鳴らした。
「わたくしの分も貴方がやればいいのではなくて?わたくしの弟なのでしょう?そのくらいはできるでしょう。愛しい姉のためだもの」
ロキは少しの間、なんとも言えない顔でわたくしを見上げたままでいたけれど、急にニコリと微笑んだ。
「病気の姉ちゃんだからね。俺も優しくしないといけないとは思ってるよ」
あら、思ったよりも素直なのね。
「じゃあお願い」
「ーーー姉ちゃんが本当のステラ姉ちゃん、ならね」
冷たく言って、ロキはわたくしに持っていた鍬を押し付けるように手渡した。
唖然としたわたくしは、小さなロキを見下ろす。
その瞳は、真っ直ぐにわたくしを見つめ返していた。
「ステラ姉ちゃんは、俺に仕事を押し付けたりしない。ステラ姉ちゃんは、自分が犠牲になっても家族を守ろうとする人だよ。ステラ姉ちゃんなら、具合が悪くても俺達を心配させないようにそれを隠して働くような人なんだ。ダンテ兄ちゃんは騙せても、俺は騙されないよ」
ロキはわたくしの腕を掴んで、ぐいと引っ張った。
「どんなに顔を真似して似せたとしても、ステラ姉ちゃんの身体の特徴までは真似できないだろ」
わたくしの手首まで隠れる服の袖を捲りあげて、どうだとばかりにその左腕の中央にあるハートの形をしたホクロを指差した。
「ステラ姉ちゃんはここにハートのホクロが、、、あれ?ーーーある?」
どうやら、ロキはわたくしが偽物のステラだと思っていたようだ。偽物に間違いはないけれど。
ロキは想像が外れて、少し狼狽える。
「そんな馬鹿な。ステラ姉ちゃんが、こんな変な喋り方をするはずがないのに」
「変な喋り方とは失礼ですわよ」
「ほら、変だ」
わたくしはロキの頬をギュッと摘まむ。
「これは淑女の話し方なのですわ。変ではございません」
「いたた。ふぉら、ステラ姉ふぁんはこんなこと、、、」
ロキはわたくしの手を振り払って、痛そうに自分の頬を撫でながらわたくしを睨み付けた。
「ステラ姉ちゃんは、こんなこと絶対しないってば」
あらあら。睨み付けた顔の方が子供らしくて可愛いのね。
わたくしは少し心に余裕を取り戻して、ほほほと笑いロキの前に少し身を屈ませた。
「大人に逆らうから痛い目をみるのですわ。子供は大人しく年長者の言うことを聞いておけば良いのです。頬を摘まむくらいで済んでいることを、むしろ喜ぶべきですわよ。本来なら、わたくしを侮辱した時点で死刑ですのに」
子供の姿で幸運でしたわね、と言ったところで、ロキの言葉がわたくしの言葉と重なった。
「お前は誰だ。ステラ姉ちゃんを返せ!」
少し涙目になったロキに、わたくしはふと気付いて「そうだわ」と呟いた。
わたくしがステラの身体に入っているということは、わたくしの身体にステラが入っている可能性が高いということ。
なぜ、無関係であるステラとわたくしの身体が入れ替わっているかは全くわからないけれど、それは追々考えれば良いこと。
まずはステラに会って、元に戻ればいいのよ。
わたくしは改めてロキを見て、ニッコリと微笑んだ。
「ロキ。ちゃんと貴方の姉は元に戻りますわ。わたくしも早く元の場所に帰りたいのです。だから、協力していただけるかしら」
「、、、どういうことだ?」
キョトンとしたロキの顔が、可愛かった。
わたくしはロキに今の状況の説明をした。
朝起きたらステラの身体と入れ替わっていたこと。入れ替わった理由はわからず、身体には入っているがステラの記憶は引き継いでいないこと。
「ーーーそんなことーーーあるのか?」
ロキは説明を聞いても信じられないようだった。当たり前といえば当たり前だけど。
「あるかどうかは、わたくしがこうなっている以上、『ある』としか言いようがないですわね」
「お前が公爵令嬢?ただの思い込みじゃなくて?」
スパンとロキの頭を叩く。
「いてぇ」
「叩いたのですもの。痛くて当たり前ですわ」
だいぶステラの身体の使い方に慣れてきたみたいで、はじめ避けられていたのに、ちゃんと当たるようになってきた。
「それで、伺いたいのですけれど、ここはどこですの?ビノット子爵は存じておりますが、はっきりとした領地の位置が記憶に御座いませんの。王都に帰るには、どのくらい時間がかかるのかしら。馬車の費用は子爵からお貸しいただくとして、、、」
近いといいのだけど。
公爵家に戻れば馬車代は間違いなく支払うことができるけれど、もし遠いなら、馬車を乗り継いでいかなければならない。そうなると、やはり子爵からお金を借りないといけなくなる。
そもそも、公爵家の馬車にしか乗ったことがないから、貸し馬車がどのくらいの費用がかかるのか全く想像もつかない。
「馬車?馬車なんて、ここにはないよ」
「ふぇ?」
変な声が出た。
馬車がない、という意味がわからなかった。
「ないーーーということはないでしょう?今、ここに馬車がなくても、どこか貸し馬車の会社が」
「馬車に乗る人がこの付近にはいないからね。馬車なんて高すぎて、乗る人がいなければ商売にもならないよ。馬に荷箱を引かせた『荷馬車』ならあるけど、人が長旅をするにはちょっと向いてないかもね」
荷馬車?荷馬車とは、あの、公爵邸に商品を持ってきてもらってお買い物をする時に荷物を乗せる、あの箱のことかしら。
荷物と一緒に乗るなんて窮屈そうで嫌ですけど、帰るためには背に腹は代えられないものなのかもしれないわね。
「やってみないとわからないですわ。まずは見せていただきましょうか」
「本気?それなら、うちにあるよ。荷物を運ぶ時に使うからね」
ロキに言われて、わたくしはロキについていった。
わたくしは荷馬車というものは大きな小屋のようなものを想像していた。屋根があって扉が閉まる。そんな代物を。だからその『荷馬車』をみて、わたくしは鼻で笑った。
「ーーーええと。これではないですわね」
きっぱりと言ったのは、わたくしの想像していた小屋の広さを8分の1にした大きさの、それを腰の辺りで輪切りにしたようなものが目の前に現れたからだ。枡を大きくしたような、とてもとても簡易的なもの。
ロキがわたくしの横で呆れた声を出す。
「これではないと言われても、普通の荷馬車というのはこれのことだよ。これを馬がひくんだ」
「これでは御座いません。これでは雨が降ったらびしょ濡れになりますわ。椅子もないのに、どこに座るというのですか」
「荷馬車なんだから椅子なんてあるわけないだろ」
何を当たり前のことを、と言いたげな顔が腹立って、わたくしはまたロキの頭をペシリと叩いた。
「痛ぇって!何で叩くんだよ!この暴力女!!」
「キャンキャンと五月蝿い子犬ですわね」
つん、と顔を背けたわたくしを睨み付けると、ロキは口を歪めて「本当に早く、本物のステラ姉ちゃんに戻って欲しいよ」と呟いた。
なんて生意気なこと。
「わたくしが戻れたら、すぐにステラも貴方のところに戻りますわ」
わたくしは嫌みっぽく、そう言って微笑んだ。
※※※※※※※※※※※※※※※
「ーーー北の、オムラント?」
「え?お金がない?」
わたくしを早く帰そうと意気込んだロキは、物凄く協力的になってわたくしの質問に答えてくれた。しかし、想像もしていなかったことが次々と発覚した。
まず、このビノット子爵家の領地は、北のオムラント地方の付近にあるらしく、暖かい南の王都からは何百キロと離れていること。
そして馬車がない上に、荷馬車も貸して貰えないということ。子爵家にいる馬は、荷物を運ぶ時に使うので貰い受けることもできないという。
そして極みつけ。
「お金がない」ということ。
子爵家の領地はかなり小さく、領民も少ないらしい。それによって領地から入る税金は当てにならず、自分達で稼いでお金を手に入れているが、それもささやかで、食べて生きる程度のお金しかない。
つまり。
「お金を貸すなんてとんでもない。返ってくるかもわからないし、もし本当にあんたが往復してお金を返してくれたとしても、王都なんて遠すぎて、王都に馬車で辿り着くまでに何ヵ月かかるか。そこから戻ってくるんだろ?それまでの生活費を渡したら、戻ってくるまでに俺達が死んでしまう」
ロキはまだ10歳も満たない子供だろうに、ちゃんと理解できるだけの説明をしてくるせいで、嫌でも状況が理解できてしまった。
「どうしても帰りたいっていうなら、止めはしないけど、あんたは自分でお金を稼ぎながら旅して、少しずつ歩いて帰るしかないってことだ。何年かかるかわからないけど、それが一番可能性ある方法じゃないか?万が一にも、うちの馬を盗もうなんて考えないでくれよ。餌がなければ途中であいつらが倒れて、結局は息絶えるだけだからな」
あぁもう。ほんと、心を読まれているようで嫌になってしまう。
ちょっと馬を拝借してしまおうかしらなんて考えてしまったことを指摘されてしまっては、「そんなことをするわけないでしょう」と言うしかない。
ロキは、はぁ、とため息をつきながら、わたくしにやや冷めた視線を流してきた。
「言っておくけど、母さんとリリアン姉ちゃんには、あんたが違う人間だってことは言わない方がいいよ。母さんは、ステラ姉ちゃんを父さんがどこからか連れてきたからって、ステラ姉ちゃんに物凄く感じ悪く当たるだろ。浮気相手の子と思ってるんだよ。父さんは違うというけど、そうでなければ貧乏なのに子供を連れてこないだろ」
ロキは視線を下げて、僅かに眉を寄せる。
「俺もステラ姉ちゃんへの当たりが強いことを何度か注意したけどさ、なんか、かえって火に油を注いじゃうみたいなんだよね。ステラ姉ちゃんのために、よっぽどのことじゃない限り黙ってたけどさ。でも、もしこれで、中身がステラ姉ちゃんじゃないとか聞いたら、ここぞとばかりに『娘が心の病気になった』とか言って、修道女にさせられて修道院に送り出されるぞ」
「修道院!?」
修道院に入ったら、朝から晩まで厳しい仕事をする上に、何の娯楽もない生活を強いられるらしい。
「そんなの嫌ですわ」
「そうだろ。リリアン姉ちゃんとステラ姉ちゃんも仲が悪いーーーというか、一方的にリリアン姉ちゃんがステラ姉ちゃんを嫌ってるだけだけど、リリアン姉ちゃんは母さんの味方だから、リリアン姉ちゃんに話したら母さんの耳に筒抜けだ。絶対知られるなよ」
「わかりましたわ」
わたくしは大きく頷く。
修道院に入ったら、もう出ることはできない。
わたくしは帰りたいのです。ノイグラーの屋敷に。
本来のわたくしの姿を取り戻したい。
そのためには、最低でも自由に動けないと話にならない。
「うん。ちゃんと気を付けててね。まぁ、仕方ないから、姉ちゃんとステラ姉ちゃんがちゃんと元に戻るまで、俺も手伝ってやるよ」
そう笑う少年の笑顔は可愛い。そしてロキはわたくしを真っ直ぐな瞳で見上げてきた。
「それで?」
「それでとは?」
「ほんとのあんたの名前だよ。姉ちゃん」
「あぁ」
気付いて、わたくしは破顔する。
わたくしの名前を聞いてくれている。
それは、わたくしの存在を認めてもらえたということで。少し嬉しくなった。
「わたくしの名はイデア。イデア・イシュタル・ノイグラー。ロキ、貴方には特別に『イデアお姉様』と呼ぶことを許可しますわ」
ニコリと微笑んだわたくしの言葉へのロキの瞳は、北のオムラントで取れる氷のように冷たかった。