4. 笑顔
「え、何?」
「何って、夕食を運んでいますが」
「そんなの見れば分かるわよ」
シベリウスはトローリーをテーブルではなくベッドの横に置き、鼻唄交じりでその場でナイフとフォークを使って鶏肉を細かく切り始める。そして肉や添えられた根菜などを切り終えると、その皿とフォークを手に持ち、ジュエリアの座るベッドに自分も座った。
「さあ、召し上がって」
シベリウスはフォークで鶏肉を刺して、それをジュエリアの口元に運んでいる。
「ほら、あーん」
「やだ、やめてよ。自分で食べれるわよ」
ジュエリアはシベリウスからフォークを取ろうと手を掴むが、なぜかシベリウスは力を入れて絶対にフォークを渡してくれない。
「ちょっ、ちょっと……ぐっ……渡しなさいっ……よっ……」
「いいですから……ぐぐっ……口を開けて……ほら」
ジュエリアは手をぱっと離した。
「面倒くさいわね! もういらないわ! こんな事してないでさっさとミアのエスコートに行きなさいよ」
シベリウスは手に持っていたフォークをカチャリと皿の上に置き、その皿ごとベッド横のトローリーに戻す。
「エスコートは私の部下に任せました。ミア公女殿下に部下を紹介して、納得していただくのに少し時間が掛かってしまい、ジュエリアを一人で部屋に待たせてしまい、申し訳ありませんでした」
シベリウスの腕が伸びてきて、ジュエリアの頭をポンポンと軽く触る。
「寂しくなかったですか?」
「なっ……! 寂しくなんかないわよっ! どれだけ自信過剰なのよ、あなたは」
ジュエリアは顔を真っ赤にして、頭を撫でて来るシベリウスの手を振り払った。
「何が目的なの? 別に私は婚約者と恋愛ごっこなんて求めてないわ。そんな事で手懐けようとしても無駄よ。むしろあなたが現れなければ、今頃この地獄から抜け出して新しい人生を歩めていたのだから、あなたのことは恨んでるのっ!」
幼い頃から、父親と母親からの愛情を一心に受けて育つ妹を、独り遠くからいつも見て育った。自分にも注がれると信じていた親の愛は、何度も手を伸ばしてみたが、結局その手を握り返し、抱きしめ、愛を注がれるなんてことはなかった。むしろ継母セルマ公妃の自分に向ける視線は常に無機質で冷たく、悲しいほどに自分に向けられる嫌悪感を感じた。
幼い頃は優しかった父も、セルマ公妃の機嫌を損ねるのを躊躇し、次第に表立って可愛がってくれることはなくなった。
妹も、臣下も、使用人も、そんな風に扱われるジュエリアを尊敬するわけもなく、慕うわけもなく、大切にするわけもない。
幼かった自分を抱きしめてくれる者はおらず、部屋で一人布団に包まり、妹が親から抱きしめられている光景を思い出しながら、自分で温もりを作り疑似体験していた。
今も、身も心も孤独に生きる事に疲れ果てていたところだ。
こんな生活が寂しくないわけがない。
ジュエリアは自分の目から溢れ出る涙も気に止められないほど、無我夢中で掴んだ枕でシベリウスを追い払うように叩いていた。
シベリウスは興奮しているジュエリアから枕を奪い捨て、彼女の両腕を掴むと、強く引き寄せて抱きしめる。
シベリウスの腕の中で最初は暴れていたジュエリアも、布団なんかとは比べ物にならないほど温かく優しい腕の中に、深い安心感を感じてしまう。甘い香りに包まれながら、シベリウスの厚い胸板からはトクトクと少し速い心臓の音が聴こえ、心地良かった。
「……ジュエリア、落ち着きましたか?」
温かく穏やかな声で聞くシベリウスに、ジュエリアはもう何が何だかわからなくなり、恨めしそうに彼を見た。
「……婚約を解消して。私はダラダラと結婚を先延ばしにせず、早く嫁がせてくれる相手が良いの」
シベリウスの片眉がピクリと動く。
「ミアはあなたに夢中よ。今私達が婚約解消すれば、彼女はきっとあなたとの婚約を望むはず。帝国はミアとの婚約を勝ち取りたかったはずでしょ? そもそも私との婚約の意味は何? 私と結婚したところでこの国の主権など取れないし、この国と隣国の監視目的なら、別に私と婚約しなくても出来るでしょ?」
シベリウスはジュエリアを睨みながら、先ほどまでとは打って変わって、人が変わったように冷たい冷気をその身に纏っていた。
「婚約は解消しない」
ジュエリアは涙でぐしゃぐしゃの顔で睨み返す。
「十八になればこの城から出られたはずなのに……あなたとの婚約で未だにこの城に捕らわれているの」
「この婚約は、あなたが考えてるような意図はない。もう少しだけこの生活をして貰わないといけないのが心苦しいですが、必ずあなたを守り幸せにするので、私を信じてくれませんか?」
「無理よ。だって、なぜ私が相手なのか理解出来ないもの。いいから婚約を解消して」
シベリウスは微笑んだ。だがその目は笑っていない。底が知れない笑顔ではなく、底冷えする程の笑顔だ。
「何があろうと、私はあなたを絶対に手放さない」
シベリウスの笑顔は穏やかで柔らかいくせに、いつも心の内を他人に読ませない。今も読めない微笑みで、ただジュエリアを見つめていた。