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短編

先生と私の期間限定の恋

作者: 田山 歩


 レイチェル・カロン伯爵令嬢は王立学園に通う三年生である。茶色の髪と瞳を持ち、クラスでも地味な存在のレイチェルは貴族令嬢にしては珍しく教養に関係のない薬草作りクラブに入っている。


 大体の貴族令嬢は上位貴族令嬢の社交クラブ等、将来のパイプを作れるクラブに在籍しているのだが、派閥や争いを嫌うレイチェルはひっそりとそこへ入部した。恐らく聞かれない限りは帰宅部だと思われているだろう。それ程、周知されていないクラブなのだ。


 薬草作りクラブとはその名の通り、薬草を一から育てる事を活動としている。周知もされていなければ、貴族は土を触る事を嫌うので全く人気がない。そのため部員はなんとレイチェル一人。


 顧問とレイチェル、三年間ずっと二人っきりで活動していた。


 顧問の男は子爵家の三男坊だった。故に背負うべき責任は少なく、自身の趣味だった薬学の道を生涯の仕事に選んだ。


 名はシリウス・リーガン。

 彼の薬学の授業はわかりやすいと評判だが、試験の難易度が高い為、一部の生徒から嫌われている。

 性格は至って柔和。だが嫌味を嫌味と思わない強かさも持ち合わせていた為、腹黒と影で噂されていた。本人はまったく気にしていないようだが。



 そして、そんな二人の関係性が生徒と教師から変容したのはいつからだったか。


 レイチェルがそれを自覚したのは遅くとも一年の冬頃だっただろう。

 放課後に二人で過ごす内にレイチェルの中に恋心が芽生え始めたのだ。

 クラブの時は勿論、授業の時でさえ胸が高鳴った。目が合い、微笑まれればそれだけで何日も過ごす事が出来た。廊下ですれ違った時も、他の先生に授業の事を聞いていた時も、シリウスを視界に入れれば胸が躍った。




 25歳のシリウスにしてみたら、こんな子供の好意など迷惑に違いないと思い、告げるつもりも無く過ごしていた、ある二年の夏の日。


 畑の手入れを終え、部室に戻った二人は夏の日の火照った体を冷風で冷やしながら育ちつつある薬草の話をしていた。あれはそろそろ収穫時期だとか、葉が陽でやけているのがあるから低木でも植える?だとか……そんな他愛もない話をしていた時だった。

 

 ふと、レイチェルが窓辺のシリウスへ視線を向けると彼は落ちる夕陽の優しい光に照らされていた。オレンジ色が混じり気のない黒髪を照らし、絹糸の様に光り輝く。まるで絵画の様な美しさにレイチェルは見惚れ、自分の意識とは関係なく無意識に何かを口にした。レイチェルの口からは確かに音が作られたが、レイチェルはそれを認識していない。レイチェルがその時認識していたのは目の前の恋慕う人だけだった。


 風が音もなく吹き、身を抜ける。ふわりとした風が手元の麦わら帽子のリボンを揺らした。


 シリウスは窓に向けていた視線をレイチェルへ向けると、驚いた様に目を見開いた。それはレイチェルが漏らした言葉を聞き取ったからだろう。まだ何も気付いていないレイチェルはシリウスの様子に小首を傾げる。茶色い髪がサラリと揺れた。

 シリウスは見開いた目をゆっくりといつもの穏やかな目元に戻すと、そう…とゆったりと微笑み、窓辺からレイチェルの前に移動した。


「私も君が好きだよ」


 宝石の様な緑の瞳がレイチェルだけを映す。その瞳の中に酷く驚いた顔の自分を見つけ、レイチェルの顔は真っ赤に染まった。


 それは暑さが緩んだ、夕日に染まる部室でぽつりと零した言葉。

 それは全くの無意識で、溢れる様に漏れた言葉で、決して彼には聞かせるつもりも無かったもの。


 レイチェルの恋心だった。


 最初は口にしたつもりが無かった為、彼が何故急に頷いたのか分からなかった。だが笑顔で次に紡がれた言葉で自分が何を話してしまったのか理解した。




 時が止まるとはこういう事なのだろう。レイチェルは瞬きさえも止め、言葉を反芻した。

 自分はついさっき、何を考えていたのか。それを考えれば何を口にしてしまったのかなんて瞭然で、レイチェルは呆然とシリウスを見た。


「せん、せ」


 言葉を発すれば、驚きからなのか、はたまた追いつかぬ心からなのか何故か涙がとめどなく溢れ、頬を流れていく。


―――先生も、私が好き


 報われるとは思っていなかった初恋が成就した。見ているだけで心満たされた恋心は受け入れられたのだ。

 胸に去来する受け止め切れない突然の喜びをどうやって消化すればいいのか。レイチェルはただただ泣くしか出来なかった。ぽろぽろと溢れる涙は手元の麦わら帽子に吸い込まれていく。

 泣くだけのレイチェルをシリウスはそっと抱きしめて、もう一度耳元で囁いた。


「好きだよ」


 夏の落ちる陽に、ひぐらしが奏でる求愛の音が世界を撹乱する様に響く。泣き声は抱き止める胸の中へ消え、頭を撫でる大きな手はいつまでも優しくレイチェルを慰め続けた。




 その後、密かに恋人になった二人はいくつかの約束事をした。

 一つは絶対にバレないようにする事。また一つはキスまでは可。そして最後はレイチェルの卒業までの関係、との事だった。


 最後の約束は何故なのか聞いたが、君の為だよと押し切られた。

 頭の何処かで自分は彼にとって遊びなのかもしれないと感じたが、それでもシリウスの側に居れるならと納得した。


 それからは穏やかに、包まれる様な愛に蕩けながらレイチェルは過ごしていった。

 触れるだけのキスも沢山したし、事あるごとに抱き寄せられたりもした。休日はバレるのを恐れて会わなかったが、平日は毎日二人でお茶をし、畑を耕して、泥だらけになって笑った。

 長期休みは手紙のやり取りをしたし、学校にいるシリウスに会う為に理由をつけて学校に会いに行ったりもした。麦わら帽子をつけて、草をむしり、夕方には水やりをして…


 そんな日々を送っていた。こんな日々がずっと続けば良いと思った。

 だが、いつの間にか期限付きの関係の終着点に近付いていた。


 気付けば三年の晩秋。卒業まで五ヶ月を切っていた。見ないふりをしていても時は過ぎるもので、段々冷えていく外気に心が先を思って、凍っていった。


 相変わらず、クラブに出続けたレイチェルは気にせぬ素振りでシリウスと共に居たが、気持ちの限界が近い事を察した。ふとした時に悲しみが胸を襲い、どうにも出来なくなる事が多くなったのだ。

 誤魔化そうにも誤魔化しきれない想いが、喉の奥から出そうになり、その度に無理矢理笑顔を作って逃げ出した。


 辛かった。この恋が。

 この恋を終わらせるのが辛かった。


 逃げ出した先で蹲り、何度溢れる涙をスカートに吸い込ませただろう。数えきれない涙がスカートに吸い込まれ、放課後にスカートが湿らない日が少なくなった。




 この恋はどういう結末を迎えるのだろう。そんな事を考えることが多くなったある日、レイチェルは父親に呼び出された。


「そろそろ婚約者を決めようか」


 突然の言葉に頭が真っ白になった。


「卒業したらレイチェルも結婚適齢期。本当言うと私も寂しいが、私の我儘で家に縛り付ける訳にはいかないからね」


 寂しそうに笑う父を見て、感情が浮上してくる。

 優しい父、母が幼い時に亡くなってありったけの愛情を注いでくれた父。


「我儘だなんて、そんな、私もいつまでもお父様の側にいたいです」

「可愛いレイチェル。でも私も永遠には生きれない。いつかはスザンヌの、お母さんのところへ行くだろう。それはきっとレイチェルよりも早く。その時、レイチェルが一人でない様に幸せな結婚をして欲しいんだ」


 優しく、諭す様に言う父にレイチェルはなにも言えなくなってしまい、ただ小さく頷いた。


 首を動かす時、シリウスの顔が浮かんだ。それはいつまでも消える事なく寝る時まで脳裏に浮かび続け、目が覚めても残っていた。


 空気の冷たさが身に染みる、朝。

 レイチェルは惹かれる様に部屋のバルコニーの扉を開けた。澄んだ冷たい空気が体を刺し、鼻と口を寒さから守る様に両手で覆えば、指の隙間から白い吐息が漏れた。


 季節は学生最後の冬。卒業まであと三ヶ月となっていた。




 父が言うに、婚約の打診はいくつか貰っており既に一人に絞り込んでいるとの事だった。


 相手は同じ伯爵家の次男で、家督は兄が継ぐ予定だとの事。本人は数年前から商会を立ち上げており、最近業績は右肩上がりだと言う。

 人柄は穏やかで、だが芯のあるしっかりとした人間だと父が説明するのをぼーっとレイチェルは聞いていた。


「やはり急だったかな。気乗りしないかい?」


 あまりに気のない返事ばかりをしていたせいか、父が説明を止め、そう口を開いた。

 気乗りしない理由は他にあったが、言えるわけもなくレイチェルは曖昧に笑った。


「気乗りしないというか、まだ現実味がないという方が正しいのかもしれません。何故か他人事の様に思えてしまって」

「そうだね、そうかもしれない。レイチェルが良かったら早めに彼に会ってみるかい?会えば思いの外しっくり来るかもしれないし。反対に私には見えなかった彼の一面がレイチェルには見えるかもしれない」


 どうだろうか、と問われれば父に弱いレイチェルは頷く事しか出来ず、あっという間に顔合わせの日が決まってしまった。

 二週間後の日曜日と伝えられたレイチェルは了承しながらもシリウスの事をずっと考えていた。




 レイチェルは婚約の事をシリウスに話すべきか否か悩んでいた。今までであれば軽く話せただろうが、今はどうにも上手く伝えられる気がしなかった。


 卒業、という期限が心を刺すように痛めつける。

きっと今までは卒業に現実味を感じていなかったのだろう。だから約束事を決めた時も少し思うものはあったが受け入れられたのだ。でも実際、間近に卒業を控えると目の前が真っ暗になっていく。


 幸せだったからこそ、反動が大きいのだろう。重い気持ちを抱えたまま、レイチェルは三年間通い続けた部室までの道を、整理できない感情で歩き続けた。


 部室へ入れば、いつも通りシリウスが腕を広げて招き入れ、それにレイチェルが抱き付いた。

ぎゅうぎゅうとシリウスを締め付け、先生と呟けば、シリウスは短く優しい声で反応し、いつもの様に頭を撫でた。

 薬臭さの中にある、爽やかなシリウスの香りに安心感を覚え、レイチェルはそのまま頭をグリグリと胸に押し付けた。

 シリウスの香りを全身に染み付かせたかったのだ。

 本当を言うとレイチェルはシリウスと男女の関係を持ちたかった。レイチェルの全てをシリウスに捧げて、卒業後も縛り付けたかった。


 その行為がどういうものか、正直分かっていない。だがキスをする度に溢れる気持ちはそれを求めている気がした。


「どうしたの、レイチェル。今日は甘えん坊だね」


 耳を擽る声が間近に聞こえ、レイチェルは小さく笑った。


「先生」

「なに?」

「好きです」

「知ってる」


 僕も好きだよ、と背中を摩られる。それだけで胸がいっぱいになり、だが直ぐに卒業の文字が浮かび、どん底に落ちていった。


「さて、畑に行こうか」


 シリウスはレイチェルをそっと離し、顔を覗き込みながらそう言った。レイチェルは頷き、いつもの手入れ道具一式を取りにロッカーへ向かうと後ろでそうだ、とシリウスが声を上げた。


「これ、持って帰っていいよ。君専用のだったからね」


 何のことだろうと視線をシリウスに向けたレイチェルはハッと息を呑んだ。


 それは夏の日に連日被っていた、黄色いリボンのついた麦わら帽子。

 一年の時から被ってきた為、少し草臥れたそれはレイチェルがここにいたという象徴でもあった。


 暑い暑いと言いながら草をむしり、パラソルの下で水分補給をして、日焼け止めを塗り合った夏の日。

 熱中症になりかけて保健室へ担ぎ込まれたりもした。あまりの暑さにホースの水を足元にかけて、シリウスの顔を顰めさせた事も。


 あの、つい溢れた気持ちを受け入れられた日も、手元にはそれがあった。


 まるで走馬灯の様に流れた思い出に胸が詰まる。


(先生の未来に、私はいないの?)


 卒業までの関係。わかっていた筈なのに、この部屋から自分がいた痕跡を消されていく事に悲しみとも、絶望とも言えぬ、ぽっかりとした感情が胸を覆い尽くして行った。


(先生のいる夏は、)


 レイチェルはシリウスの手から麦わら帽子を受け取り、リボンをそっと撫でた。君は黄色が似合いそうだ、と選ばれた帽子。

 遥か昔の様に感じた思い出に虚しさを感じた。


 その後、結局レイチェルはシリウスに婚約の事を言えずに顔合わせの日を迎えた。






「ブルーノ・エイデンです。君と同じ伯爵位の次男坊で、サンマリア商会の会長を勤めてます。」

「初めまして、レイチェル・カロルと申します」


 顔合わせはカロル伯爵家で行われた。最初はお互いの父同伴であったが、軽い自己紹介が終わった後、温室で二人でお茶をする事になった。


 温室までの道で軽く庭を案内すれば、ブルーノは植物に造詣が深いらしく、レイチェルが名前を言うよりも先にそれを言い、素敵ですねと笑った。


「冬は花が少ない季節ですが、その代わり葉が綺麗な季節になります。いつもは華やかな花弁に負けている葉も気温が下がると一気に主役に躍り出て。知ってますか?リアンガ地方にはリーフ系を主にした庭園があるのを」


 穏やかな笑みでゆっくりとこちらを気遣いながら話す姿は、とても好感が持てた。父が推す意味もわかる、と談笑を続けていたが、どうしても頭の隅からシリウスが消えなかった。


 庭園でお茶を飲みながら、植物の話、仕事の話、レイチェルの学校の事、クラブの話…様々な話をした。

話は詰まる事はなく、穏やかに時間は過ぎていき、気付けば陽が傾きかけている時間になっていた。


「レイチェル嬢さえ良ければ、私はあなたを婚約者としたい。どうか前向きに考えていただけないだろうか」


 帰り際、人好きのする笑顔で真っ直ぐに言われ、レイチェルは小さく頷いた。そうするしかない気がしたのだ。


 ブルーノは両手でレイチェルの右手を握り、ありがとうと言うと馬車に乗り込み、手を振ってきた。

 それを見て、レイチェルも微笑みながら手を降り、馬車が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。


 父はそんなレイチェルの様子を見て、肩を抱きながら、婚約を進めても良いかい?と少し寂しげな声で尋ねた。レイチェルは肩の父の手に自分の手を合わせ、ええ、と短く返事をすると執事が開けてくれた扉から屋敷の中へ歩を進める。


 真後ろでバタンと扉の締まる音が聞こえ、レイチェルは晴れない気持ちのまま自室へ向かう階段を登って行った。


 頭の隅のシリウスは麦わら帽子を持って『レイチェル』と名前を呼び、記憶の中のひぐらしが頭をグラグラと揺らし続けた。






 翌日、レイチェルはいまだ整理できない気持ちのまま部室の扉をノックした。どうぞ、といつもと同じ声がしてホッとしたのも束の間、一瞬で罪悪感が襲ってきた。


(先生と恋人なのに、婚約者を決めてしまった)


 今更ながら気付いた事に、レイチェルは急に扉を開ける事が出来なくなってしまった。今まで騙し騙し来ていた卒業までのカウントダウンを自分が早めてしまった事に蒼白となり、体が石の様に動かなくなってしまったのだ。


 不誠実な事をしてしまった、と次第に体が震えていくのを感じてレイチェルが扉の前で立ち尽くしていると、目の前の扉が開いた。


 レイチェルの視界に入ったのは白衣、そして美しく、愛おしい黒髪と形の良い額、そして緑色の綺麗な瞳。


「せん、せ」


 レイチェルは溢れそうな涙を気持ちで押し留めて、シリウスの白衣へ視線をやった。顔を見ると泣きそうなのだ。

 シリウスはそんなレイチェルの腕を引っ張り、部屋の中へ入れると扉を静かに閉めた。


「レイチェル、私を見て」


 腕を持ったまま、シリウスはレイチェルへ言った。自分よりも頭一個分以上身長の高いシリウスから落ちる声に、レイチェルはゆっくりと見上げる様に頭を上げた。


 入ってきたのは緑色の瞳、綺麗でその瞳で見つめられるのが何より好きだった。

でも何処かいつもと違う瞳な気がして、気付けばレイチェルはシリウスの頬に手を伸ばしていた。


「先生」

「ブルーノ・エイデン」


 伸ばした手を強く握られた。強く、強く、それは彼から与えられた事のない痛み。


 だがレイチェルはそんな事どうでも良かった。彼の口から出た言葉は昨日の婚約者の名前。シリウスが知る筈もない、相談もしなかった相手の名前だった。


 何故その名を、と言おうとしたが声が思う様に出ず、口も動かなかった。

 いつの間にやら瞳を覆う涙も消え、困惑だけがレイチェルに残った。


「婚約者に、なったのかな?」


 強い声色は聞いた事がないもので、瞳の奥が冷めている事に気付いた。


「私は君の恋人じゃないの?」


 怒っている。レイチェルはほぼ初めて向けられる怒りに小さく息を吸い込んだ。だが、シリウスの怒る理由も分かるので何も言えない。こんな不誠実な事はあり得ないだろう?

 頭上に落ちる声で身が冷えていく。自分が招いた事なのに、足元がグラグラと揺れている感覚が襲った。


 冷たい瞳が怒りで満ちているのを感じていると不意に顎を持たれた。いつもよりも力を感じる行動に不安からレイチェルの目が揺れる。


「答えて、レイチェル」


 強い瞳が責めるようにレイチェルを見る。こんな瞳で見られたこと等なかった。胸に苦しさが込み上げ、目元に涙が溜まる。苦しさが限界に達した時、レイチェルはポロリと涙を零した。


「私は先生の恋人よ。でもあと三ヶ月しか恋人じゃない」


 口を開けば次々と涙が溢れ、声が裏返る。伝えたい想いが激流となり、頭を襲うが上手く言葉に出来ない。何度も何度も瞬きをし、目の前のシリウスを見る。少し見ただけで視界は直ぐに歪み、シリウスがどんな表情をしているのか読み取れない。

 でもレイチェルには今のシリウスの表情なんてどうでも良かった。それよりも襲いくる感情の波に身を委ねて全てを吐き出したかった。


 ずっと言いたかった事。期限付きの関係。終わりが見えて怖くなったもの。

 そもそも、あの約束事が残酷だったのだ。最初にあんな事を決めなくても良かった。


「教えて、先生。何で最初に卒業までって言ったの?先生の心の中で決めて、卒業式に私を振るのじゃ駄目だった?ねぇ、先生。本当に私の事好きだった?ねぇ、先生」


 私は先生の遊びだったの?


 シリウスの顎の手がレイチェルの涙で濡れていく。ぼたりぼたりと大粒の涙が頬を伝い、シリウスの手を経由して床に落ちていく。


 シリウスは眉根を寄せ、顔を歪ませた。そして顎の手をレイチェルの頬に這わせ、親指で涙を拭っていく。


 声を漏らしながら泣く姿にシリウスは、違う、違うよと呟き、今度は涙を拭う様に唇を寄せた。


「遊びなんかじゃない。確かに最初は君の青春の1ページになれればと思って恋人になった。卒業までと決めたのは、いつ君が心変わりをしても罪悪感を少なくしたかったんだ」


 何度も何度も唇を瞼、頬へ慰める様に落とし、シリウスはレイチェルの涙を拭い続ける。


「でも、君と過ごす内にどうしようもなく愛しくなっていった。何をするにも君が浮かんで、本当にどうしようもなくなって」

「せ、んせ」

「何故期限など決めたのか過去の自分を恨んだ。三年になって、春が終わり、夏が過ぎて段々とレイチェルが悩んでいるのが、怖かった」


 頬に唇以外の感覚を感じて、レイチェルはふとシリウスを見る。


「卒業までの期限を気にしているのか、それとも…他に好きな男が出来たのか、どちらか分からなくて怖かった」


 シリウスの緑の瞳からポタポタと涙が流れていた。自分よりも大きな存在が泣いている事に一瞬驚き、そしてシリウスの言葉にまた涙した。


「ブルーノは、私の友人でね。昨日酒に付き合ったんだ。その時に聞いた」


 突然の告白にレイチェルの時が止まる。


「婚約を聞いた時、嗚呼なんて自分は馬鹿だったんだって思ったよ」


 自嘲気味に言ったシリウスはレイチェルの手を取り、手のひらに唇を落とした。


「こんなに後悔するなら話せば良かったんだって」


 自分の指の間から緑の瞳が見え、手のひらのゾクリとした感覚と相まってレイチェルは小さく声を上げる。体を抜ける感じた事の無い感覚に身が痺れていく。


 そんなレイチェルの事を知ってか知らずかシリウスはその場に傅いた。熱い瞳をレイチェルに向け、両手を握る。その手がいつもより冷たく、そして僅かに震えているのにレイチェルは気付き、ハッとした。


「私は、君を…レイチェルを愛してる。きっと君が思うよりずっと愛している」


 その声は瞳同様に熱く、だが声は震えていた。ポロリと流れる涙に瞳が奪われる。


「レイチェルと過ごす季節が好きだ。君ともう同じ風景が見れないなんて、君が隣に居ない事を考えられない」


 その言葉にレイチェルも涙を零した。

 シリウスに麦わら帽子を渡された日、彼の中に自分が居ないのだと絶望した。夏の日、必ず被っていた帽子、それを持って帰って良いと言われた時の感情は今でも鮮明に覚えている。


 悲しかった。彼の世界から自分が消えるのが。

 自分が居なくても彼が生きれる事が辛かった。

 自分はもう彼無しでは生きれないのに。彼が居ない時をどう生活してきたのか、もう分からなくなっていたのに。


 レイチェルは涙を拭いたくとも両手をシリウスに取られている為、ポタポタとそのまま流し続ける。もしかしたら鼻水も出ているかも知れない。でも、とめどなく流れる涙を止める術をレイチェルは知らなかった。


 シリウスは傅いたまま、レイチェルの名を呼ぶ。レイチェルは返事もままならず、力強く頷いた。

 

「君は、私の事をどう思ってる…?」


 震える不安な声が鼓膜を揺らす。その声に感情が噴き出る。


「だいすきです、だいすき……すきです。すきなんです、せんせい」


 泣きすぎて声が舌ったらずになる。それでも伝えたかった。貴方が好きだと。ずっと一緒に居たいのは貴方だけなのだと。

 もしかしたら他の人から見たら子供の恋と言われるのかも知れない。でも恋は恋だ。レイチェルはこの恋に心を全て捧げた。一生分の恋を捧げても良いと思う程、レイチェルはシリウスに恋をしたのだ。


 シリウスはレイチェルの返事にくしゃりと顔を泣きそうに歪め、それでも堪えきれず涙を零した。

 そして立ち上がり、レイチェルをきつくきつく抱き締める。肩口に頭を埋められ、シリウスの髪がレイチェルの首をくすぐった。


「ありがとう」


 レイチェルにしか聞こえない様な囁く声で言われ、レイチェルの胸に愛しさが込み上げる。


「せんせぇ」

「ん」

「すきなんです」


 レイチェルのその言葉にシリウスは肩口から顔を話すと、真っ赤な鼻と目でレイチェルを見た。恐らくレイチェルも同じ様な顔だろう。


 何だかおかしくなった二人はふふ、と笑い合い、額を合わせた。くすぐったい様な顔をするレイチェルにシリウスは慈しむ様なキスをする。お互いの涙のせいかキスは塩っぱかった。


「レイチェル」


 唇の近くで呼ばれ、レイチェルは吐息に身悶える。もっと、と強請ればきつく抱き寄せられ、再度唇を塞がれた。

 触れるだけ、それなのにこんなにも満たされる。


「レイチェル」


 耳元で名を呼ばれ、蕩けるような瞳で見つめられたレイチェルはその瞳に答える様に微笑んだ。


「なぁに?」


 ふふ、と笑いながら頬にある大きな手に擦り寄る。それにシリウスは撫でる様に指を動かすと、もう片方の手でそっと顎を支えた。


 シリウスが長い指で顎を擦る。それだけでぞくりとした。


「良い子」


 そう言うと噛み付く様なキスをした。全てを貪る様な、獣の様なキスを。触れるだけでは無い、初めてのキスを。






「君のお父上に挨拶に行こうか」


 散々泣いて、真っ赤になった二人が落ち着いた頃、シリウスがそうレイチェルに告げた。その言葉の意味を正確に理解したレイチェルは一瞬の間の後、ゆっくりと破顔する。


「本当に?」


 再び泣きそうになる気持ちを抑えて尋ねれば、シリウスはふわりと微笑みながら頷いた。


「結婚しよう、レイチェル」


 再び決壊した涙腺にレイチェルは声を出して泣きながら頷き、シリウスはそれを拭いながら『幸せだ』と笑った。




 その後、結婚の承諾を貰った二人は卒業の半年後に結婚をした。

 ちなみにブルーノとの婚約は締結前にブルーノからお断りされたらしい。恐らくそれはシリウスが何か言ったのだろうとレイチェルは思ったが、それをシリウスに聞く事は無かった。


 二人は貴族には珍しく庭に菜園を作り、自家製の野菜を食卓に振る舞った。勿論、薬草畑も作り、町にある小さな薬局に卸したりもした。

 二人楽しそうに畑仕事をする姿は伯爵家の名物となり、伯爵夫人の麦わら帽子姿は幸せの象徴だと言われ、その横で微笑む伯爵の姿は愛そのものだと生涯言われ続けた。




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