柏とマルテル
菫が花園楼から王城へと去り、ユーキとの婚約の結納の品がユーキの母であるマレーネ王女から楼へと届けられてから少し後の日の昼過ぎのことである。
柏が花園楼の庭で箒を持ったまま何をするともなしに突っ立っていると、いきなり背後から差配の薄婆に声を掛けられて驚いた。
「柏!」
「えっ! へ、へえ」
「あんた、呆けて突っ立てんじゃないよ。そこをさっさと終わらせて、ちょっと私の部屋に来て」
「へ? いえ、何ですかい?」
「来ればいいの。ぼさっとしてないで、さっさとおし」
「へえ、すいやせん」
柏は慌てて庭の掃き掃除の続きを始めた。
男衆の頭である柏は普段はこんな雑用はしないのだが、何人かが使いに出されていて手が足りないということで駆り出されていた。
ところが、なかなか手が進まない。
庭の片隅をぼうっと眺めているところを薄婆に見つかったのだ。
剣突を喰らわされて慌てて手を動かすが、なかなか捗らない。
見るに見兼ねた松爺が横から柏の持っていた箒を掴んだ。
「柏兄さん、ここはあっしがやっとくから、早いとこ婆様の所へ行きな」
「でもよう」
「いいから。掃除どころか、葉っぱを掃き散らかしちまってるじゃねえか。兄さんがやってたらいつまでたっても終わんねえよ。任しときな」
「ああ、済まねえな。じゃあ、頼まあ」
柏は箒を松爺に手渡すと、楼の裏口の方へととぼとぼと歩いて行った。
その煤けた後ろ姿を見ながら、松爺は苦笑いしながら独り言ちた。
「あの子が行って気が抜けちまったんだなあ。無理もねえや、掌中の珠を無くしちまったんだからな」
松爺は柏が見ていた庭の隅に視線を流した。
そこには一輪、季節忘れの菫の花が咲いていた。
「婆様、参りやした」
「入って扉を閉めて、そこにお座り」
柏が薄婆の部屋に来て扉の外から声を掛けると、中からイライラした声が返って来た。
どうやら婆様は御機嫌斜めらしい。
「へえ」
こういう時は逆らわないに限る。
柏は言われた通りに部屋の中に入ると、卓に向かって座っている薄婆の反対側の椅子に大人しく座った。
尻を落ち着ける間もなく、薄婆が眉根を寄せてきつい声を出した。
「柏、あんた、この頃ちょっとおかしいんじゃないかい?」
「へえ」
「ぼーっと廊下で突っ立てたり、そうかと思えば妓女の部屋を取り違えたり。溜息を吐いていたと思えば、お客の名前を間違えたり。しっかりしとくれよ、しっかり」
「へえ、あい済いやせん」
「まあ、原因はわかってるけどね。でも、いくら気張って大事にしていた子がいなくなったからって、若衆の頭のあんたがこの様じゃ、他の若衆どころか妓女や禿にまで示しがつかないのよ」
「へえ」
「今日はもういいから、飲みにでも行って来な」
「いや、そんな。それじゃあ楼や他の連中に迷惑が掛かりやす」
「そんな脂が全部抜け落ちたオークみたいな、しょぼくれた顔でうろつかれている方がよっぽど迷惑だよ。客が逃げるどころか、貧乏神を呼び込んじまうわ。ほら、これを使いな」
薄婆は小金の入った巾着を卓の上に置いた。
「それで足りなきゃ、自分で出しな」
「へえ」
柏はしぶしぶと巾着を手に取った。
結構な枚数のリーグ銀貨が入っているらしく、持ち重みがする。
その様子を見ながら婆はさらに言った。
「そんな情けない顔をもし菫が見たら、心配して『帰って来る』って言い出すわよ。湿気た気分を酒で綺麗さっぱり洗い流して来るんだよ。そんで気分を切り替えて、明日からはしゃきっとするんだ。いいかい、その顔をしたまんまで帰って来たら、楼には入れないからね。くびだから」
「わかりやした。婆様、御心配お掛けして、あい済いやせん」
「わかったら、行った行った。疾っとと出てお行き」
薄婆は手で二、三度払う仕草をして見せた。
柏は頭を下げて部屋を出た。
廊下に出ると自然と顔に苦笑いが出る。
今頃、薄婆は部屋の中で『まったく、いい齢をして手が掛かるんだから。これじゃ菫がいなくなってもこっちの手間は変わらないじゃないか』とか、ぼやいているんだろう。
確かに、情けねえこった。
ここでぼやぼやしてたら、また『いつまで愚図愚図してんだい!』とどやされちまう。
柏は首を振り振り、廊下を歩いて行った。
さて、外出着に着替えて外に出たは良いものの、まだ陽は高く、酒を飲むような気分じゃあない。
さればとて、花街の通りをうろうろしても仕方が無い。
顔見知りばかりの中を歩いていては、こんな時間にどうしたとあちこちから声を掛けられるのが目に見えている。
それでは気が休まる訳がない。
かと言って、花街の外に行く当てがある訳でもない。
迂闊に繁華な通りを歩いて、侯爵家に仕えていた頃の昔の知り合いに会っても面倒だ。
考えた末に、以前に菫と菖蒲を連れて行った広場に散歩に行ってみることにした。
あの時の雨と違って今日は晴れ。
暑い日差しの中を散歩とは酔狂に過ぎる気もするが、気分転換なのだから変わったことをしてみるのも悪くは無かろう。
急ぐ用がある訳でなし、ぶらぶらとゆっくり歩いて公園に着いたが、この暑い最中だ。
人は誰もいない。
陽射しを避けて木の根元に座り込んでみる。
菫と菖蒲を連れて来た時は花盛りだった桜の樹々はもう緑の葉を一面に繁らせ、それぞれに大きな影を地面に落としている。
見上げると太陽の光が葉を透かして緑色に染まり、隙間からちらちらと目を射して来る。
その眩しさに目を瞑って思い出す。
あの時に傘の影からこちらを見上げた菫の笑顔。
あの顔がいつまでも続いて欲しいもんだ。
思い起こせば笑顔より泣き顔の方が多い娘だった。
母親を亡くした時。
近所の遊び仲間の子供達について行けなくて置いてきぼりにされた時。
禿になって初めて行儀を厳しく仕込まれた時。
朋輩の菖蒲に踊りや歌で負けた時。
大きな眼から涙をぽろぽろ流して泣きながらでも顔を上げて、一所懸命に努力をして前に進む娘だった。
楼では禿の芸事が少々上達しても、慢心しないようにと褒められることは滅多にない。
それでもたまに薄婆やお師匠に褒められて、本当に嬉しそうに笑った顔の紫色の瞳の輝きは、宝石よりも眩しかったもんだ。
木陰に風が吹き、日差しが目に入って柏は目を覚ました。
いけねえ、どうやら考え事をしているうちにうたた寝をしちまったようだ。
もう日が傾いて、日陰だった樹の下にも陽が差し込むようになっている。
喉も乾いた。
夜になるまで、婆様に言われたようにどっかで一杯やるとするか。
柏は立ち上がって服に着いた砂を払い落して花街の方へ向かって戻ると、途中にある居酒屋に立ち寄った。
案内された小さなテーブルに向かって一人で座り、濃い目の酒とつまみを頼んでちびりちびりと飲み始めた。
少し酔いが回ってきても、頭に浮かぶのは相も変わらず菫のことばかり。
柏はふとそれに気付いて、俺はいつの間にこんなになっちまったんだ、これじゃあ俺の方が菫に甘えてたみたいじゃないかと苦笑いした。
それで我に返ると、店はいつのまにか一杯になっていた。
あっちこっちのテーブルで、大声を上げて騒いでいる連中が目立つ。
俺みたいに静かに飲みてえ奴らも結構いるだろうに、迷惑な連中だ。
だがまあ、誰だって酒を飲んだら気も声も大きくなるもんだと思ってまたグラスを手に取る。
そこへ、新規に六人連れの客が入って来た。
客は何かしゃべりながら店の中ほどまで入って来て、しばらく辺りを見回しながら立っていた。
が、店員が忙しそうに走り回っていてなかなか相手にされないでいると、大声を出した。
「おい、お前! いつまで待たせるんだ! 席へ案内しろ!」
呼ばれた店員は客に気付いて慌てて周りを見回したが、生憎と空いたテーブルが無い。
「申し訳ございませんが、今、満席でして。またのお越しをお願い致します」
それを聞いて客の声がさらに大きくなった。
「何だと! 待たせた挙句に帰れとはどういう言い草だ! そこら辺の連中に詰めて座らせればいいだろう!」
無茶なことを言い出した。
「そうも行きませんので。申し訳ございません」
店員が当然の様に断ると気に障ったのか、客の内の一人がいきなり店員の胸倉を掴んだ。
「うるせえ、痛い目に遭いたくなければ、さっさと席を作れ」
そう言って辺りを見回すと、大きめのテーブルに座っていた三人連れを空いた左手で指差した。
「あの連中をどこかへ動かせば良いだろう。さっさとやれ!」
そう言うと店員を突き飛ばした。
店員がよろけて転がって来たので柏が助け起こしていると、指差された連中が立ち上がった。
「何だと? 俺達のことか?」「おう、お前ら何様のつもりだ!」「店に迷惑を掛けてんじゃねえぞ!」
柏がそちらを見ると、ここらでよく見る腕自慢の傭兵の連中だ。
新参の客はそれを知らないのだろう。
六対三で気が大きくなっているのか、嬉しそうに突っかかって行く。
「お前らこそ何様のつもりだ!」「そうだ、偉そうな座り方をしやがって!」「店に迷惑を掛けてんのはお前らの方だろうが」
だが三人の傭兵も退く気は全くない。
両方が前に出て、胸付き合わせんばかりだ。
それを見て、柏が助け起こした店員が「店の中では止めてくれ! 外でやってくれ!」と叫ぶ。
周囲の客は迷惑そうに黙り込むのが半分、面白そうに「やれ! やれ!」と煽る連中が半分だ。
店の中は大騒ぎになり店の奥からも店員が出て来たが、両者の険悪な雰囲気に、間には入れずにいる。
柏の横にいた店員は「衛兵を呼んでくる!」と言って店の外へ走って行った。
折角しんみりと飲んでいたのに、面倒なことになった。
ここは花街の外だし知ったことではないが、さりとて放っておいてとばっちりを食らわされてもたまらない。
柏はやれやれと溜息を吐いて静かに立ち上がると、もう面突き合っている男達の方へ近寄って行った。
男達は息を荒げて睨み合っていたが、傭兵の一人が鼻先で相手を嗤った。
「ふん、口先がけたたましいばっかりか。この鶏野郎が」
「何だと!」
新参の客が憤激して相手の胸倉を掴もうとして手を上げた。
だが、その手は危うく寸前で止まった。
横から伸びた柏の手が客の手首をがっちりと掴んでいる。
それと同時に、柏は傭兵三人の顔を見て目配せを送った。
自分の顔は花街の外でも少しは売れている。
こいつらもこっちの顔ぐらいは知っているだろう。
「何をしやがる!」
だが、新参の方は柏のことなど知る由もない。
掴まれた手を振り解こうとしたが、柏の手は動かない。
それどころか、ひょいと捻ると新参の体がくるりと回されて後ろ手になった。
「何をする、こいつ」
もう一人が柏に掴みかかろうとしたが、同じように柏に左手で腕を取られてあっという間に捻られた。
そのまま二人一緒に門口の方に押していき、入り口から道へと突き放した。
あっけに取られていた残りの四人も、三人の傭兵や店員達に取り囲まれるとたじたじとなり、顔を蒼くして後退りして入り口まで来ると、後ろも見ずに逃げ出してしまった。
「お客さん、有難うございます」「あんた、済まなかったな」「有難うよ」
店員や傭兵達が口々に礼を言うのに「良いってことよ、後は静かに飲ませてくんな」と言い、柏は席に戻った。
やれやれ、すっかり醒めちまった、こりゃあ飲み直しだなと思ってグラスを持ったところへさっき外へ飛び出した店員が、二、三人の衛兵を連れて来た。
「騒ぎのあったのはここか?」
先頭にいた女衛兵の声が響く。
柏にとっては聞き憶えのある声だ。
顔を見てみれば、案の定マルテルだった。
また面倒な。やれやれと思いながら、柏は立ち上がって手を振って合図を送った。
マルテルがこちらに気付いて「あら」という顔をしたところに頭を下げて見せた。
「主任、御苦労さんでございやす。たった今、騒ぎは収まったばっかりで。引き起こした連中は出て行きやした。幸い、怪我人もございやせん。一つ穏便にお願い致しやす」
柏がそう言うと、近くにいた別の店員も「そうそう」と頷き、騒動の相手になった傭兵三人も立ち上がって「お手数をお掛けして済んません」と頭を下げた。
「そう、それは何よりね」
マルテルが通報した店員に言うと、店員は懐から心付けの袋を取り出して渡そうとした。
「お手数をお掛けして申し訳ありません」
「いらないわよ、そんなもの」
そう断ると部下に「先に戻って」と帰らせ、自分は柏のテーブルの方に歩いて来た。
「珍しいわね。こんな時間に一人で飲んでるなんて」
「ああ、しけた顔してたら客が寄り付かねえから外へ行って来いって、婆に放り出されちまった」
「まあ、それは御愁傷様。でもお蔭で手間が省けたわ。どうせ貴方が収めてくれたんでしょ」
「喧嘩なんざあ、肴にゃならねえ。かえって酒が不味くなるからな。ついお節介を焼いちまっただけだ」
「そう。最近、多いのよ。ここら辺だけじゃなく、王都のあちこちの居酒屋で見慣れない連中がいざこざを起こしてるって。大騒ぎにはなってないからいいんだけどね」
「そうかい。衛兵さんは大変だな。座れよ。飲んでいったらどうだ」
「ううん、執務中だから」
そう言いながら、マルテルは柏の前の椅子に腰掛けた。
店員が注文を取りに近寄ってきたが、それを右手で払って断ると、柏の顔をじっと見詰めた。
「……貴方、今日は何か、肩の力が抜けて見えるわね」
「まあな」
「あの子を手放しちゃったから?」
「手放したってわけじゃあねえよ」
「ごめんなさい。巣立ったって言った方が良かったかしら」
「ああ。まだまだ雛っ子だったけどな」
「お使いに行くところを何回か見掛けたけど、すぐにわかったわ。あの子の銀髪はフェルディナント様譲りだもの」
「そうだな。あの方に、一目見せてやりたかったなあ」
「そうね」
マルテルが頷くと、柏は「はあっ」と大きく一つ溜息を吐いて、ぼそりぼそりと菫の思い出を語り出した。
「思い出したんだ。あいつがよ、フェルディナント様の御葬儀から帰る時によ。もう歩けねえっつうからおぶって帰ったんだけどよ。俺の背中で、シュトルム様に繋いでもらった左手を右手で包んで『おにいしゃんの手、あたかかい手。おにいしゃんの手、あたかかい手』ってよう、ずっと言ってやがったんだ。何か不憫でさ。本当ならフェルディナント様と葵様に両手をずっと温めてもらってたはずだったって思ったら泣けて来ちまいやがってよう」
「そうだったの」
「もうこれからは、あのお方と二人でずっと手を繋いで行くんだろうなあ。有難えよなあ。嬉しいよなあって、また泣けて来ちまうぜ」
「今日は本当に素直ね」
マルテルが静かに答えると、柏は左手を顔に当ててずずっと洟をすすった。
「へっ、酒と気の迷いのせいさ」
「ふうん。ま、いいんじゃない?」
柏はグラスを取ると残っていた酒を一気に呷った。
そして店員を呼んでお代わりを頼む。
マルテルはその様子を見て一度微笑んでから、淋しそうにした。
目を宙に泳がせ、昔のことを思い出している様だ。
「葵様とのことは私も何回か弟君のフレドリク様に進言してみたんだけどね。上手く行かなかったわ」
「あの家の中では、フレドリク様がフェルディナント様の唯一の理解者だったな。母君様には逆らえなかったが」
「あの家では誰も母君様には何も言えなかったもの。迂闊なことを言おうものなら家から叩き出されてしまいかねなかった」
「叩き出されちまった上に、母君様の命で実家からも勘当された俺にそれを言うかい?」
「ごめんなさい。でもね、私が辞めたすぐ後に母君様も父君様も亡くなったけど、お二人とも随分後悔しておられたみたいよ。もう少しフェルディナント様の話を聞いてあげれば良かったって」
「後の祭りだあな。あの時の勢いじゃ、少々話し合ってもどうにもならなかっただろうよ」
「そうね。フレドリク様もフェルディナント様に、早く御両親に打ち明けて身請けのお願いをするように言ってたのよ。でも、先に母君様に知られちゃって」
「言わんこっちゃない、か。あん時の母君様はおとろしかったなあ。世の中にオーガって本当にいるんだって思っちまった」
「ちょっと、周りに聞こえるわよ。否定できないけど。侯爵様もフェルディナント様もフレドリク様もスプライトより小さくなっちゃって」
「笑い話になりゃあ良かったんだろうけどよ。そうは行かなかったなあ。思い出しても胸が痛えよ」
「そうね。母君様はもうその後は、別れろ、二度と会うなしか言わなかったわね。誰が何と言っても取り付く島もなかったわ」
「いくらフェルディナント様が謝ろうが、フレドリク様が取り成そうが全く聞く耳が無かったからな。俺まで目通り適わずになっちまって」
「それでもフェルディナント様は葵様に会いに行ったんだから。よっぽど好きだったのよね」
「ああ、毎日のように手紙を書いて、しょっちゅう家を抜け出して街馬車を拾って通ってた。とうとう楼の方から出禁の通知が家宛に来ちまって、母君様がますます不名誉だって怒り狂っちまったんだ」
「その後はもう、思い出したくもないわね」
「だな」
柏がまたグラスを呷り、マルテルは「ふぅ」と溜息を吐いた。
「やっぱりあたしも飲みたくなっちゃった」
「その格好じゃ拙いだろう」
「そうね。もう勤務は終わりの時間だから着替えて来るわ。待っててよ?」
「ああ、花園楼の柏は逃げも隠れもしねえよ。衛兵さんに逆らって逮捕されたかぁねえからな」
次話は11/22に投稿予定です。
大変にお待たせした第二部は11/25に投稿開始予定です。