アーヴァンク
「眠れない」
それもそのはず、賢者の塔で二日目の夜を迎えた僕は。
「……眠れないじゃない、寝るんだ。寝るのも仕事の内だぞ」
胸の谷間から馥郁を薫らせるメフィストさんと、同じベッドで寝ている。
メフィストさんは僕を抱き枕にしてスゥスゥと寝息を立てていた。
困るんだよ……確かに僕はまだ幼少の身であるかも知れない。
傍から今の自分を見れば、可愛く思えるのかも知れない。
けど、前世の時から男である自覚を持っていた僕に、この状況は毒だ。
「ルウ、まだ寝れてないのか……まさかとは思うが、期待してる訳じゃないよな?」
「き、期待って何をです」
「男と女が同じベッドで寝てるんだ、することと言えば一つだろ」
しかし、お前にはまだその準備はないだろ?
メフィストさんの言葉の端々に、心臓がドキドキと鳴る。
「まあ、緊張するよな。普通は……実を言えば、私もだ」
――ちゅ。
「本当に寝れないと言うのなら、別々に寝るか?」
「いや、寝るように努力します」
メフィストさん……ひょっとしなくても、僕達は今、唇を重ねたよな?
メフィストさんの唇の感触を名残惜しむように思い返すと。
口から多幸感が広がり、いい気分のまま眠れた。
翌朝、夢の中を漂っていた意識が覚醒し始める。
唇に、昨日も味わった至福の感覚がしていた。
「お早う、ルウ」
「……ユルシア姉様?」
もしかしなくても、今僕にキスしていた?
ユルシアは目と鼻の先に肉薄している。
「メフィストさんは?」
「メフィスト様であれば、先に起きて朝食を摂った後、出掛けた」
隣を見ると、一緒に寝ていたはずのメフィストさんの姿はなく。
耳に賢者の塔に設置された、時報時計の鐘の音が聞こえた。
賢者の塔の鐘は、0時、6時、12時、18時と日に四回鳴る。
「もう12時だから、さすがに起きて」
「ごめんなさい、今すぐ起きます」
起きた後は朝食も兼ねた昼食をユルシアと一緒に摂る。
今日のお昼は穀物類と根野菜やキノコなどを使ったスープだ。
「姉様、僕にお手伝い出来ることはありませんか?」
「……ルウは先ず、自分の身は自分で守ることを覚えたら」
と言っても、僕は生来から魔法が使えない。
いや、使えなかった。
異世界グロウエッグで、魔法を使えないという事実は拭えない汚点だ。それがメフィストさんと出逢ったことで、魔法の中でも高度な召喚魔法を発動させることが叶ったんだ。
昼食を摂った後は、ユルシアから示唆された通りに動いた。
いつまでもメフィストさんの庇護下に甘えないよう、強くなる。
だから僕はユルシアが昨日持って来てくれた召喚魔法の書物に齧りついた。
◇
「よし」
「勉強は終わった?」
夢中になって召喚魔法の古代魔法式を学んでいれば。
ユルシアは僕の背後にずっと佇んでいたようだった。
「姉様、今は何時頃でしょうか?」
「もうそろそろ18時になる」
「……一つお願いがあるのですが」
「何?」
「僕と一緒に、召喚魔法の実験をした草原に行きませんか?」
「いいよ」
ユルシアは割と軽いノリで承諾してくれた。
彼女を伴い、僕は昨日も来た草原の丘へとやって来た。
空は逢魔が時を示すように、紺紫のグラデーションが目立つ。
「ここで何するの?」
「新しい召喚魔法を使ってみようと思って。スプリガン程強力な代物じゃありませんが、何でも世界の召喚士のほとんどが愛着している召喚魔法らしいです」
その名もアーヴァンク。
水の精霊の一角で、美女に弱く、愛くるしい顔貌をしているらしい。
落ちていた枝を使って、アーヴァンクの古代魔法式を地面に描き始める。
描かれる魔法陣の精密度によっては、魔法は発動しないし、また魔法陣の媒介には少量のMPが必要なようだ。僕はMP0だけど、この世の森羅万象がMPを所有しているのなら、肥沃な土壌をしているここであれば大丈夫だと推測している。
「出来た」
「おめでとう」
「まだ早いですよ姉様、魔法陣が完成しただけで、実際上手く行くかは」
わからない。
もしも本当にアーヴァンクを召喚出来れば、ちょっと自信を持てるのだけど。
上手くいってくれるといいなぁ。
昨日と同じく瞼を瞑り、召喚物に対する意思を、言葉でアプローチする。
「来い、アーヴァンク」
その名を口にすると、身体を巡る血脈が魔法陣と一体化する感覚がした。
魔法陣が身体の一部のように感じ。
魔法陣という部位を通じて、陽光のような温かい何かと接触を図っている。
「ルウ、おめでとう」
不意にユルシアがそう言い、今回も召喚魔法が成功したことを告げる。僕は嬉々として瞼を開き、件の愛くるしい顔貌をしてるというアーヴァンクを探した。
「アーヴァンク? どこに居るんだ」
「ここに居るけど?」
「どこにですか?」
ユルシアに問うと、彼女はくるりと回り、背中を向ける。
アーヴァンクは水の精霊で、美女を好む傾向にある。
その傾向が原因だったのか、アーヴァンクはユルシアのお尻にしがみついていた。
「キュー」
「……この子は役に立ちそうにないね、ルウ」
ですね。
しかしこれで、古代魔法式であれば、僕でも魔法を使えるのは再現出来た。
もう日はすっかり暮れてしまったし、賢者の塔に帰ってメフィストさんに報告しよう。
◇
「私が留守にしている間に、アーヴァンクの召喚も成功させたのか」
「はい、ですが姉様の目から見てもアーヴァンクの使い道はそうはないと」
「まあ、あのケダモノを見ればそう思っても不思議はない」
あの後、僕はユルシアを酷い目に遭わせてしまった。
ユルシアのお尻にしがみついていたアーヴァンクは発情してしまい。しがみついたまま、交尾行動に出始め、最終的にユルシアをびしょ濡れにさせてしまった。
水の精霊の一角と言えど、もう二度と召喚すまい。
「しかし、ルウ、お前は古代語も解読出来るのだな」
「エヴィン家には古代語の解説書もありましたので、それでですね」
「さすがは私の婚約者だ、意外な所で稀有な才能を見せる」
メフィストさんにおだてられ、気恥ずかしくなった。
「他の召喚魔法は試してみたのか?」
「いえ、その……」
ユルシアをちらりと見ると、私の顔に何かついてる? と言いたげだった。
「他のものに関しては、万が一の事態に備えた方がいいのかと思って、試してません」
「そうか。まぁ例え実験してみた所で、不発に終わるのは目に見えている」
「どうして断言できるのですか?」
「ユルシア、私のこれまでの研究論文をルウに渡しておいてくれ」
問うと、メフィストさんはユルシアにそう言い付けた。
「その年で古代語を解読できるんだ、お前ならきっと論文内容も自ずと理解できるようになる」
メフィストさんの古代魔法式に関する論文か。
興味あるかないかと言われれば、俄然ある。
これまで一生使えないと思っていた魔法。
魔法が使えない事情によって、僕は辛酸を舐めて来た。
しかし、その暗い過去を払拭するチャンスを、メフィストさんは与えてくれた。
ここで怠けるほど、僕は浮かれていやしない。
決意にも似た、明日へと続く希望に心身を燃やしていると。
「……出逢った時とは、面構えが違うな」
メフィストさんは張り切る僕を、優美な微笑みを浮かべ見守っていた。
「せいぜい、頑張れよ」