女親娘子 【上】
こちらは前編です。
今日も夫は家にいない。
私の夫、黒男は外科医を勤めている。腕のある先生らしいので自宅にいることは少ないが交際当時から理解してはいたことだし、10年以上もそんな生活をしている今でも、私は夫の愛を感じている。
由紀はいつも通り冷蔵庫に入っている余りものの炊き込みご飯とサラダでお昼を済ませた。だんだんと日差しが強くなってきて半袖でも肌寒くならない程度に気温も上がってきたようだ。庭に目をやると芝生がいつもより青々しく見えるのはそのせいだろう。植えている月見草も蕾が出てきている。テレビをつけると通販番組でルームランナーの紹介がされていて、それをなんとなく観る。毎日の何も不自由のない暮らし、これが幸せである事を私は身に染みて感じている。そんな無機質な考えを否定するものは、この家には私自身以外にはない。
食器を洗い終え、乾いた洗濯物を取り込みにベランダへ行こうとした時、ピンポーンとインターホンの音が鳴り響いた。
「はーい。」
どうやらお客さんが来たようだ。久々に人と顔を合わす。
どうせ郵便だろうと思いながらも小走りで玄関へ向かった。
ガチャリ...
「由紀ちゃん!ひっさしぶり!」
扉を少し開けたところで顔を覗かせてきたので驚いたが、訪ねてきたのは香苗おばさんであった。
「おばさん!」
「随分といいお家に住んでるのねぇ、流石お金持ちはちがうわ。」
「今日来るなら知らせてー、なにも用意してないよ。」
「いいのよぉ、あんまり長居はしないからね。」
何やらここに来るまでに道に迷ったのだろうか、額に汗をかいている。
引っ越しをしたので以前送った手紙に住所と地図を描いておいたが大雑把すぎたのかもしれない、と申し訳なく思う。
「さぁ、あがってあがって。」
香苗おばさんをリビングに招き入れ、私は冷蔵庫に冷やしてある自家製の梅ジュース原液にキンキンに冷えた氷と水を注いでかき混ぜる。カラカラとかき混ぜながら、荷物をソファの上に容赦なく投げ置く豪快な彼女を見て、変わってないな、とすこし安心した気持ちになった。彼女はなにやら物珍しそうに家の中を物色し始めている。
「ほんとに長い間会ってなかったわねぇ、いつの間にかこんなおっきい家に住んじゃってー。私も昔はこんな家で生活することに憧れたわ、あんな主人だと夢のまた夢だったけど。まあでも旦那さんがお医者さんでも大変なことは多そうね~、特に夜の方な・ん・か。」
ニヤニヤしながら私を見ているのが分かるが、いつも通りここは振り向かない。
彼女の相変わらずのマシンガントークを確認し、おじさんをかわいそうに思う。
「全然帰ってこないからね、帰ってきてもすぐ寝ちゃうし。」
「子供はー?どうするのよ。」
「わからないわ、今は多分つくらないと思う。」
私にはあの女の血が流れているから。心の中でそう思いながら2人分のグラスを机に運ぶ。
「もうそろそろちゃんと考えないと、体力も落ちてきちゃうんだし。」
「まあ、黒男さんもそこまで欲しいわけでもなさそうだから。」
ふーん、と何か不服そうな顔をしながら「ありがとっ」と言って梅ジュースを口に運ぶ香苗おばさん。彼女には私が10歳の時、あの女と絶縁してからお世話になった。子供のいなかった彼女の家庭ではまるで本当の子供のように私の面倒を見て愛してくれた。私は『香苗おばさん・弘樹おじさん』と二人のことを呼んでいるが、同じく本当の両親のように二人を想っている。
「それはそうと、今日はどうしたの??」
「ううん、これといった用事はないけど最近はどうしてるのかな~って思って来ただけよ。いつもは仏頂面の夫も心配してたからね。」
目を逸らすように彼女はそう言った。おばさんはいつも言いづらい話の時は目を逸らす癖がある。
そういうことか、と察した私は、
「でも安心したわ、生活にはもちろん困ってなさそうだし、こんなにきれいなおうちに住んでるんだもの。旦那に言ってこれからはこの家に住んじゃ...」
「おばさん、、、またあの人が来たの?」
彼女の言葉を遮るように尋ねた。
香苗おばさんは苦笑気味に
「、、、やっぱり由紀ちゃんには嘘はつけないね。」
そう呟き、溜め息交じりに答えた。
「そうよ... また、同じ話だわ。」
自分の疑念が如何せん的中してしまったことに愛想を尽かすと共に、形容し難い嫌悪感が再び体の底から溢れ出しそうになる予感を私は感じていた。
「やっぱりね。でももう断って、あの話は。」
「でも由紀ちゃん、、、お母さんも本当に悪く思ってるみたいだし、一回だけでも顔を合わせて話し合ったほうがいいんじゃない?」
あんなやつ、お母さんじゃない、、、
「悪く思ってるんだったら、私に一生顔を見せないでほしいわ。」
香苗おばさんも、私の躊躇のない言葉に黙り込んでしまった。
10歳の私が家出をするまで、血縁上の母親は私をまるで物のように扱って来た。彼女は夜遅くに帰ってくるのでご飯はインスタントものやコンビニのものばかり。不機嫌な時は私を怒鳴って、引っ叩いた。父親なんか顔すら見たこともない、ギャンブルに依存していて私が生まれてすぐに逃げたらしい。たまにアパートに恐い男の人が来たので、その時は近くの公園に行かされた。だけれど私は恐い人にいっぱい来て欲しかった。学校にも行かせてもらえず、狭いアパートと窓から見えるアスファルトの道路、それに近くの小さな公園だけが知っている世界の全てだった私は、公園に咲いている月見草を見ることだけが唯一の楽しみだったから。
ある時、彼女がしばらくアパートに帰って来ない日が続いた。よくあることだったが3日を過ぎても帰って来ないのは初めてだった。机の上のコンビニ袋に入ったおにぎり二つは食べきってしまい、倒れそうなくらい空腹だった私は初めて自分から外に出た。何をどうすればいいのかも解らない。とにかく歩き続けるしかなかった。通り過ぎる人達が私を横目で見ていたのを未だに憶えている。髪はボサボサ、服はボロボロの子供が歩いていたらそうはなるだろうが、大人たちの目を私はただ恐がった。
そんな時に、「どうしたの?お家はどこなの?」と声を掛けてくれたのが香苗おばさんだ。私はあてもなく歩いていたので「とりあえず、おばさん家に行こっか。」という優しい言葉に、押し潰されそうだった心が一気に救われた。家に着いて色々話したあと、日が落ちてきたので一緒にご飯を食べることになった。
何年ぶりかに誰かと一緒に食べた温かいご飯は本当に美味しくて、私は泣きじゃくっておじさん・おばさんを驚かせてしまったことは成人してから聞いた話だ。
私にとっては血の繋がりなんて関係ない。
おばさん・おじさんが本当の両親だ。
あんなやつは勝手に野垂れ死んでしまえばいい。
「どうして今更。」
私は吐き捨てるように言った。あの頃の記憶が蘇るだけで腹の底から行き場のない怒りが沸く。
「あの人、何回も来るのよ。一度でいいので会わせてくださいって。うちの旦那がいつも追い返すんだけどね。私、なんか可哀そうになってきて...。」
「おばさんまで!」
「いや違うのよ!ただ、、、もし私に子供が生まれてきて、その子と一生会えないとしたら、本当に苦しくて辛いだろうなって思っちゃうの。」
っ、、、私は言葉に詰まった。香苗おばさんは子供を流産で一人亡くしてしまっているのだ。彼女の明るすぎるくらいの性格は、きっとその悲しみを上塗りするようなものだと理解している。だからそんなことを言われてしまっては、何も言えなくなってしまう。
「私ね、由紀ちゃんのことを本当の子供のように想ってきたわ。親子は血縁なんか関係ない、私は本当の母親以上の愛情をあなたに注いできたつもり。だから分かるの、子供に会えない辛さが。子供に会えなくても悲しくない母親なんていないのよ...。」
私達の間に沈黙が続いた。
あの女の絡む話になると必ずこうなる事を私はよく分かっていた。
「私もう帰るわね!あんまり長居しちゃうとあの人うるさいし。母親に会うかどうかはまたゆっくり考えてみて、何より由紀ちゃんのためにもね。」
そう言って香苗おばさんは浅めに座っていたソファから立ち上がり、私の見送る間もなく帰ってしまった。
ガシャン...
扉の閉まる音と同時にいつも通りの静寂が部屋を支配した。
右手で髪をかき分けてソファに深く座り込む。
どうしようもない怒り、それに反する自分への捉えようの無い胸のつかえが、私の平静を取り戻せなくさせている。
「、、私は、、、、。」
もしよろしければ後編もお読みください。